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 今回の『鉄道さんぽ』は、久し振りに大手私鉄の路線を取り上げたいと思います!…しかも、この企画始まって以来の、東京以外の大手私鉄の路線です。前々から関西方面の大手私鉄の路線を取り上げたい気持ちはあったのですが、規模が大きい為に取り上げる項目も多くなってしまう部分があり、時間的に厳しく断念してしまうケースが多々ありました。しかし、こういった路線は地元との結び付きが強く、その土地の文化を感じられる路線でもあります。自分的には慣れない土地ではありますが、私鉄ならではの独自の特徴が表れ、時間は掛かるも“さんぽ”の価値は大きく有りそうです。
 そこで今回は、名古屋を代表する大手私鉄、名古屋鉄道(以下、名鉄)の、犬山線を取り上げたいと思います。名古屋を含む関西の大手私鉄のメイン路線は、付近のJR路線と競合しているケースが多く、名鉄も本線が正にそうなのですが、この犬山線は例外で、競合する路線が他にありません。いわゆる、名古屋市内と愛知県北部のベッドタウン各都市とを結ぶ性格が強く、更には沿線の犬山市には日本ライン(木曽川)や犬山城、日本モンキーパーク、明治村等の観光施設も多く、観光路線としての性格も持ち合わせています。
 ある意味で東京の大手私鉄の路線に似ている境遇とも言え、東京以外の大手私鉄路線を取り上げる最初の路線として、まずはその第1歩として相応しそうです。また、名鉄は多種多様の車両が存在している事で有名ですが、それは既に自分の範疇を越えており(笑)、ここで1度、自分の為にもおさらいしておきたいという気持ちもありました。また、名鉄の代表的にな特急車両、1000系、1200系『パノラマ super』のリニューアルが昨年から行われており、外観塗装の変更等、名鉄は新しい時代に突入しているような印象も受け、取り上げるタイミングも丁度良いと思いました。
 そもそもが、市内電車で創業した名古屋電気鉄道(1894年設立)というのが名鉄の前身の企業(現在の名古屋市営地下鉄の前身でもあります)の1つとなっていて、この路線は市内だけでなく、郊外路線も愛知県西部方向に拡大させていきました。その後、大正時代になってからは市内線(路面電車)は市営化の機運が高まり、1921年に郊外路線を名古屋鉄道(初代・後の名岐鉄道)に譲渡させ、現在の犬山線の基盤が出来上がります。この時、本線との分岐点である枇杷島橋駅(現、枇杷島分岐点)から岩倉駅を通って東一宮駅までを一宮線、岩倉駅から分かれて犬山方面に向かう路線(1926年には、犬山線の終点の新鵜沼駅に到達)を犬山線としていましたが、1941年に新名古屋駅(現、名鉄名古屋駅)が開業してからは枇杷島駅〜岩倉駅間が犬山線に編入され、現在の犬山線の路線が出来上がりました。
 路線の高速化は早く、1968年には当時の本線と同等の110km/時に引き上げられていますが、現在もそのまま推移しています。列車種別の変遷は車両と共に多義に亘っていて、ここで説明するのは紙面が足りないくらいですので(笑)、“さんぽ”時にその都度説明していきたいと思いますが、大きく分けると、中部国際空港へ直通する全車特別車のミュースカイ、一部特別車専用の車両が使われる、快速特急と特急、一般車が使われる快速急行、急行、準急、普通、そして地下鉄鶴舞線直通用の急行(平日、朝の下り列車のみ)、普通…という感じです。勿論例外もあり、普通列車に一部特別車の車両が使われる事もありますが、これはレアケースです。
 …と、既に複雑な感じになっているのですが(笑)、掘り起こせば掘り起こす程、その路線の独自性が表れてくるのも、大手私鉄の路線ならではです。実際、名鉄自身が特徴の多い鉄道でもあり、自分も個人的にとても好きな鉄道会社の1つであるので、ここは楽しく、その独自性と向き合っていきたいと思います。その想いに応えてくれるかのように、当日の名古屋はお昼過ぎまで降水確率100%の予報だったのですが、東京から新幹線で名古屋に到着した際(朝9:30頃)には既に雨は降っておらず、“さんぽ”中には見事に晴れ間が広がる!という天気にもなりました。そんな天気の変遷もお楽しみ頂ければと思います(笑)。それではどうぞ御覧下さい!


 ●日時…2016年4月17日 ●距離…26,8km ●駅数…17駅

 犬山線の起点は、本線から分岐する枇杷島分岐点という場所からになりますが、列車は全て本線に直通して名鉄名古屋駅方面に達しているので、やはり名鉄の大拠点である名鉄名古屋駅を取り上げないわけにはいかないでしょう。

    

 1941年の開業当初から地下駅である名鉄名古屋駅は、両隣りに近鉄線や地下鉄線の構造物に挟まれている為に空間に余裕が無く、プラットホームは上下各1線を3面で挟む配置となっています。いわゆる通過型のターミナルで、殆どの列車は名鉄名古屋駅を越えての運転がされていますが、そもそも上下線間に渡り線や引き上げ線も無いので、設定自体が難しいという事もあるでしょう。当駅と、JRや地下鉄の名古屋駅、近鉄名古屋駅と併せて、名(めい)駅と呼ばれていて、実際、駅周辺の地名にもなっています。
 開業以来、長らくは新名古屋駅という名称でしたが、2005年の中部国際空港の開業を前にして、名鉄電車の名古屋における中心駅…というのを分かりやすくする為、名鉄名古屋駅に改称されました(確かに新名古屋駅…ですと、新幹線の新横浜、新大阪、新神戸みたいで、新幹線の駅名らしいイメージを抱く方もいるかもしれません)。

    

 ここから延びる路線は多種です。上下各1線しか無いので、初めての方は、犬山線方面に向かう列車を探す方が困難かもしれません。ひとまず1番線から発車はするのですが、この1番線からは“岩倉・犬山・可児”方面の他に、本線の“一宮・岐阜”方面と、津島線の“津島”方面も頻繁に列車が発着するのです。名鉄の路線は名鉄名古屋駅を軸に、その先で色々と枝分かれしていくような路線形態を持っているので、このような状態になってしまうのですが(その代わり、遠方から名鉄名古屋方面に向かう場合は、殆どの列車が名鉄名古屋駅に到達します)、とにかく多方面への列車を捌く為に、同じ1番線でも、乗車方法、乗車位置、列車案内等が工夫されてアナウンスされており、これは名鉄名古屋駅名物の風景でもあります。

    

 あまりに列車本数が多く(全ての列車を合わせると、片方面だけでも1〜3分毎に列車が発着しています…しかも、ほぼ一日中です)、構内放送は自動化しきれず、放送ブースも上下線で分けられ、そのブースはホームからも見る事が出来ます(左上写真参照)。また、時刻表も1つのものにまとめず、方面別で表示されます(右上写真参照)。

    

 ホームは少し長めにとっており、スムーズに列車が発着出来るように、構内の真ん中にも信号機が設置されていますが、駅構内には1つの列車しか入れないようなシステムになっています。また、写真を見ても分かるように、1面3線のホームなので、名鉄名古屋駅到着時は両側の扉が開き、少しでも乗降をスムーズにするようにしています。また、上下線に挟まれたホームに関しては降車用、そして特別車用の乗降用に使っています。
 とにかく、慌ただしい駅です。何しろ、時刻表上でも常に2分毎に列車の設定があるくらいですから、なるべく列車の停車時間を短くさせ、後の列車の時刻に影響が出ないようにしているのです。それでいて名鉄の車両はバラエティー豊かでもあるので、ここに30分ぐらい居て、ただ列車の動きを見ているだけでも、名鉄らしさが伝わるのではないかと思うくらいです…(笑)。そんなエキサイティングな名鉄名古屋駅が自分は昔から大好きであり、まだまだ居たいくらいのですが、今回は名鉄犬山線の回なので、先に進むとします(笑)。

    

 名鉄名古屋駅を出発すると地上に出て、栄生駅、東枇杷島駅と続き、庄内川橋梁を渡ると枇杷島分岐点で本線と分かれます。ここが正式な、犬山線の起点となります。枇杷島分岐点には駅はなく、全ての列車が通過となりますが、1949年まではここは特急も停車する枇杷島駅という駅であった為に、同駅の廃止後も運賃計算上の箇所として扱われているという感じです。実際、犬山線と本線を跨いで乗車する時には、東枇杷島駅や、栄生駅、名鉄名古屋駅等で乗り換える事になりますが、計算上はこの分岐点で乗り換えたものの距離として算出されます。

    

 ここでの分岐は、大都市に見られるような立体交差の分岐ではなく、路面電車等でよく見られる平面分岐。ここで終日2〜3分毎に走る列車を2方向に振り分けているのですから驚かされますが、住宅密集地である事や、橋梁を越えてすぐ分岐という環境、本線はこの先にJR線の高架線の下を潜らなければならない…等、改良しようにも簡単に出来ないという事情が多く、まだ暫くは現在のままで推移しそうです。
 上写真で見ると、右奥に向かうのが犬山線で、左奥に向かうのが本線となりますが、遅れが発生すると左上写真のように、分岐点を横切る列車を待避する為に、分岐点手前で停車しなければならない列車が発生してしまいます。この時も強風の為にダイヤが若干乱れていたので、そんな列車を数多く見掛けました。ここもまた名鉄名古屋駅と同様、エキサイティングなポイントだと言えると思います。

    

 枇杷島分岐点を過ぎ、普通列車しか停まらない下小田井駅、中小田井駅を過ぎると、地下鉄鶴舞線と合流して、快速急行・急行停車駅の上小田井駅となります。ここから先、一部の鶴舞線は犬山線に直通運転を行っています。犬山方向にある折り返し設備は、名古屋からの犬山線とは繋がっていないので、これは鶴舞線専用です。
 暫く高架で進み、その高架から降りると、北名古屋市の玄関駅となる西春駅です。同駅は島式2面4線のホーム配置となっていて、普通列車はよく当駅で優等列車の待ち合わせを行います。

    

 ここで、名鉄線の車両を少し紹介しておきましょう。数多くの車種を抱える名鉄線の車両を詳しく説明するのは困難過ぎるので、徐々に徐々にという感じではありますが、まずは犬山線を特徴付ける、鶴舞線直通用の車両である100系(上写真参照)です。名鉄車両は19m3扉が標準ですが、この車両は鶴舞線に合わせて20m4扉の車体となっています。当初は4両編成でしたが、輸送力増強に伴い6両編成化されました。犬山線から鶴舞線へと直通する列車に使われ、その先の名鉄豊田線まで運転されています。

    

 …となると標準車両の説明も必要になってきますが、これがなかなか複雑です。そもそも名鉄の車両は1975年頃まで2扉転換クロスシート車が続き、新製したら優等列車に投入し、後継車両の装備につれて捻出させた車両を広汎に運用する思索が取られてきたので、特急用、一般用という区別の概念がありませんでした(名鉄の特急列車は特急料金が不要で、後に指定席料金という形で“特別車”と呼ばれる車両が造られました)。
 その後、6000系という3扉車が登場しますが、この時もクロスシートは残され、他社私鉄で主流だったロングシート車両は地下鉄直通車両に限定されていました。しかし1980年代になってくると混雑が激しくなって従来の車両では輸送力が不足し、オールロングシートの車両装備が続きます。その後、転換クロスシートとロングシートの両方を配置した車両も出てきますが(下写真参照)、2007年辺りになると、再度、転換クロスシート車両は特急車両のみへの装備となってきていて、他社私鉄と似たような考えになってきたのでした。名鉄のクロスシート主流という考えは、この地区はやはりマイカー普及率が高く、居心地の面を考えての事だったと思われます。

    

 車内の変革も去る事ながら、外観をよく変える事でも名鉄は有名です。塗装に関しても、長らくスカーレット一色を採用してきましたが、最近ではステンレス車両が主流になってきました。ただ、装備につれてのマイナーチェンジが多く、その為に色々な外観の車両が存在するという事にもなっています。

    

 そんなこんなで、岩倉駅に到着しました。同駅はかつて、小牧駅までの岩倉支線と、東一宮駅までの一宮線が分岐していましたが、いずれもバスに転換されています。岩倉市の玄関駅という事で、全車特別車のミュースカイも停車し、名鉄名古屋からの普通列車の約半数と、日中の鶴舞線からの列車は当駅で折り返します。
 写真の通り、天気も完全に晴れまして、この先、柏森駅から扶桑駅まで“さんぽ”しましたので、ここでの写真を見ながら、また車両解説をしていきたいと思います。

    

 まずは2200系(右上写真参照)です。中部国際空港が2005年2月に開港されるのに先立ち、名鉄空港線の開業の同年1月に運行を開始した特急型車両です。塗装は違えど、これとほぼ同じ外観のミュースカイ(後述)が全車指定席の特別車で構成されているのに対し、こちらは一般車4両を連結していて、特別車2両と共に6両編成が基本編成で運行されています。これらは外観上のデザインは揃えられていますが、車内は特別車(左下写真参照)、一般車(右下写真参照)で雰囲気はだいぶ異なります。
 名鉄は、一時期は特急は全車特別車で、特急と同じ停車駅で一般車タイプの車両で運行の種別を“高速”と分けて設定していましたが、これらを“特急”として統合し、1つの列車に一般車と特別車が存在する編成に変えてきました。当初は本線だけの設定でしたが、犬山線も含め、支線である路線にも波及。全車特別車はミュースカイだけの設定となって現在に至っています。ちなみに2200系は、2015年に登場した3次車は、若干のデザイン変更が加えられています。

    

 前述の、一般車と特別車の混在する編成として最初に登場したのが、1000系、1200系です。当初は特別車のみ1000系4両編成として登場しましたが、後に1000系とデザインを揃えた一般車1200系を製造し、1000系は前後2両ずつに分け、4両分の1200系と連結して6両編成の電車が出来上がったのでした。この時、特別車の向きは全て豊橋方向になるように揃えられています。

    

 左上写真の特別車仕様が1000系、右上写真の一般車仕様が1200系です。共にこれらの車両は『パノラマ Super』という愛称が付けられています。かつての名鉄の代名詞的な列車でもあった『パノラマカー』の後継としての位置付けがなされていたのだと思います。これらの車両は最近、リニューアル化が進んでおり、塗装も大幅に変更。『パノラマ Super』と表示されていた部分も、LED行先方向表示器が取り付けられました(左下写真参照)。…とは言え『パノラマ Super』という呼称も継続しています。また、リニューアルを機に編成全体の総称を1200系としました。より複雑になったような気もしますが…(笑)。

    

 特急に使われる車両はひとまず以上にして、今度は急行や普通列車に使われる代表的な車両である6000系を紹介しておきましょう。6000系が登場したのは1976年で、これが戦後の名鉄で初めての本格的通勤新造車だったので、他の大手私鉄に比べるとだいぶ遅い投入である事が分かりますが、それでもクロスシートは残されました。しかし、これが普通の座席より若干サイズの小さいもので、クロスシート部分は固定され、中央扉を境に車端を向くように配置されました。その後、回生ブレーキ付きの6500系へ移行。この時に正面のデザインが変えられ、左下写真のような顔付きになりました。こちらは4両固定編成が6500系で、2両固定編成が6800系と呼ばれます。

    

 1989年から製造された車両からは大幅に車体構造が変わり、後述する3500系のようなデザインになりました。座席の形状やシートピッチの拡大、また、車幅自体も若干広げられています。その後も6000系列の装備は続けられていきますが、ついに1991年にの装備車からオールロングシート車が登場します。やっと(笑)文字通りの通勤車がデビューするわけです。

    

 その後、この6000系列の最後のデザインを引き継ぎ、VVVF インバータ制御、電気指令式ブレーキ等の新機軸を導入して登場したのが上写真の3500系です。車内は、立ち席スペースを更に拡大させたロングシート車となっており、ラッシュ対策の究極の形まで持っていったと言えましょう。その改良版として、車体断面を卵形の形状から、側面を垂直の角張った形状に変更させて屋根の高さも上げたのが3700系、その2両編成バージョンが3100系となります。3500系列の最終装備は2000年の事で、その後の一般車はステンレス製の車両の製造になるので、名鉄のスカーレット色の新造車は、今のところこの系列で最後となっています(改造車は存在します)。
 これら6000系列、3500系列は、当初は犬山線に優先投入されていました。前述したように犬山線が競合路線がなく、特にラッシュ時の混雑は相当なものだったようで、常時10分弱の遅れが起きていたようです。それらの列車を6000系に置き換える事で、遅れが発生する事は殆ど無くなったそうなので、やはり通勤車投入の効果は絶大だったと言えるでしょう。現在、6000系列の初期の車両の殆どは改造の上で三河線や瀬戸線等の支線に転用され、犬山線等の本線系列で見れる機会はグッと減っています。

    

 最後に、左上写真の5700系(この他、車体は5700系と同じで、台車や電装品を流用させた5300系という車両もあります)も紹介しておきましょう。こちらは1986年に登場した車両ですが、6000系と違い、高速・急行列車用にターゲットを絞って造られた車両です。故に、2扉転換クロスシートという車両になります。…登場時は、特急列車の合間を縫って走る高速・急行列車の近代化に貢献し、名古屋本線の主力車両として活躍しましたが、特急用として前述の1200系の登場(高速➡特急に1本化)に伴って第1線からは退かざるを得ず、その後にパノラマカー等の車両が全廃されると、特別車以外の2扉車は本系列だけになりました。現在では、ラッシュ時の邪魔にならないよう、どちらかというと普通列車メインで黙々と走り続けている感じです。一部車両は既に廃車も出ており、名鉄の最後の“豪華な一般車”として、記録に留めておきたいものです。…そんなこんなで、扶桑駅に着きました。

    

 
木津用水駅を出て犬山市に入り、犬山口駅へ。そして右から小牧線(右上写真参照)、広見線(左上写真参照)が合流すると犬山駅となります。ここは運転上のの拠点駅であり、列車が頻繁に発着します。この先、犬山線の終点の新鵜沼駅から先は各務原線となりますが、それらの列車も犬山駅を始発・終着としているものが多く、犬山線の普通電車も当駅を始発・終着としているものが多いです。また、地下鉄鶴舞線からの列車は、この犬山駅より先には基本的には運行されません。勿論、路線上の起点・終点である小牧線や広美線もここを始発・終着としているので、つまりは犬山駅は、4方向の電車の始発・終着駅という機能を有している事が分かります。


    

 犬山市の玄関駅であると共に、観光の拠点ともなっていて、その中でも犬山城の知名度は群を抜いています。犬山城へは、この先の犬山遊園駅の方が距離的には近いのですが、犬山駅からは犬山城下町通りとして徒歩街道が整備されているので、こちらのルートの方がお勧めです。

     

 そして、その犬山遊園駅へ。元々は日本モンキーパークへのアクセス駅で、モンキーパーク園内までの犬山モノレールが発着していましたが、老朽化の為に2008年12月に廃止されてしまい、現在は犬山駅東口からバス利用となっています。観光駅らしく、駅構内は広めにとられていますが、犬山線の駅では犬山口駅の次に利用者の少ない駅です。それでも全種別の列車は停車するので、例えば名古屋方面からこの先の岐阜方面に乗り継ぐ場合、犬山駅や新鵜沼駅では階段での乗り換えが発生する場合が多いのに大して、当駅はシンプルな配線故に必ず同じホームで乗り継げるので、改札を通らずに当駅で乗り換える乗客が一定数いるのだとか…。

    

 犬山遊園駅を出ると、すぐに木曽川橋梁を渡ります。この橋はかつて、路面電車のように道路に線路が敷設されていて、しかもその道路は幹線道路でした。最大8両編成の列車が頻繁に行き交う割りには橋梁は狭く、電車の通行が車の通行の妨げとなり、そこで発生した渋滞が今度は電車の通行に妨げに…と、運行の妨げになる事が多かったのですが、2000年3月についに道路専用の橋梁が架けられ、旧橋は鉄道専用橋となったのでした。その後、この橋は改良され、かつての面影は殆ど残っていません。

    

    

 中部国際空港からの全車特別車ミュースカイ(右上写真参照)も、この橋梁を渡ります。進行方向左手には、木曽川沿いの丘の上に犬山城が臨めます。犬山城は個人的にもまだ行った事が無かったので、今回、思い切ってそこへも“さんぽ”してみました。なかなか大変でしたが(笑)、天守閣からの眺め(左下写真参照)もまた格別でした。写真の木曽川を挟んで右側に犬山遊園駅があり、左側が岐阜県鵜沼市となります。

    

 つまりは木曽川を渡ると、終点の新鵜沼駅はすぐになります。構内は広く、3面5線もあり、以前はこの先のJR高山本線へ通じる短絡線があり、名鉄名古屋駅発着の特急『北アルプス』号が乗り入れ、高山方面まで通じていました(2001年に廃止)。この駅のすぐ先に見えるのがJRの鵜沼駅です(右下写真参照)。

     

 ホームの3番線〜5番線は行き止まりとなっていますが、1、2番線の線路はこの先も各務原線として続いてきます。こちらの路線は新鵜沼駅を出ると、すぐにJR高山本線と併走し(左下写真参照)、この競合は終点の新岐阜駅(JRは岐阜駅)まで続きます。

    

 これで犬山線の“さんぽ”は終了となります。名鉄は鉄道会社としての規模が大きく、故に車両やそれぞれの路線を取り上げるだけでも大変な作業となってしまいますが、少しでも名鉄の魅力が伝わって貰えたら幸いです。勿論、名鉄の路線はこれだけではなく、他にもとても魅力的な路線が揃っています。これらの路線もいつか取り上げられたらと思いつつ、その頃にはどのような車両が主力として走っているのか、興味が尽きません。まずは自分に…お疲れ様でした(笑)!

 ☆名古屋鉄道のHP…http://top.meitetsu.co.jp/

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 2016年最初の『鉄道さんぽ』。今度はJRの路線から進めていく年となりまして、今回はJR東日本の路線である水戸線を取り上げます。水戸線は、栃木県の小山駅と茨城県の友部駅を結ぶ路線で、北関東を横断する路線の1つでありますが、元は水戸鉄道という私鉄で、後に日本鉄道に買収、その後国有化されて現在に至っています。水戸鉄道時代に小山駅〜水戸駅までの開業をさせて、その路線を持っていましたが、後に現在のJR常磐線が開通し、友部駅〜水戸駅は常磐線に編入…、故に水戸線と名が付きながら、水戸駅を通るどころか、水戸市域内すら通らない路線となりました。
 全線で電化がされていますが、電化の方式に特徴があり、小山駅付近のみ直流1500Vで、それ以外の区間は交流20000Vの区間となっています。これは茨城県石岡市付近に気象庁時地磁気観測所があり、それまでの鉄道で一般的だった直流電化を流すと、レールに流れる電流が地上に漏洩して地磁気観測に影響を与える為との事ですが、これは近くを走る常磐線の取手駅以北も同じ事情で、この付近に交直流の境目があります。故にこれらの区間を走る車両は交直両用の専門の車両が使われており、水戸線と常磐線の取手駅以北まで到達する車両は共通の部分が多いです。
 現在、常磐線の上野駅まで到達する交直両用一般型電車は、グリーン車を連結するE531系に統一されましたが、それまでは415系という車両が主流でした。これは国鉄時代に登場した車両で、常磐線の上野駅で見られなくなってからは土浦駅以北や水戸線で見られるのみとなっていましたが、ついに2016年3月26日のダイヤ改正で、これらの路線から415系を引退させるとのアナウンスがありました。今回、水戸線に白羽の矢を立ててみたのは急遽でもありましたが、そんな理由があったからです。
 前述の通り、現在415系は常磐線では土浦駅以北しか運用されていないので、常磐線の交直流の境目は通りません。こういった交直流の境目には電気の通ってない区間を少し設けていて、それをデッドセクションと呼んでいます。ここでは異なる電化方式を、車両を走らせながら切り替えるという事情から、いったん電気の通わせない時間が起こり、その時には車内灯等も消えていたものでした。しかし、E531系等の最近の車両では蓄電池からの供給が行われるらしく、車内灯は基本的には消えない事になっています。要するに415系が引退してしまうと、車内灯が消えるという体験はこの付近では見られない事になってしまうわけで、これはまたひとつの、昔の鉄道車両の風物詩が消えてしまう…と言っては大袈裟でしょうか(笑)。とにかく、それを体験すべく、久し振りに水戸線に乗ってみました。
 E531系自体は、2015年1月31日までは当線での定期運用は無かったのですが、今では7割以上はE531系での運用となっています。ダイヤ改正の3月26日は、更にその純度は上がる事でしょう(他に、E501系という車両での運用が僅かにあります)。国鉄時代から走り続けた415系には自分も愛着があり、それはどちらかというと常磐線での活躍に馴染みがありましたが、場所を変えて最後の水戸線での活躍を見るのもまた一興だと思いました。それらの背景も含めた水戸線の“さんぽ”を、どうぞ楽しんで頂ければと思います!


 ●日時…2016年2月6日 ●距離…50,2km ●駅数…16駅

 JR東北本線に乗って、上野駅方面から小山駅へやってくると、右側からJR水戸線の線路が近付いてきて小山駅へと入ります。つまり、上野方面から水戸線方面へは、小山駅で進行方向が逆になる配線で向かうわけです。現状、こうした直通運転の定期列車は設定されていないのでこれで良いのですが、以前、貨物が設定されていた時には、上野方面から、小山駅を通らずに直接水戸線に入れるように短絡線が設けられていて、今でもこの痕跡を見る事が出来ます(右下写真参照…線路は水戸線で、右奥に小山駅があります)。

    

 小山駅には、今回お目当ての415系1500番台が早速停車していました。そして前述したデッドセクション区間を見るべく、次の小田林駅まで“さんぽ”してみましょう(今回、列車本数の少なさから、上下列車どちらも使って、行ったり来たりの“さんぽ”をしましたが、文章的には一方向で進めていきます)。…水戸線の線路は東北本線と分かれて暫くすると、先程説明した短絡線(線路は既に撤去済み)と合流し、進路を東に向けます。その後は直線が続きますが、その途中にデッドセクションは存在します。

    

 電車に乗っていると、ある程度スピードを出したところで、急に電源がオフにでもなったような雰囲気が車内を包みます。実際、電車は交直切替の為のスイッチを入れており、ここからは惰性で走ります。この時、415系ですと右上写真のように非常灯を除いて車内灯は消えるので、デッドセクション突入への準備に入った事が分かります。デッドセクションの長さは約50m程なので、惰性でも十分通過出来るわけで、暫くするとまた電源が入ったような感じになり、車内灯も明るくなります。これで無事に、直流から交流への移行が終了となります(逆方向も同じ行程を辿ります)。

    

 この区間を外から眺めてみると、確かに架線が普段とは異なっている事が分かります。つまりは配電されていない区間という事で、走る電車を見てみても、車内灯だけではなく、前照灯も片方しか点いていない事が確認して頂けると思います(左上写真参照)。しかし、これが最新鋭のE531系になりますと、車内灯も前照灯も点いたままになるので、この様子が見れるのもあと僅か…という事になりましょう。前述もしましたが、昔からあった鉄道の風物詩が見られなくなるのは、何となく寂しい感じもするものですね…。

    

 …“さんぽ”を続けます。ここまで、415系ばかりの写真ではありましたが、実際にこの日時点で水戸線を走る車両と言えば殆どが左上写真のE531系で、415系はもう少数派という状況でした。その415系も、今度の3月26日のダイヤ改正で引退となります。現在の水戸線を大いに楽しんでおこうと思います。
 線路は栃木県から茨城県に入って、小田林駅に着きます。1面1線ホームの駅で、列車の行き違いは出来ません。また、2014年3月15日のダイヤ改正までは、朝と深夜の一部の列車は当駅を通過していました。そしてこの次の駅が結城駅となります。水戸線の中間駅としては唯一の橋上駅舎の駅です。

    

 その後、東結城駅(小田林駅と同じく、2014年3月15日のダイヤ改正まで、朝と深夜の一部の列車は当駅を通解していました)と続き、そこを過ぎると鬼怒川を渡ります。結構長い橋梁の割りには、トラスの無いスッキリとした外観なので、臨時列車等がここを通る時には格好の撮影ポイントになる事で有名です。

    

 鬼怒川を渡ると川島駅に着きます。駅構内の北側は広い空間になっていますが、これは、この先の太平洋セメント川島サービスステーションへの、かつて専用線の名残で、1997年頃までは秩父鉄道からのセメント輸送列車が運行されていたようです。現在でも少しその面影を見る事が出来ます。

    

 そして、1面1線ホームの玉戸駅を過ぎ、下館駅に到着します。真岡鐵道、関東鉄道と連絡をしている駅で、水戸線の列車も一部、当駅発・当駅止まりが設定されています。3線も乗り入れているので、構内はバラエティに富んでいますが、それに一層華を添えるのが、真岡鐵道で時折運転されてる蒸気機関車『SLもおか』号でしょう。今でこそ、臨時で走る蒸気機関車は珍しくはなくなりましたが、それでもこうして間近でSL列車を見れるというのは、気分も高まるというものです。関東圏内で、わりと手軽に足を運ぶ事が出来るので、是非ともチェックしてみて頂けたらと思います。

    

 下館駅を出ると、徐々に丘陵地帯に入っていきます。…とは言え、それほど山間な場所にはならず、列車はスムーズに運転されます。この先は北関東自動車道と暫く並行するような感じで丘陵地帯を抜け、そして笠間駅に到着します。場所は笠間市。古くから日本三大稲荷に数えられる笠間稲荷神社の門前町として栄えた街です。

    

 ここから次の宍戸駅までも“さんぽ”してみましょう。丘陵地帯を抜けて、そろそろ平野部に降り掛けるような場所でもあるので、この鉄道さんぽと共に、ゴールに近付いていく感じがありました。殆どが国道355号線と並行している区間で、その後国道と分かれて小さな集落に入っていくと、片面1面1線の宍戸駅に到着しました。

    

 さて、宍戸駅を出発すると、進行方向右手からJR常磐線の線路が合流してきて、程なく水戸線終点の友部駅となります。こちらは直線で進入していて、常磐線の方がカーブしてきて合流するのは、歴史的に水戸線の路線の方が古いからでもあります。…とは言え、ここから先は現在では常磐線の線路…。水戸線と名が付くのに、水戸駅を通らない路線となってしまっていますが、列車の半分以上はそのまま常磐線に入り、水戸方面へ直通運転されています。

    

 ここで見る車両は常磐線も含めて、特急列車がE657系、そして普通列車がE531系が殆どで、415系や、時折見るE501系は本当に少数派です。これで415系はあと数ヶ月の活躍となっているので、それ以降は更なる車両の単一化が起こりそうです。車両の近代化と共に失われていく、鉄道の昔ながらの風景。それは、友部駅がいつの間にか非常に近代的な駅に生まれ変わっていたのを見ても思いました。確実に鉄道の変化は進んでいます。こうした変化を見届ける意味でも、“鉄道さんぽ”の必要性?を感じたりもしました。2016年の鉄道さんぽも、どうぞよろしくお願いします!

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 2015年最後の『鉄道さんぽ』は、JR北海道の江差線を取り上げたいと思います。江差線は以前、路線の一部区間の木古内駅〜江差駅間が廃止される際に乗りに行き、このブログでも取り上げた事がありますが〔旅日記 45.『あけぼの』号、JR江差線編(2013.4.24)参照〕、廃止後約2年後となる2016年3月26日に北海道新幹線が函館方面まで開通する際に、道南いさりび鉄道という、第3セクター方式の鉄道会社に切り替わるが決定されています。つまり、江差線という路線名はここで途絶え、これまで線内を走っていた特急列車も役目を終え、全て新幹線にバトンタッチされます。
 そもそも江差線自体がローカル線でしたが、この路線が様変わりするのは、青函トンネルが開通した事により、本州と北海道を結ぶ津軽海峡線の、北海道側の接続路線としての役割を与えられた時でしょう。電化や線路の改良工事が行われ、本州と北海道を結ぶ昼行特急の他、長距離寝台特急『北斗星』号、『トワイライトエクスプレス』号、そして長編成の貨物列車が頻繁に往来する路線になりました。その中からすると、ローカル輸送に関しては、日中は1両編成の気動車が何往復かするくらいでしたが、新幹線の開通後は、線内を走る旅客列車はこのローカル輸送のみになるでしょう(貨物列車は存続)。
 もう新幹線の路盤は殆ど完成しており、後はソフト面の完成を待つばかりです。江差線で見られる色とりどりの列車を見られるのも後残り僅か…という事で、今回は遠く北海道まで足を延ばしてみたのでした。江差線内の様子の他に、北海道新幹線の暫定的な終着駅となる新函館北斗駅(現、渡島大野駅)も見てきました。周囲に何も無い所に建てられた巨大な駅は不思議な感じではありましたが、開業まであと3ヶ月というところです。この付近の鉄道事情も大きく変わる筈であり、恐らく最後になるであろう江差線の現在の状況を見るのは、とても大きな意味があると思ったものでした。…もう既に冬景色となっていた函館ですが、さんぽ時は概ね好天にも恵まれました。それでは御覧頂ければと思います!


 ●日時…2015年12月7日 ●距離…37,8km ●駅数…12駅

 場所が場所だけに、函館には前日入りを果たしていましたが、当日の朝を迎える前に、深夜の訪問列車をカメラに収めるという目的もありました。…という事で、深夜1:00頃に函館駅で迎えた列車というのが、夜行急行『はまなす』号です。

    

 青森駅〜札幌駅間を青函トンネル経由で結ぶこの列車は、現在JRで唯一の定期急行列車でもあり、数少ない夜行列車の1つでもあります。機関車が客車を牽引するという、鉄道発祥の頃は当たり前だったスタイルも既に貴重なものとなっており、正に現代に生きる夜汽車に相応しい列車とも言えましょう。車両はかなり年季が入っており、寒さの厳しい北の大地で走り続けた貫禄をも感じさせてくれました。

    

 この列車、自分には馴染みが深く、安く青森〜札幌間を、それでいて夜行時間帯で効率良く移動する事が出来るので、かつて演奏ツアー時に往復で利用した事があったくらいでした〔竹内大輔の写真日記(〜2009)、Generation Gap & The Linda カップリング・ツアー、北海道編(2007.9.13~9.17)参照〕。…とは言え東京から鈍行で丸1日かかって青森駅まで来て、更に夜行列車で札幌駅まで…という行程は身体には堪え、流石に今の自分では出来ないかも…と思いつつ、駅に停車している列車を見ては当時を懐かしんだりしたものでした。これも、新幹線開通時には廃止が決まっています。後少しの間、無事に走り続けてくれたらと思います。

 …夜を明かし、今度は朝一番となる江差線の列車に乗る為に再度函館駅にやってきましたが、ここでもう1つ撮っておきたい列車があります。それが、恐らく御存知の方も多いと思われる、寝台特急『カシオペア』号です。

    

 『はまなす』と違って歴史は新しく、1999年に豪華寝台列車として登場し、1編成のみが造られた為に1週間に上野駅〜札幌駅を3往復するスケジュールが与えられ、瞬く間に人気列車に躍り出た列車です。まだまだ走れる筈ですが、やはり新幹線開通と同時に廃止になる運命にありまして(この車両を使って、別列車の設定が検討されています)、これもまた貴重な写真となる事でしょう。
 このように、まず江差線を語る上で大事なのは、本州と北海道を結ぶ路線…という役割が与えられている事で、それ故に『北斗星』号や『トワイライトエクスプレス』号という寝台特急も、かつてはこの路線を頻繁に走っていた事を忘れてはならないのです。これらの列車も既に廃止されてしまい、『はまなす』号や『カシオペア』号が最後の砦だったわけですが、函館への新幹線開通後は、青函トンネルは貨物列車を除いて、基本的には新幹線車両しか走らせない予定でいるので、ここで思い切った改革が進んでしまいそうです。新幹線ではなく、在来線が本州と北海道を結んでいたという事実を、今回は特に味わう必要がありそうです。

 さて、長くなりましたが、江差線の普通列車に行き、現在の終点である木古内駅までまずは向かいましょう。そこから函館方面に折り返していう形で、今回の“さんぽ”を始めていきたいと思います。木古内駅は既に新幹線の駅が姿を見せており、今後、本州方面へはここでの乗り換えが余儀なくされます。急に巨大で近代的な駅舎が出てきてビックリしてしまいますが、今後はこちらが日常の光景となりそうです。

    

 前述通り、昔は更に江差方面に線路が伸びていましたが、2014年5月12日にその区間は廃止になってしまいました。現在はこの先は、津軽海峡線として青函トンネル方面に線路を伸ばすだけですが、それも新幹線に取って替わられます(…貨物列車は継続するので、線路も一応は繋がったままになる筈です)。…色々な思いが交錯してしまいますが、早速江差線の鈍行列車での“さんぽ”に入りましょう。この路線、日中は青森駅〜函館駅を結ぶ特急『スーパー白鳥』号、特急『白鳥』号等も行き交ってますが、江差線内での途中駅は起終点を除いて停車しないので、今回利用する列車は鈍行列車のみという事になりそうです。

    

 鈍行列車に使われるのは、JRグループ全域で使われる一般型ディーゼル車両キハ40系…。国鉄時代に造られた車両で、その中でもJR北海道のキハ40系は窓が2重になっている等の、北海道仕様の車両となっているのが特徴です。車内は典型的なボックスシートですが、今やこちらも珍しい存在かもしれませんね。所謂“汽車旅”…というのが連想出来そうな雰囲気を醸し出しています。

    

 木古内駅から2駅乗って、泉沢駅へ…。こちらは1両編成ですが、やはり本州と北海道を結ぶルートだと感じさせるのが、長大貨物列車の存在でしょう。鈍行列車に比べれば遥かに列車の本数が多いので、ここでの存在感は大きいものがあります。また、特急列車も軽やかに通過しているのを見ると、今まで乗ってきた列車が1両編成だったのは俄には信じられない気持ちになりますが(笑)、改めて、鈍行列車の利用者減の実態を感じさせてもくれますね…。

    

 この先、列車は海外線に沿ったルートを走り、天気が良いと函館湾の海越しに函館山も臨めるのですが、なかなか函館には近付きません…。丁寧に湾に沿って、ぐるっと半周するような形で函館方面に進むので、暫くは海越しに函館山が見えるような景色が続くのです。当然、江差線からの車窓ハイライトもこの付近なのですが、何ぶんこの区間の鈍行列車の本数が少なく(現在、1日9往復)、“さんぽ”をするにもなかなか大変ではあります(笑)。ここでは路線バスの力も借りつつ、釜谷駅〜渡島当別駅間を“さんぽ”してみました。

    

 釜谷駅舎は、貨物のコンテナを再利用したものとなっており、JR北海道のローカル駅では結構目にします。ここでは、1度列車を見逃してしまうと、次は2時間、3時間後…とかになってしまうので、列車1本1本が貴重です。駅に着くと、2、3人の乗り降りがあるような状況が続いている感じでした。

    

 殆ど国道228号線と並行していますが、早速函館山も見えました(左上写真参照)。東京からずっと列車旅をしててこの区間に差し掛かると、北海道に入ったという実感が強く湧いた事を覚えています。ここを走る昼行特急列車は、殆どがJR北海道車両が担当する『スーパー白鳥』号となりますが、1日2往復のみ、JR東日本485系が担当する特急『白鳥』号も足を延ばします(右上写真参照)。これは本州で活躍する電車が北海道に定期的に乗り入れるという貴重な例でもありましょう。繰り返しになりますが、新幹線開通後のこういった例は、新幹線と貨物列車を除くと皆無となります。

    

 それにしても雄大な景色です。北海道らしい…というのとはまた異なり、函館らしい景色とでも言うのでしょうか。真っすぐな地平線が伸びてという感じではないのですが、荒々しい海と、そこに切り立った丘に列車が走っているという風景は、やはりどこか遠くに来たという旅情が感じられます。今では特急列車も頻繁に走りますが、今後はローカル列車のみが走るという事で、かなりのんびりとした路線になるのではないでしょうか…。運行継続される貨物列車の存在が尚更際立ちそうな感じもします。

    

 渡島当別駅は、可愛らしい駅舎を持った駅でもありました。この駅の近くにトラピスト修道院があり、その最寄りの駅にもなるという事から造られたそうです。郵便局との合築の建物でもありますが、終日無人駅となっています。駅の函館方にはトンネルがあり、トンネル内で上下線の分岐が行われています。これは、江差線が津軽海峡線の一部として使用するに辺り、貨物列車等の待避を考慮して、駅構内の有効長を拡大する工事が行われた為のものです。

    

 この先、茂辺地駅、上磯駅と続きます。上磯駅から函館方面は住宅街が続き、鈍行列車の本数も倍になり、概ね1時間に1本程となります。駅間も短めに設定され、ここから起点駅の五稜郭駅まで5駅で 8,8km という距離ですが、先程の茂辺地駅から上磯駅までの距離もまた、8,8km というものだったりします。

    

 駅間も短いので、上磯駅〜清川口駅〜久根別駅と、2駅分“さんぽ”してみましょう。住宅街や工場が多い中を走るので、先程の雄大さ溢れる景色とは違った世界のようですが、これはこれで地元密着型の雰囲気も醸し出していて興味深いですね。この2つの駅間をまたがっても、距離的には 2.3km というものでした。

    

 キハ40系は非力なので加速に時間が掛かり、この2駅間でも6分程掛かります。加えて単線であるが故、途中の駅での列車交換待ちや特急列車等の待避もあったりするので、上磯駅から五稜郭駅まででも20分以上掛かる事はしばしばで、その遅さが乗客離れの一因にもなっているのは否めません…。第3セクター化を切っ掛けに、鈍行列車の電車化を検討してスピードアップを図っても良いと思うのですが、財政的にも厳しい部分があるのでしょう。ひとまずはキハ40系を譲り受け、現状で推移していくようです。特急列車は全て新幹線に替わるので、その分の待避時間は少なくなりそうですが、今後の路線の発展の為にも、近代化は避けて通れないかもしれませんね。ちなみに現在の特急列車は、この区間を5、6分程で駆け抜けていきます。

    

    

 さて、JR函館本線と合流して、そろそろ起点の五稜郭駅に到着します。江差線の列車は全て函館本線に乗り入れて、この先の函館駅まで足を延ばしていますが、江差線としての起点は五稜郭駅なので、今回の“さんぽ”もここまでとなります。五稜郭駅から木古内方向を見ると、左奥に向かう方が江差線という事になります(右下写真参照)。右奥に向かう路線は、前述の函館本線の長万部、札幌方面となります。
 
    

 五稜郭駅構内は広く、貨物列車も多く見掛けます。この近くの函館貨物駅が本州と北海道を結ぶ貨物列車の拠点、スイッチバック駅ともなっている為で、これは新幹線開通後も変わらず賑わう事でしょう。札幌方面へ向かう優等列車、特急『スーパー北斗』号の姿も見かけ、ここからは道内列車の性格が強くなり、JR北海道エリアの雰囲気の本領発揮!とでも申しましょうか…。

 これでJR江差線の“さんぽ”は終わりとなりますが、前述通り、せっかくなので今後の北海道新幹線の開通後に、函館の拠点駅となる駅を見ておきたいと思います。それが、函館駅から5駅札幌方向に進んだ(五稜郭駅からは4駅先)、渡島大野駅という場所です。

    

 渡島大野駅は現在、普通列車のみが停車する小さな駅です。そもそも列車本数は少なめではありますが、この区間は、函館本線の迂回路線である藤城支線と並行区間にもある為、普通列車の本数も更に少なめで、1日に上下併せて20本程度の列車が停車するくらいです。そんな場所が新幹線の停車駅に選ばれたのは、北海道新幹線は函館が終着ではなく、この先の札幌駅まで目指して造られている為で、真っすぐに札幌を目指すには、現在の函館駅の位置ではスイッチバックを要する等、非常に遠回りになってしまうからです(そもそも、市街地の中に新幹線を通すのも難しいかもしれません)。

    

 そんなわけで、広い空間のあるこの場所が選ばれたわけですが、昔の渡島大野駅の雰囲気からすると大変貌も良いところで、急激な出世を遂げたとでも言いましょうか。とにかく、激しい変化がこの場所には起きていたのでした。もう、駅は外観を含め、大まかな部分は完成しており、いつ新幹線車両が来てもおかしくない状態になってはいました。雪が積もっていたので、駅前の整備された様子は若干分かりにくかったのですが、恐らく綺麗に、そして整然とされた風景が広がっているのだと思います。駅から離れ、札幌方向に進んでみると、新幹線の高架橋はこの先でひとまず断たれていました。右下写真は、隣りを走る函館本線の線路をオーバークロスする車道からのもので、更に新幹線が延伸された時に、この道路の処遇はどうなるのかも少し気になるところでした…。

    

 この道路から札幌方向を臨むと、大沼方面へ上り勾配で進んでいく線路が見えます。…そう、ここから先は函館本線は山越えの区間が、北海道新幹線はこの山を長大トンネルでぶち抜くかもしれなく(大沼駅や森駅は経由しない)、とにかく札幌に速く到達させようという理念が感じられそうです。

    

 北海道新幹線の札幌駅までの開通は、今のところ2031年の春が予定されており、その時の東京駅〜札幌駅間の所要時間は5時間1分との事です。現在の東京駅〜福岡駅間の所要時間と殆ど変わらないので、新幹線で札幌に行こうとする需要も見込めそうではありますね。まだまだ先の話しですが、動向を注意深く見守っていきたいと思います。…というより、まずは函館までの開通ですね。新駅は渡島大野駅…ではなく、新函館北斗駅という名前に生まれ変わります。道内の鉄道体系にも変化が出てくる事でしょう。また変化した函館にも、今度は新幹線で訪れたいものですね。その時は第3セクター化された後の江差線(➡道南いさりび鉄道…という鉄道会社になります)にも注目してみたいものです!

 ☆北海道新幹線スペシャルサイト…http://hokkaido-shinkansen.com/

 ☆道南いさりび鉄道のHP…http://www.shr-isaribi.jp/

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 今回の『鉄道さんぽ』は、千葉県内を走る、新京成電鉄新京成線を取り上げたいと思います。松戸駅と習志野市の京成津田沼駅を結ぶ京成グループの鉄道会社で、関東では唯一の準大手私鉄に分類されます。全線普通列車のみの運転で、半環状的なルートを通っているので、全線を乗り通すというよりは、短距離間で利用される側面が大きいと思います。正直、地味な路線ではあるのですが(笑)、この路線の沿線に自分の祖母の家があり、個人的に昔からよく利用していた路線でもあるので、非常に馴染みはあります。以前は京成電鉄からの中古やそれに準じた車両ばかりが使われてきていたのですが、徐々にオリジナル性を開拓してきていて、現在の車両は高性能のものばかりとなっています。
 新京成電鉄の路線は、以前は陸軍鉄道連隊演習線として使われていたものを第二次世界大戦の激化に伴って放置され、それが後に京成電鉄に払い下げられたもので、そこで新京成電鉄という会社も発足されました。演習線は、様々な状況での路線敷設演習の為に急曲線が多数介在するような路線で、旅客線開業時に可能な限り直線化を図りましたが、現在でも非常にカーブが多い路線となっています。事実、松戸駅〜京成津田沼駅間の営業キロ数は約26kmですが、直線距離にすると約16km程となっています。
 一時期、北総開発鉄道との相互直通運転がされていましたが、現在はそちらは解消し、代わりに京成電鉄千葉線への片乗り入れが開始されました。これにより松戸駅〜京成津田沼駅〜千葉駅が1本化されましたが、その頃の新京成電鉄が最大8両編成だったところを、京成千葉線は6両編成が限界だったので、乗り入れ編成は限定される事になります。その後、全編成が6両化される事になりますが(乗り入れ非対応車も有り)、編成を敢えて短くするというのは珍しいかもしれません。
 新京成の塗装は、暫くは茶色のラインカラーをベースにしていた部分がありました。これは古さも否めませんでしたが、味のあるカラーでもあり、新京成らしさを出していたとも言えるものでした。…しかし、2014年になって新たなコーポレートカラーが発表され、それがピンクとホワイトをベースにしたものだったので、これには驚かされました。車両の塗装も順次変更されていますが、会社の規模がそんなに大きくないので、そのペースはゆっくりなものとなっているようです。…とは言え、これから新京成電鉄は新たな時代に突入するものと思われるに十分な状況となりました。現在の新京成電鉄をどうぞ御覧頂ければと思います!


 ●日時…2015年10月28日 ●距離…26,5km ●駅数…24駅

 新京成の“さんぽ”は起点の松戸駅から始めたいと思います。JR常磐線との乗り換えが出来る松戸駅は一大ターミナルで、新京成の中で1位の乗降客数を誇っています。当然、常磐線との乗り換え客が多く、両線は中間改札を1度通るだけで乗り換えが出来るようになっています。

    

 現在、新京成には大きく分けると4種類の車両が走っていますが、8000形、8800形、8900形、N800形と、全て8から始まる形式となっています。以前存在した800形という車両が、新京成にとっては使いやすい車両だったようで、それを上回る性能を…という意味合いで8000形が、その8000形と800形の長所を併せ持った車両という意味で8800形という名が…というように付けられていったのだとか。これらは、親元の京成電鉄と、それらと直通運転する都営浅草線や京浜急行電鉄の車両との重複を避ける為、関係各社の車両形式の数字割当て(千の位が1、2が京浜急行、3、4が京成、5、6が都営等)が存在しています。

    

 新京成の車内装備として特徴的なのが、ドア横に設けられた鏡です(上写真参照)。日本の他鉄道事業者では名古屋市営地下鉄や、相模鉄道(最近の車両は未装備)に見られる程度なので、結構珍しいと思います。前述のように、2014年に新コーポレートカラーが発表され、全車にその新塗装が施されるという事で、現在は旧塗装と新塗装車両が両方が見られるという過渡期の状況になっていますが(左下写真参照…両方ともN800形車両です)、鏡はしっかりと残っていますので(笑)、今後も新京成の特徴として生き続けていく事でしょう。

    

 さて、松戸駅を出ると、常磐線と分かれて右に大きくカーブし、早速とばかり下総大地を登る勾配に差し掛かります。上り勾配は暫く続き、国道6号線を越えた先を頂点として、そのまま上本郷駅へと到着するのですが、この辺りは変化に富んだ所ですので、この区間を早速“さんぽ”してみましょう。勾配とカーブが連続するので、新京成電車の撮影地としても知られている区間でもあります。

    

 現在は4編成のみが残っている(※2016年1月に1編成が廃車され、2月時点では3編成のみが残っています)最古参8000形(左上写真参照)も、新塗装が施されるとの事で、こちらはまだ全車が旧塗装なので、どのような出で立ちになるかが楽しみですね。新京成の中で最多車両を占める8800形(右上写真参照)は既に半分くらいが新塗装になったでしょうか。この車両は、日本の直流1500V鉄道路線用として、初めてVVVFインバータ制御を早期に本格採用した先駆車(1986年に登場)ではありますが、塗装が変わり、違った意味で徐々に新京成の車両が垢抜けていくのを感じたものです。

    

 車両の特徴ばかり説明してしまいましたが、今度は線路付近の特徴も見てみましょう。右上写真は上本郷駅での写真ですが、線路の付近にトゲトゲしいものが設置されているのが分かりますでしょうか。現在こそ駅のホームに行くには、橋上駅舎を通ったり、地下道を通ったりする事が多いですが、まだまだ駅の規模が小さい頃は駅構内に踏切があり、道路から改札を通ってホームまで、段差無く行ける駅も多かったのです。その時に駅付近の踏切(改札外)から線路を通って直接ホームに行けてしまうのを防ぐ為に設置したもので、今でも地方の鉄道や小規模の鉄道の駅ですと見られたりします。新京成は橋上駅舎になっても、まだ色々な所でこの施設は残っているので、今では珍しいものに映るかもしれませんね。

    

 上本郷駅を出ると、駅間が短い区間が続きますが、八柱駅ではJR武蔵野線との乗り換えが出来ます。個人的に話しになってしまいますが、当駅から次の常盤平駅までの付近が自分の祖母宅の界隈であるので(笑)、昔から馴染みのある区間でもあります。せっかく?なので、この付近も躊躇わず“さんぽ”してみましょう。
 この付近は新京成の開通後に常盤平団地として開発され、ベッドタウン化したという街でもあります。開発区域は扇のような形をしており、新京成はその弧を描くような感じで線路が敷設されています(故に八柱駅を出て左にカーブするも、その後は暫くは右カーブが続きます)。

    

 そして常盤平駅へ…。もう、何度この駅を利用したか分かりませんが(当然、今でも度々利用しています!)、今後も末永くお世話になりたいものですね。内装は少し新しくなったものの、基本的な外見は自分が生まれた頃とそんなに変わっていないような気もします。…という事で、弧を描くような線路敷設は、次の五香駅辺りまで続きます。

    

 その後、自衛隊松戸駐屯地の横を走り、新京成本社のあるくぬぎ山駅となりますが、この先には新京成の車両基地が置かれている為、ラッシュ時を中心に、当駅を始終着とする列車も何本か設定されています。鉄道の車両基地というと、何だか壮大で機械的な印象を受けますが、新京成電鉄のくぬぎ山車両基地は、外周道路からもよく見え、何だか開放的で、そして中規模私鉄の為なのか、アットホームな雰囲気を受けました。8800形の塗装変更等も行われているようでしたが、1両1両じっくりと時間を掛けてやっているような雰囲気もあり、とても長閑で好印象な空間でした。こうした車両基地もあるのですね…。この“さんぽ”の日は、8900形(右下写真の4編成のうち、右2編成)は昼間の運用に付いていなかったようで、全3編成が車両基地で昼寝をしておりました(笑)。こちらも新塗装化が進んでいるようです。

    

 この長閑なくぬぎ山車両基地に反して、近くに北総・成田スカイアクセス線の高架橋が見えてきますが、北初富駅で合流し(駅は新京成のみ)、暫く併走して、その先の新鎌ケ谷駅で乗り換えが出来ます。当駅は東武野田線〔鉄道さんぽ 26.(東武鉄道、野田線編)参照〕との乗り換え駅でもあります。

    

 新鎌ケ谷駅が開業したのは1991年と新しく、まずは北総線に駅が誕生、その後に新京成側にも駅が完成し、野田線に駅が出来たのは1999年の事でした。以前は北総鉄道北総線と新京成が乗り入れていた事もあり、その分岐駅が北初富駅だったわけですが、北総線が高砂駅まで延伸した際に新京成との乗り入れを辞め、高砂駅より先の京成線や都営浅草線との乗り入れを開始したのでした。そして新鎌ケ谷駅が誕生したのです。現在、北総線は成田スカイアクセス線としての機能も有しているので、それらも含めて一気に4路線が合流する駅ともなったわけですが、駅周辺の開発も、2000年頃から一気に進められた感じはあります。元々は畑や梨園が広がる土地に3つの線路が交差しているに過ぎない場所でしたが、開業当初とは大きく変貌を遂げた駅の1つでもありましょう。この付近は新京成路線の高架工事の真っ最中で、更なる変化が起きるかもしれませんね。

    

 新鎌ケ谷駅を出ると急カーブして進路を南に変え、初富駅に至ります。高架化工事はこの辺りまで行われるようです。この先は畑や果樹園等の田園風景と、幾つもの団地街が続け様に見えてきて、周辺には学校も多いのか、東葉高速鉄道との乗り換え駅である北習志野駅では学生も多い印象を受けます。一部区間に、直線距離が続く部分もあるも、やはり基本的にはカーブが多い区間が続きます。

    

 北習志野駅は習志野市ですが、この先船橋市に入り、習志野駅へと着きます。そして前原駅を過ぎると、ここでも大きくカーブして新津田沼駅へと入ります。繁華街の中の駅ですが、JRの津田沼駅とは400メートル程離れていて、ここは徒歩での連絡となります。…とは言え、乗り換え客は多く、それ故に繁華街も発展してきていると言えるのかもしれません。

    

 新津田沼駅を出ると、新京成で唯一の単線区間へと入ります。一瞬、複線が続くのかと思いますが、分岐器後の右の線路は留置線になります(右上写真参照)。この単線区間の為に、朝方のラッシュ時は新津田沼駅での折り返し列車が多数設定されています。この先は急カーブが続きますが、これは以前、新津田沼駅と京成津田沼駅への路線が2路線あったものを、それを急カーブでまとめて1路線にした名残でもあります。
 新津田沼駅を出ると、大きく逆S字を描きながら、JR総武本線を越え、そして京成本線へと合流し、終点の京成津田沼駅となります。新京成のホームは1面2線ですが、端の1線は車止めが設置されているものの、もう1線は京成千葉線の線路へと繋がっており、日中を中心に、2本に1本は京成千葉線の千葉中央駅まで片乗り入れが行われています。

    

 京成千葉線への乗り入れは、8000形とN800形が全車可能、8800形は一部編成のみ可能、8900形は全車乗り入れ不可と、少々複雑ですが、京成千葉線は6両編成の路線の為、以前8両編成だった8800形と8900形は物理的に対象外とされていたのでしょう。後に全車両が6両化されたのは前述しましたが、それでも尚、乗り入れ対応ではない車両が存在するのは面白いところです。

    

 さて、これにて新京成線の“さんぽ”は終了となります。地味ながらも、地元に根ざした活躍を昔から続けており、全体的に長閑な時間を体験させて頂きました。昔から利用していた路線ではありましたが、今回のように全線に亘って乗り降りを続けていった事は無く、新たな側面も垣間見えた1日でもありました。まだまだ全車が新コーポレートカラーになるのは時間が掛かりそうですが、今までの新京成電鉄と、これからの新京成電鉄が入り組む“現在”の新京成の姿をじっくりと体感する事が出来たのは良かったと思います。…そして、今後ともお世話になります!

 ☆新京成電鉄のHP…http://www.shinkeisei.co.jp

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 宮城県の仙台市と石巻市を結ぶ路線である、JR仙石線。前身は宮城電気鉄道という私鉄で、戦時買収によって1944年に国有化された路線です。東北地方を走る国鉄の電化は遅かったですが、この路線は前身から電気鉄道という直流電化で建設された鉄道だったので、仙石線は早くから電車運転がなされていた路線でもありました。その後、東北地方を走る国鉄も電化されていきますが、この時は交流電化で建設されていったので、仙石線は現在でも、JR東日本が保有する路線では東北地方で唯一、JRグループでは日本最北の直流電化路線となっています。故に、東北地方を走るJRの車両は仙石線を走れないので、首都圏で運行されていた電車を転配して昔から運転しています。
 ターミナル駅となる仙台駅も、以前から新幹線やJRの多路線の駅とは少し離れた位置にありましたが、2000年に仙台駅〜陸前原ノ町駅間が地下化され、少しは別会社感は薄れたように思うものの、両線の乗り換えにはやはり少々時間を要します。また、この時に仙台駅〜あおば通駅間が延伸開業され、仙石線はあおば通駅〜石巻駅を結ぶ路線となりました。また、支線として陸前山下駅〜石巻港駅を結ぶ貨物線がありますが、旅客輸送を行っていないので今回は取り上げません。
 さて、以前は国鉄の代表車両であった103系という車両ばかりだった仙石線も、現在はJR山手線等から転配してきた205系ばかりとなり、最近は首都圏で205系を見る機会が少なくなってきたので、遠く離れた仙台でこれらの車両を見る事が出来るのは親近感を覚える路線でもありました。しかし、2011年3月に起きた東北地方太平洋沖地震およびその津波の被害で全線が不通になってしまったのは記憶に新しい事でしょう。それは時が経ち、それぞれの区間で運転が再開されるも、高城町駅〜陸前小野駅間は最も津波被害の大きかったところで、2015年に入っても運転再開はされていませんでした。
 そしてこの不通区間の内、陸前大塚駅〜陸前小野駅間は山側に線路を新しく付け替えさせる案が立ち、これらの完成をみて、最近である2015年5月30日に、仙石線は約4年振りに全線で運行がなされたのでした。…同時に、JR東北線との接続線を通る仙石東北ラインも開業し、仙石線は新たなステージを迎えようとしています。この復旧は個人的にも嬉しく、全線が開業したら即“鉄道さんぽ”に組み込もうと思っていたのでした。
 …逆を言うと、全面復旧をする前には訪れる気持ちにはなれませんでした。自分はこの大地震の2ヶ月後に仙台を訪れていますが〔旅日記 38.仙台往復編(2011.5.16〜5.17)参照〕、この時は福島県に入った辺りからブルーシートを被せてある建物が多く目に入り、復旧の兆しこそあるものの、地震の爪痕は深いものがある事を感じさせ、正直、まだ自分が訪れるには早いと思ってしまったのです。既に“鉄道さんぽ”企画は始めていましたが、この企画に於いては、被災地に訪れる資格はまだ持ってない…という判断に至りました。
 そうした中で取り上げさせて頂いた今回の“鉄道さんぽ”JR仙石線編は、とても大きな意味を持つように思います。前述の、最後の最後まで不通区間になっていた陸前大塚駅〜陸前小野駅間の一部区間も歩きましたが、個人的に、今回の津波被害を受けた地域に、初めて足を運んだ事になりました。そこはニュースや新聞で何度も目にしている筈の場所なのですが、やはり実際に足を運ぶと、現実を肌で感じる事が出来ると言いますか、一言では言い表せないような世界がそこにはありました。津波によって何もかも無くなってしまった平地を見ると絶望と言えるのかもしれませんし、そこにお店ができ、人も徐々に集まってきている場所があるところを見ると希望と言えるのかもしれませんし…、何だかよく分かりません…。ただ、この地域に仙台市と石巻市を結ぶ仙石線が復旧したのは事実ですし、仙石東北ラインによって、仙台駅から40分程でこの地域に辿り着く事が出来るようになったのも事実なのです。ひとまず、仙石線の全線復旧により、今回の“鉄道さんぽ”が行える事に感謝です。どうぞ御覧下さいませ。



 ●日時…2015年8月2日
 ●距離…50,8km
 (あおば通駅〜石巻駅…49,0km、
  陸前山下駅〜石巻港駅…1,8km《旅客営業無し》)
 ●駅数…31駅《貨物駅を除く》

 仙石線の起点駅は長らく仙台駅でしたが、前述のように2000年に仙台駅〜陸前原ノ町駅が地下化された時に、仙台駅〜あおば通駅間の0,5kmが開通し、起点はあおば通駅となりました。なので、この鉄道さんぽもあおば通駅から始める事になりますが、仙台駅から500mしか離れていない事もあり、事実、あおば通駅からも仙台駅の駅舎を望めます(笑)。それでも延伸されたというのは、それまでの仙台駅の位置が他の路線と比べて離れた位置にあった事も大きいと思います。特に、仙石線の仙台駅が、JR東北本線の仙台駅に比べて東側に位置するのに対し、仙台市地下鉄の仙台駅は西側にあったので距離がありました。そこで仙石線をそのまま西側に延伸する事によって、地下鉄の仙台駅とは、あおば通駅での乗り換えが便利になるようにしたのです。現在の利用者数は1日約2万人。この数字は、JR東日本の東北地区の駅では、仙台駅に次いで2位の利用者数です。

    

 さて、あおば通駅から乗り、列車はすぐに仙台駅に到着。どちらも地下駅なので味気こそ無いですが、先に進む事にしましょう。2000年までは仙石線の仙台駅は地上にあったのですが、東北本線側の駅と比べると小ぢんまりとしていて、なるほど、元々は地元の私鉄だったのだかという雰囲気が満点でした。右下の写真で言うと、ちょうど写真の右真ん中辺りから、右側に伸びるようにホームがありました。今でも名残と言えば、他の路線との乗り換えに少し時間が掛かる事でしょうか(笑)。地下駅になったものの、まずはエスカレーター等で橋上のコンコースまで上がらないと、他の路線に乗り換える事は出来ません。

    

 仙台駅を出て、暫くは地下鉄のような雰囲気?で路線が展開されていきます。どの駅も似たような雰囲気になりそうな感じですが、途中の宮城野原駅では、東北楽天ゴールデンイーグルスの楽天 kobo スタジアム宮城の最寄り駅という事で、所々にチームカラーであったり、マスコットのクラッチやクラッチーなが描かれている等、個性が発揮されています。

    

 地下駅は次の陸前原ノ町駅までで、この駅からは路線が地上に出ていく様(左下写真参照)が見て取れます。地上に出た直前に潜る路線は、東北本線の貨物線(この路線は仙台駅を通らず、仙台駅の南北を短絡して結んでいます)です。そして地上に出ると高架になり、カーブ上に存在する苦竹駅(右下写真参照)となります。

    

 仙石線を走る車両は、後に紹介する仙石東北ラインのHBーE210系気動車を除き、首都圏でも見られる205系のみが走っています。全て4両編成で、基本のラインカラーはブルー2色となっていますが、何編成かはグリーンやレッド、パープル等が1両1両で変わっていくというカラフルなものとなっており、この編成の1両は 2way シート設置編成と呼ばれ、座席を回転させて、ロングシートにもクロスシートにも出来る仕様となっています。それらも含め、仙石線に投入されている205系はトイレが設置されたり、半自動ドア機構を備えている等の改造が施されている為、全てに3100番台の区分が与えられます。

    

 そろそろ田園風景が目立つ頃になると、小鶴新田駅となります。2004年の開業と比較的新しく、このおお陰でこのエリアにも住宅地が目立つようになってきました。当駅と次の福田町駅間に仙台車両センター宮城野派出所(車両基地)があり、ラッシュ時を中心に、入出庫を兼ねた小鶴新田駅始終着の列車が存在します。

    

 再度、昔から市街地が形成されていたエリアに入ると、多賀城駅となります。2009年頃から高架化が始まり、2013年に駅舎や周辺も含めて全高架化が完成しました。この完成予定も本来は2011年となっていましたが、地震の影響でずれ込んだそうです。写真を見ても分かるように、駅の入口は付近の多賀城の門をモチーフとしており、駅全体のデザインも、この地の歴史を感じられるようにとの配慮がなされているそうです。

    

 この先、本塩釜駅、東塩釜駅付近は、海沿いを走る高架線となる為に眺めの良い区間となりますが、すぐに市街地に入り、東塩釜駅から先は単線となります。あおば通駅から当駅まで、日中は約15分毎の運転となっていて、ラッシュ時はそれこそ4〜5分毎と、運転頻度の高い区間ともなっています。以前は快速の設定もありましたが、仙石東北ラインの開業により、この区間は普通列車のみの設定となりました。
 東塩釜駅以遠になると列車本数は半減し、約30分毎の運転となります。同時に、JR東北本線と暫く並走する区間が続きます。自分が初めて仙石線に乗った時(1995年頃)、都会でも無いのに、何で同じJR路線で、こんなに近くを走っているのだろう…と思ったものでしたが、前述のように、仙石線は元々が私鉄だった為、むしろ当時は競合していたのかもしれません…。確かに、この先は一大観光地である松島も控えているのです。

    

 そんな松島の最寄り駅は、仙石線だけに存在する松島海岸駅となります。近くに東北本線の線路もありますが、この辺りに駅はなく、ここから1kmほど先に行ったところに松島駅は存在していますが、観光地への足としては少々不便かもしれませんし、JRとしても、松島観光へは仙石線の松島海岸駅を促しています。この付近、東北本線と仙石線は並走はしているものの、乗り換え出来る駅は今まで無く、通しの乗車券も発行されていませんでした…。そこで開業したのが、松島海岸駅と次の高城町駅間で、両線の線路が一番近付くポイント(左下写真参照…真ん中が仙石線の線路で、奥が東北本線)に設けられた渡り線(右下写真参照…左から右に伸びているのが渡り線)を利用した、仙石東北ラインです。渡り線自体は以前から設けられていましたが、仙石東北ライン開業の為に改良して作られました。

    

 この路線の開業で仙台駅から東北本線経由でも高城町駅に直通する事ができ、当駅で乗り換えて仙石線の松島海岸駅に向かう事が出来るようになりました。この付近の東北本線が交流電化、仙石線は元々歴史上経緯から首都圏と同じ直流電化と、異なる電化方式を直通させるにはコストとの折り合いが付かないまま現在に至っていたのですが、ディーゼルハイブリッドという新技術が使われた新車が導入され、このハンデを乗り越える事が出来たのでした。
 仙石東北ラインの開業と、この先震災の為に不通になっていた区間の復旧は同日程で、この日から仙台駅と石巻駅を仙石東北ライン経由で結ぶ快速列車が運転されました。両駅間の所要時間は震災前より早く、1時間を切る列車ばかり(以前は63分が標準)になり、仙石線全線復旧のアピールポイントにもなった事と思います。その代わり、仙石線のみを走る快速列車は運転されなくなりましたが、以前はこの快速が通過する駅では、仙台駅近くの駅でも30分程運転間隔が空いてしまう駅も存在していた為、普通列車のみが等間隔で走る現在のダイヤの方が利用しやすくなったとも言えるのかもしれません。

    

 上の写真が、前述の渡り線付近の遠景です。左上写真は東北本線を走る貨物列車で、右上写真は正に仙石東北ラインの列車が渡り線を通っている時のものです。何となくのどかな風景ではありますが、この総事業費には約18億円を掛けており、JR東日本の東北エリアに於いて、この路線にかける期待の大きさが窺えるというものです。

    

 渡り線と合流すると、仙石線の撮影ポイントとしても有名な高木川の橋梁(左上写真参照)を通り、高城町駅となります。仙石線の列車の半分は当駅止まりとなりますが、それらの列車は当駅で仙石東北ラインからの列車に乗り換える事が出来るようなダイヤが組まれています。

 …さて、ここから陸前小野駅間の約10kmの区間は、震災の影響で最後まで不通になっていた区間で、途中には海岸の近くも走っていた事からその被害は大きく、本当に暫くは手付かずの状態でもありました。その中でも陸前大塚駅〜陸前小野駅間の約6,4kmについては、路線のルートを内陸側に約500mも移設する等、工事は非常に大掛かりなものとなりました。仙石東北ラインの開業は、それを後押しするものだったとも言えましょう…。改めて、東北地方太平洋沖地震の規模の大きさを実感させられるというものです。
 この区間で最初に気になったのは陸前大塚駅でした。この駅は海のすぐ脇にある…と言っても過言ではない駅で、ホームからもすぐ海を見渡す事が出来ました。大地震で津波発生と聞いた時には、この駅はどうなってしまうのだろう…とすぐに思ったのでした…。普通列車しか停車しない駅ではありますが、大変味のある駅であり、復旧して現在の姿がどうなったかも知りたかったのです。

    

 上写真が現在の陸前大塚駅です。ホームや周囲の施設こそ新しくなりましたが、人の背丈以上の堤防が無機質に築き上げられていました。左上の写真は、かなり背伸びをして撮影したものなので、堤防の向こうに海が僅かに見えていますが、本来、駅のホームからは海は全く見えない状態なのです。…これがやはり現実というものでしょう。津波による代償は、こういったところにも影響があるようです。
 また、右上写真を見て頂くと、これは陸前大塚駅から石巻駅方面を見たところですが、線路が新しい高架線に上がっていくのが分かります。今までの路線は海岸線に沿って、写真右にカーブしていく感じで線路は進んでいました。言わばここがルート変更の開始地点となっており、今までのルートとは全く異なる位置に線路は敷かれる事になったわけです。

    

 せっかくなので、旧ルートを辿っていきたいと思います。…とは言え、旧ルートは海岸線脇を通っていたのでそもそも辿れるわけではなく、並走する奥松島パークラインという道を地道に歩いていきます。この辺りは小高い山が海岸線に迫っているような地形となっており、仙石線はそこを海岸線近くで抜けるのに対し、道路は山の中腹を切り通して抜けていくルートを通っていました。そして山を抜けると野蒜地区へと入りますが、すぐにここが仙石線の中で被害が最も大きい所だと感じました。
 道路の周りや、道路から内陸側は住宅がまだあるのですが、その先の海側には建物が僅かしか建っていません…。いきなり広い平地に来たようで、どうも違和感が残る景色です。車はそれなりに通っていますが、歩いている人は少なく、やはり住んでいる人が減ってしまったからなのでしょう。当然、レストラン等の商店も殆ど無く、急に津波の爪痕を見せられた感覚になってしまいました。

    

 この先に、道路が仙石線をオーバークロスした右側に旧東名駅があったのですが、この付近の路線はカーブしていたのかな…と微かに分かるくらいで、駅やホームに関しては陰も形もありませんでした(左上写真参照)。そして更に歩いていくと、この地区の中心地だった旧野蒜駅へと到着します(右上写真参照)が、駅前には何も無い状態で、駅構内も寂しい状況としか言いようのない感じでした。

    

 旧野蒜駅のホームから内陸側を見ると、かなり遠くの高台に列車が走っているのが目に入っていきました。これが新しいルートの野蒜駅で、旧市街からも結構離れてしまいましたが、これからは新しい駅周辺の開発が進むのでしょうか…。旧野蒜駅の周りも、以前は建物も沢山あったような記憶がしたのですが、今では数えるぐらいしか建物が残っていません。…とは言え、旧野蒜駅舎は改修され、観光交流拠点「野蒜地域交流センター」として生まれ変わりました。1階部分がファミリーマート、2階部分は多目的スペースとして、人を集める場所として今後注目されていく事でしょう。建物内には震災直後の様子が写真で掲示されており、先程通った東名駅の当時の様子も、リアルに目にする事が出来ました(右下写真参照)。

    

 目を覆いたくなるような光景ばかりですが、ここから目を背けるわけにもいきません。現実に起きたこの光景を前に、自分達は今何をするべきなのか、大いに考えていきたいと思います…。そして、復興復興と言われていますが、いくらインフラが整ったところで、やはり人が集まってこないと、真の意味で復興とは言えなさそうな気がしました。その意味ではこの施設はとても大切な役割を持っていると言えましょう。今では静かなこの街が、またかつてのように東松島市の観光拠点になる事を願って止みません。

    

 旧野蒜駅を後にし、高台に造られた新野蒜駅まで向かいます。直線距離にすると約500mの移設らしいですが、道は結構な大回りをし、しかも上り坂が続いているので、旧野蒜駅から徒歩で30分以上は掛かる道のりで、着いた頃には流石にヘトヘトでした。新野蒜駅のホームからは、先程とは逆に旧野蒜駅を見渡す事が出来ましたが、これからこの駅が野蒜地区とどう関わっていけるのか、注目していきたいと思います。

 野蒜駅を出発すると左にカーブして、山を駆け下りていきつつも、そのまま新しく造られた高架橋へと入り、右側にはだだっ広い平野を眺めつつ、吉田川と鳴瀬川を真新しい橋梁で一気に駆け抜け、旧ルートに合流して(合流するポイント等は分かりませんでした…)陸前小野駅に到着します。ここから先は被害の少ないエリアに入る為、当駅から矢本駅までは2012年3月に、矢本駅から終点の石巻駅までは、2011年7月には営業運転が再開されていました。しかし、全面復旧するまでは架線の損傷や変電所が使えず、電車ではなく気動車での運行が行われたいたようです。

    

 矢本駅を過ぎると、石巻市への人の流れが大きくなってきます。以前は、矢本駅〜石巻駅間の区間運転列車も設定されていた程で、需要が増えてくる区間なのでしょう。何となく降りてみた蛇田駅付近は住宅地に囲まれていて、乗り降りする乗客も多めな感じでした。やはり鉄道は利用する人があって活性化が図られるのです。

    

 そして左からJR石巻線と合流し、終点の石巻駅となります。今回は途中に震災の爪痕が残る地域を通った事もあり、少々疲れてしまいましたが、最後に、この震災の余波を吹き飛ばす新型車両、仙石東北ライン用のディーゼルハイブリッド車両、
HBーE210系について解説をしておきましょう。ディーゼルハイブリッド車両は、以前、JR小海線でも説明をしましたが〔鉄道さんぽ 5.(JR小海線編)参照〕、駆動に蓄電池、加速時にディーゼルエンジンを使用するという、電車と気動車の利点を併せ持った革新的な車両です。以前はまだまだ試験的な意味合いが強く、車両数も限られていましたが、仙石東北ライン用に登場したHBーE210系は、言わばこれからの仙石線の牽引役の車両でもあり、堂々とメイン街道をいく車両でもあります。これは技術力の向上を意味しており、頻繁に使われる列車に使用しても大丈夫という目処が立ったからだとも思います。今後の活躍を期待したいところです。

    

 左上写真は、左から、電車、ハイブリッドディーゼル車、気動車…と、全て駆動システムが異なる車両が集結した石巻駅にてです。こうした側面から見ても、今こそ仙石線に注目の時期なのかもしれません。震災を乗り越えて、発展性のある方向に進み始めた仙石線…。路線名通りの、仙台と石巻を結ぶ…という性格は、“速達”という意味では仙石東北ラインに譲った感じもありますが、これからも多くの乗客を乗せて活躍をし続けるでしょう。全線復旧にあたり、今回、また始発から終点まで乗る機会に恵まれて本当に良かったです。

拍手[6回]



 今回の『鉄道さんぽ』ですが、新潟県や上越市等の出資による第3セクター方式の鉄道会社、えちごトキめき鉄道の、妙高はねうまラインを取り上げたいと思います。この会社名や路線名を聞いても恐らくピンと来ない方が殆どだと思いますが、これは2015年3月14日に北陸新幹線が開業したのを受け、それまでの並行在来線が経営分離され、えちごトキめき鉄道が発足…、新潟県下の路線を引き継ぐ事になったものです。そしてその中で、それまでのJR北陸本線区間(直江津駅〜市振駅)が日本海ひすいライン…、JR信越本線区間(直江津駅〜妙高高原駅)が妙高はねうまライン…と命名され、今回は後者の路線を取り上げさせて頂いたのでした。

    

 …とは言え、前述の北陸新幹線が開業して、まだ自分が未乗車であった事、そしてもう1つの路線である日本海ひすいラインも気にはなります(笑)。…という事で、今回の最初の目的地は起点である直江津駅だったのですが、まずは北陸新幹線(左上写真参照)で糸魚川駅まで行き、そこから日本海ひすいライン(右上写真参照)で直江津駅まで行くという経路を取らせて頂きました。現在の日本の最高峰の技術を惜しまなく導入した北陸新幹線然り、それまで電化されていた路線にも関わらず、途中に交直流のデッドセクションが存在する事から敢えてディーセル車を導入したという日本海ひすいライン然り、この地域の新たな鉄道路線の実情が見えてきた時間となりました。これらもいつか『鉄道さんぽ』で取り上げられる事を祈りつつ(笑)、今回は妙高はねうまラインが主役となります。
 前述の通り、これまでJRの幹線としての地位があった路線が第3セクターのローカル鉄道と化したわけですが、列車の運行を見ても変化は様々で、以前から継続されたもの、新しく取り入れられたもの、効率化を図って削減されたもの等、第3セクター化させた影響は結構大きいものであると言えましょう。
 全体的には線内のみの輸送に重きを置いている感じでしょうか。特に妙高高原駅側が顕著で、この駅から先は長野県のしなの鉄道が担当しているのですが、運用と車両の差異から、当駅を介して直通する列車は1本も設定されていません(その分、乗り換えはなるべくスムーズにさせています)。車両も、それまでの主力であったJRの115系(3両編成)から、JR東日本から譲り受けたET127系(2両編成)へと変わり、よりコンパクトになった感じを受けました。その中でも、線内からJR信越本線の長岡方面へと入り、新潟駅まで達する特急『しらゆき』号や快速の設定もあり、これは新潟県内の輸送に力を入れた感じでしょうか。今後の展開にも要注目だと思います。
 …前置きが長くなってしまいましたが、華やかな北陸新幹線開業の裏で、並行在来線がどのようの状況になっているのかは以前から単純に気になっていた事で、その思いが今回実現した運びとなった次第です。天気予報では降水確率100%という情報の中、雲を避けられたのか、時には雲の間から青空まで見える始末で、“さんぽ”日和と言えるまでの天候に恵まれました。新緑の中を駈ける新しい鉄道会社の今を、是非とも感じて頂ければと思います!


 ●日時…2015年6月28日 ●距離…37,7km ●駅数…10駅

 今回、乗車を始めた直江津駅を訪れたのは〔鉄道さんぽ 28.(北越急行、ほくほく線編)〕以来、約10ヶ月振りでした。この時はJR信越本線とJR北陸本線が主要の路線となる駅で、JR東日本とJR西日本の境界駅らしく、行き交う特急列車は全て停車し、乗務員の交代等が行われたものでしたが、現在は長岡駅方面以外はえちごトキめき鉄道の路線となり、JR信越本線の名は残るものの、駅自体もえちごトキめき鉄道管理下に置かれる事になりました。

    

 ここには北越急行の列車も乗り入れるので、“JR”という存在自体が更に薄くなってしまった印象でしたが、今回の妙高はねうまラインとの直通運転は何本か残っており、その中には前述の『しらゆき』号の存在もあるので、どこかに幹線駅という貫禄も見えてくるのかもしれません。前述のように妙高はねうまラインの普通列車の車両は、JR東日本から譲り受けたET127系を使用し(現在、えちごトキめき鉄道カラーと、JR時代のカラーの2種類が存在)、これらは2両編成の運転となっていますが、ラッシュ時を中心に4両〜6両編成を組み、多くの乗降客に対応させています。
 さて、それでは直江津駅を出発します。暫く元JR北陸本線だった日本海ひすいラインと並走しますが、向こうは真っすぐ路線が伸びていくのに対し、こちらは左にカーブして分かれます。今や1両編成のディーゼルカーが走る日本海ひすいラインが直線の複線で、こちらは特急列車やラッシュ時には6両編成も走る路線であるにも関わらず、曲線を描きつつ単線になります。こちらも元々JR信越本線という“本線”だったのですが、この路線の中では長野駅〜直江津駅間は重要性が低かったのも事実で、単線区間が多い区間となっていました。その影響で、妙高はねうまラインも全線に亘り単線の路線となっています。

    

 単線であるので、今やローカル線にしか見えない感じではありますが、かつてはこのルートを通って、上野駅〜直江津駅結ぶ特急『あさま』号や、上野駅〜金沢駅を結ぶ特急『白山』号等が運転されていたものでした。この時の特急列車は9両から11両編成に及び、幹線らしい風格を漂わせていたものでしょう。現在でも主要駅のホームはそれらの列車に対応していた長さのままなので、ここに2両編成の列車が到着している様は、鉄道の栄枯盛衰を思わせるようで、時代の流れを感じさせます…。

    

 上写真は、そんな主要駅の1つである高田駅です。特急『しらゆき』号(右上写真参照)も停車しますが、かつて走っていた特急列車のように長い編成ではなく、4両編成の列車となっています。だいぶコンパクトな編成ではありますが、妙高はねうまラインから新潟方面に向かう特急列車が残された(名称と車両は変わりました)のは喜ぶべき事でもありましょう。

    

 そして無人駅の南高田駅に着きます。上写真に写っているのは北越急行の車両になりますが、これは北陸新幹線の開通と同時に、妙高はねうまラインへの直通運転が1往復だけ開始されたもので、その内の越後湯沢駅発新井駅行きの列車は『超快速』と称し、越後湯沢駅〜直江津駅間の停車駅が十日町駅の1駅という、非常に意欲的な列車の設定がなされています。北陸新幹線開業に伴い、北越急行を走る特急『はくたか』は全て運行が終了し、北越急行は速達列車としての側面を失ってしまったかに見えたのですが、直江津駅は北陸新幹線が通らず、上越妙高駅から乗り換えて向かわなければならないので、北越急行経由の需要も残されているのではないかとの判断がなされたのでした。この『超快速』の設定により、東京〜直江津駅の所要時間は北陸新幹線の使用時よりも実は早く、しかも料金は1500円程安く済むのです。現在は1日1往復の設定ですが、軌道に乗れば本数も増えていくかもしれません。まだまだビジネス需要を諦めていないという北越急行も、応援していきたいところです。

    

 さて、この南高田駅を出発すると、前方には立派な高架橋と駅が見えてきますが、これが北陸新幹線の上越妙高駅で、このエリアである上越市一帯をカバーする駅となっています。JR信越本線時代は、この辺りは脇野田駅という小さな中間駅があったに過ぎない場所だったのですが、新幹線の駅が造られる事が決まってから、路線のルートも少々変更され、新幹線と一体になった駅へと生まれ変わりました。南高田駅を出ると、本来真っすぐに線路は進んで脇野田駅になったのですが、現在は右にカーブし(左上写真参照)、新幹線に回り込むような形で後に並行させ、上越妙高駅へと生まれ変わった駅に到着していきます。

     

 せっかくなので、旧線跡探しの“さんぽ”でもしてみましょう。流石に以前の線路は残っていなかったものの、路盤は未だハッキリと残っており(右上写真参照)、かつて通っていたルートは容易に想像出来る感じでした。これらもいずれは完全に撤去されてしまうのでしょうか…。

    

 遠くから見ると、田んぼの中に忽然と現れる駅…という感じですが、この上越妙高駅は流石に立派で、上越市の中心駅として設定されている意志が沸々と伝わってきました。中にはお土産屋や食堂等もあり、地元の食から新幹線グッズ等、観光要素もふんだんに盛り込まれている駅でもありました。これからどのように発展していくか、注目でもあると思います。

    

 妙高はねうまラインとしても、当駅は北陸新幹線と接続する重要な役割を持つ駅としており、なるべく新幹線に接続しやすいダイヤが組まれ、近隣の新井駅、高田駅、そして勿論直江津駅へのアクセスの負担を少なくさせています。

    

 そして、妙高市の中心である新井駅に着きます。特急『しらゆき』号の南端終着駅でもあり、当駅始発の新潟駅行き快速列車も2本運転されています。この駅までが、直江津駅から続いてきた上越市近郊エリアであるのと、ここからは山間部に突入する事もあり、この先は列車の本数も減り、終日1時間に1本程となってしまいます。
 新井駅を出ると早速上り坂となります(右上写真参照)。これは最終到達点の妙高高原駅まで続いていて、先程は山間部と言いましたが、どちらかというと高原部に向けて走っていく感じとでも言いましょうか。車窓右手に見えてくる妙高山の裾野を回るようにして徐々に上っていき、ここからの車窓は俄かに雄大になってきます。

    

 まだまだ坂を上ろうとしている途中に、次の二本木駅となりますが、本線上にホームは存在しなく、ここは全国でも珍しくなったスイッチバック式のスタイルを取っている駅でもあります。スイッチバック式というと、箱根登山鉄道〔鉄道さんぽ 9.(箱根登山鉄道、鉄道線編)参照〕を筆頭に、富士急行の富士山駅〔鉄道さんぽ 30.(富士急行、大月線編) 参照〕等が思い出されるかもしれませんが、この二本木駅のはそれとはまた異なります。
 この辺りの本線はずっと上り坂が続いていて、1911年の駅の開業時の列車はまだまだ非力な汽車ばかりで、勾配中に駅を設けるのは困難でした。そこで、本線から側線に分岐させて平地の部分に駅を造り、その際に進行方向が変わる(スイッチバック)作業が行われているという事です。進行方向が変わる…とは言え、運転士は反対側の先頭車まで移動せず、推進運転(後部車両が前部車両を押す方法で運転する事…つまり、バックをしているという事です)を行っているのでスイッチバック自体は非常にスムーズです。

    

 妙高高原駅から坂を下って来た列車を例に取ると、二本木駅(上写真ですと手前にあります)に到着後、進行方向を変えて推進運転で本線を横切り、横の側線へと向かっているところが左上写真です。前照灯が点いていますが、これは後方に進んでいる状態なのです。そして側線へと到着後、再度進行方向を変えて通常運転に戻り、本線に再進入しているという状態が右上写真という事です。写真ですと左に分岐しているように見えますが、この道筋が新井駅への本線となるわけです(手前の線路は二本木駅に続いています)。

    

 …と、言葉で書くと何やら複雑な運転方法を取っている感じがしてしまいますが、二本木駅に停車する列車は全てこの方式を取っています(現在は殆どの列車が停車しますが、逆に駅を通過する列車は二本木駅構内には入らない事になります)。現在の列車は勾配に強い電車での運転となっているので、正直スイッチバックである必要性は薄れていて、実際に次の関山駅はかつては二本木駅と同じようなスイッチバック式の駅だったのですが、1985年に本線上にホームが設けられ、スイッチバックが廃止された経緯を持っています。二本木駅が現在でもスイッチバック式の駅であるというのは、構内に工場への専用線があったからという理由がありますが、こちらも2007年で廃止されていました。それでは、いつかはスイッチバック式は廃止か…とも思われますが、えちこトキめき鉄道に生まれ変わり、この駅が1つの観光要素とも見て取れる感じがありますので、当分は安泰かとも思われます。スイッチバック式の駅だけに、駅のホームの先は行き止まりとなっていて、一瞬終着駅かと見間違うような雰囲気を持つ二本木駅。かつての運行形態に思いを馳せてのんびりと電車を待つのも心地良かったです。

    

 さて、二本木駅を出ても尚も上り坂は続き、車窓も高原風な景色が広がってきます。天気が良ければ進行方向右側に妙高山が臨め、雪消えの頃には路線の名称ともなっている“跳ね馬”の雪形が姿を現します。流石にこの日は妙高山は臨めないかと思っていましたが、頂上までは見えないものの、何と裾野の一部は確認出来るではありませんか!…しかも、よく考えたらこの日は降水確率100%と出ていたのです。勿論、写真を見てもお分かりのように、雨らしい状況が1枚も無い事にお気付きでしょうか。日頃の行いがここで発揮されたと信じています(笑)。

    

 そして関山駅となります。前述のように、以前はスイッチバック式の駅だったのですが、現在ではそれは廃止されて、勾配中の本線にホームが設けられています。左上写真は、関山駅側から二本木駅方面を見たところで、右に分岐していく線路が本線(後方が二本木方面)、左に分岐していく線路がかつてのスイッチバック式だった駅構内へ続いています。そちらは現在でもホーム跡が僅かながら残り(下写真参照)、保線車両等の入線に使用しています。

    

 現在の関山駅のホーム(下写真参照)に立つと、結構な勾配に位置しているという事が分かります。それは線路の間を流れる水路を見ても窺えます。また、狭いホームに対して、やたらと幅の広い架線柱が建っている事が気になりますが、恐らく上り坂側の引き上げ線がこの辺りに配置され、スイッチバック式だった頃は広めの駅構内になる配線だったのかもしれませんね。今やここを発着する電車は難無く通過していきますが、こちらもかつての時代に思いを馳せられる光景とも言えましょう。

    

 さて、列車は更に坂を上っていきますが、あともう少しで峠を越えそうなところで終点の妙高高原駅に着きます。今回、直江津駅から乗ってきたので終点と表記しましたが、この路線が元々はJR信越本線であり、高崎駅から長野駅や妙高高原駅を通り直江津駅に達するのが下り列車に設定されていたので、えちごトキめき鉄道的にも妙高高原駅は起点駅となります。つまり、直江津駅が終点駅です。
 この先、妙高高原駅から長野方面へはしなの鉄道の管轄になり、前述のように両社を直通運転される列車は1本も設定されていません。妙高高原駅ではしなの鉄道は2番線に発着し、えちごトキめき鉄道の列車は同じホーム上で乗り換えられる3番線に発着(左下写真参照…一部は写真右奥の1番線発着)、両社は一部時間帯を除き、概ね10分以内に接続しています。

    

 これでえちごトキめき鉄道、妙高はねうまラインの“鉄道さんぽ”は終了ですが、せっかくなので往年のJR信越本線を偲ぶ意味でも、このまましなの鉄道に乗って、長野方面へと向かってみましょう。しなの鉄道は長野県下を走る第3セクター鉄道ですが、車両は塗装こそ変わったものの国鉄時代の115系がまだ使われていて、まだまだ昔ながらの旅が楽しめそうです。
 国鉄、JRから第3セクター鉄道になり、ローカル鉄道は地域密着型としての側面をより大きく打ち出してきています。この事は勿論良い事ですが、往年の信越本線のように、群馬県の高崎駅から出発し、長野駅を通り、直江津駅を通り、そして新潟駅まで結んでいた(直江津駅〜新潟駅は現在もJR信越本線です)という、県を幾つも跨ぐ壮大な路線の存在を忘れてはいけないと思いました。…そして、結局は雨は殆ど降られなかった事に感謝です♪

 ☆えちごトキめき鉄道のHP…https://www.echigo-tokimeki.co.jp

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 今回の『鉄道さんぽ』はついに、日本最初の鉄道として開業した東海道本線を取り上げたいと思います。この路線が初めて開業したのは明治5年(1872年)の事。新橋駅(後の貨物専用の汐留貨物ターミナル駅…現存はしません)〜横浜駅(現桜木町駅)が開通した10月14日の日は“鉄道の日”としても知られています。実はそれより4ヶ月程前に、品川駅〜横浜駅で仮営業を行っていたらしいのですが、前述の区間に延伸した際に正式開業という形をとったのでした。当時は、鉄道というのものが当時の日本人には未知のものだった事から、慎重には慎重を重ねたものと思われます。正式開業時の列車本数は9往復、全線所要時間は53分、途中駅は品川駅、川崎駅、鶴見駅、神奈川駅(現在は廃止)…で、料金は上等が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘で、下等運賃でも当時の米が5升半(約10kg)が買える程高額なものだったそうです。
 そして明治7年(1874年)には、日本で2番目となる鉄道となる大阪駅〜神戸駅間が開業します。その後はルートの選定を繰り返し、最終的に東京〜名古屋間は東海道に沿って、その先の名古屋〜草津間は中山道に沿って作られる事に決定、徐々に延伸をしていきます。…そうして明治22年(1889年)には新橋駅〜神戸駅間の全線が開業し、首都圏と京阪神が鉄道で結ばれる事となりました。この時、直通列車も1往復だけ設定され、所要時間は20時間強だったそうです。尚、この時の国府津駅〜沼津駅間は現在のJR御殿場線ルートだったのですが、この事に関しては〔鉄道さんぽ 12.(JR東海、御殿場線編)〕を参照頂ければと思います。
 …その後、東京駅の開業(大正3年)やルート変更等を経て、徐々に現在の東海道本線の形に近くなってくるのですが、昭和62年(1987年)の国鉄分割民営化によって、東海道本線はJR東日本、JR東海、JR西日本の3社に管轄が分かれました。民営化後は、それぞれで独自の運営方法がなされ、今回取り上げるJR東日本の区間は首都圏の郊外路線という性格がより強くなってきます。
 昔は、山手線は通勤路線、東海道本線は近郊路線というように、路線の性格で分けて扱われていた感じがあったのですが、実際に車両も前者は4扉ロングシート(103系、205系等)、後者は3扉セミクロスシート(113系、211系等)等と、雰囲気も結構異なっていました。しかし、現在東海道本線を走っている普通列車の車両の主力はE231系と、これらは山手線で走っているものと基本的には同じ車両が使われており、もはや首都圏では通勤路線、近郊路線という区分けは曖昧なものとなっているのかもしれません。かろうじて?東海道本線に使われているE231系はセミクロスシート車も存在しますが、どちらにしろ4扉車ではあるので、通勤路線感が否めないと思います。
 そして、この東海道本線が大きく変わったのが、2001年の湘南新宿ラインの開業、また記憶に新しい、先月の上野東京ライン〔2015年3月14日ダイヤ改正参照〕の開業でしょう。この開業によって、東海道本線の車両は首都圏を越えて北関東にも顔を出すようになり、壮大な直通運転を行うに至ったのです。東京都心を縦に貫くという運行形態は、通勤路線そのものの顔を窺わせてくれるものでもありました。東海道本線の歴史は、日本の鉄道の歴史でもあるという事を、今でも感じさせる出来事だとは思います。
 今回の記事で扱う東海道本線は、タイトル通り、JR東日本区間(東京駅〜熱海駅間)のみとさせて頂きます。他のJR各社の区間を扱う日が来るかはさておき(笑)、東海道本線の支線であり、JR横須賀線やJR湘南新宿ラインのルートである品鶴線も取り上げておきます。また、JR山手線の東京駅〜品川駅間や、JR京浜東北線の東京駅〜横浜駅間、そしてJR横須賀線の東京駅〜大船駅間もそれぞれ独立した線路があるものの、正式路線名的には東海道本線の別線、増線…という扱いになっているので、こちらも組み込んでおきました。…尚、東海道新幹線も、東海道本線の線増として建設されましたが、流石にこれは別扱いとしておきます(笑)。また、貨物線も多い東海道本線ですが、ここでは旅客線だけを取り上げる事にしているので、それも項目からは外しておきます。
 東海道本線の全区間である東京駅〜神戸駅間からしたら、JR東日本区間の東京駅〜熱海駅間なんて僅かなものですが、非常に歴史があり、そして日本の大動脈を永らく支えてきた事から、取り上げる項目はそれでも膨大な物になってしまいそうです。上野東京ラインが開業し、正に取り上げるなら今のタイミング…とも思っていたのですが、それでも少し躊躇するぐらい、(記事にするのが)大変そうな路線なのでした。そんな背景もあり、全部の要素は流石に伝えられないでしょう…と、今のうちに断りを入れつつ(笑)、JR東日本区間の東海道本線を“さんぽ”出来たらと思います。それではどうぞ御覧下さいませ!


 ●日時…2015年4月15日
 ●距離(JR東日本区間のみ)…172,5km
 (東京駅〜熱海駅…104,6km、
  品川駅〜武蔵小杉駅〜鶴見駅…17,8km、

  浜松町駅〜東京貨物ターミナル駅
  〜浜川崎駅…20,6km《旅客営業無し》、

  鶴見駅〜八丁畷駅…2,3km《旅客営業無し》、
  鶴見駅〜東高島駅〜桜木町駅…8,5km《旅客営業無し》、
  入江信号所〜旧・新興駅…2,7km《旅客営業無し、事実上廃止》、
  鶴見駅〜横浜羽沢駅〜東戸塚駅…16,0km《旅客営業無し》)
 ●駅数(JR東日本区間のみ)…35駅
 (東海道本線…32駅《緩行線の駅数も含む》、
  品鶴線…3駅《品川駅、鶴見駅を除く》)

  最近の『鉄道さんぽ』は早起きが付き物です。それが地方の鉄道ならば更に顕著ともなるわけですが、東京を代表する東海道本線でも、今回は早起きをさせて頂きました。前述したように、今回はJR東日本だけの区間となるわけですが、いわゆる東京駅〜熱海駅間だけではなく、書類上は“東海道本線”となっている区間も取り上げなければなりません。こうなると、より時間を掛けなくてはならないのは明白で、故に東京駅には朝7:00前の到着とさせました。朝の東京駅前はまだ人が疎らではあったのですが、対照的に駅構内はラッシュが始まったとばかりの人混みで、流石は東京の玄関口となる駅だと感じさせてくれます。そして堂々たる丸の内側の駅舎は、日本を代表する駅だと感じるに充分な風格を持っているのでした。

    

 すぐに7・8番線に向かいます。東京駅7:08に到着する寝台特急『サンライズ瀬戸・出雲』号(左下写真参照)を出迎える為で、今や貴重な、定期的に運転する唯一のJR寝台特急列車であると共に、東海道本線が熱海駅を越えて、名古屋、大阪、神戸方面へ続いているという手掛かりを知るにも大事な列車でもあります。東京駅発着のブルートレインが全廃されたのが2009年3月の事ですが、それ以降、ここでの長距離の列車というと、静岡県は下田への特急が限界という感じでしょうか。遠くへは新幹線や飛行機を使うのが一般的という現在ですが、こうした寝台特急は末永く活躍してほしいと思いますね。

    

 また、やはり今年3月の上野東京ラインの開業により、東京駅の“終着駅感”が薄れたような気がしてしまいました…。単純に、殆どの列車がこの東京駅を通り越し、北側の路線との直通運転を始めたからでもありますが、確かに行き交う列車を見てみると、ここは中間駅のような雰囲気です。列車の停車時間も長くはなく、時間短縮や速達間をアピールするかのように、次の駅に向けて淡々と発車していきます。東京駅というと、線路の高さが1段低くなっているJR山手線やJR京浜東北線のホームと、ここJR東海道本線のホームとでは、明らかに雰囲気が違っていたのですが、今やその雰囲気が近付いているように感じました。勿論、便利になった部分は大きいのですが、いわゆる日本を代表する東海道本線…という路線の風格を見出だすのは難しいかもしれません。ここが東海道本線の起点駅だと自信を持って言える材料も、もはや書類上の話しでしかないのでしょうか…。

    

 さて、東京駅にはここ地平ホームだけではなく、地下にも東海道本線のホームが存在します。それは“総武地下ホーム”と呼ばれる地下5階に位置する場所で、JR総武線(快速)の起点となる駅でもありますが、直通運転するJR横須賀線の電車も乗り入れています。故に、ここも中間駅のような風情が漂っていると言って良いでしょう。この横須賀線側が、書類上では東海道本線の別線として扱われています。

     

 ここを通る列車は普通列車ばかりではなく、千葉県の銚子方面へと向かう特急『しおさい』号を始め、成田空港への足である特急『成田エクスプレス』は頻繁に発着しています。特急『成田エクスプレス』は、当駅で連結、切り離し(右上写真参照)を行い、ここから新宿方面と横浜方面へと乗客を振り分けています。

 …さて、東京駅を見るだけで結構な時間が掛かってしまいましたが(笑)、地上に戻り、ようやく東海道本線に乗る事に致しましょう。何度も言うように、正式には東京駅から南側に向かう路線(JR東海道本線は勿論、JR山手線、JR京浜東北線、そしてJR横須賀線、更に広義ではJR東海道新幹線も当て嵌まります)全てが東海道本線とされているので、何を乗っても東海道本線の“さんぽ”になるのですが(笑)、ひとまずここは、案内上も東海道本線と呼ばれる路線に乗って向かう事にしましょう。東京の1つ隣りの駅は有楽町駅ですが、東海道本線の列車は通過し、1つ目の停車駅である新橋駅で、まずは下車します。

    

 新橋駅の開業は1872年。この記事の最初に記した通り、日本で初めての鉄道が開業した時に出来た駅でもあります。現在の駅は2代目で、1914年の東京駅完成に伴い、東海道本線の起点が東京駅に変更された時に、元々が烏森駅として開業していたこの駅を新橋駅と改称させ、それまでの新橋駅は汐留駅と改称し、こちらは荷物列車と貨物列車の専用駅となりました(その後1986年に廃止され、以後再開発がされているのは周知の事と思います!)。現在、JRの高架線のホーム上に掛かる大屋根を設置工事中です。

    

 今度はJR山手線の列車で浜松町駅に向かいます。浜松町駅は、JR東日本グループになった東京モノレール〔鉄道さんぽ 6.(東京モノレール羽田線編)参照〕の乗り換え駅として利用する方も多いと思いますが、JRの3・4番線ホームの田町駅寄りに、“小便小僧”の像(左上写真参照)があるというのは意外と知られていません。これは、ここに設置されてから60年にもなる結構古いもので、季節毎に衣装が変えられていて、通勤、通学客の目を楽しませている事と思います。
 次の田町駅のホームの北側に立つと、東海道本線を始め、山手線や京浜東北線、そして東海道新幹線もが並行して臨めるポイントがあり(右上写真参照)、頻繁に行き交う列車を眺めているだけで東京の都会さを実感するのですが、この次の品川駅周辺はそれ以上に大きく都会化、そして今後も発展が見込まれている地域でもあります。田町駅と品川駅の間には、2020年を目処に新駅が開業する事も決まっています。

    

 さて、東海道新幹線も停車する品川駅は、JRの在来線だけでも15番線までホームが存在する非常に大きな駅です。これに東海道新幹線と京浜急行の路線が加わるわけですが、JRの在来線だけでいうと、正式には殆どが東海道本線の路線であるところは流石です。尚、JR山手線は正式には当駅が起点であり、ここから大崎駅方面が、いわゆる正式な“山手線”となります。
 最近の話題として、やはり上野東京ラインの開業に伴って、JR常磐線からの列車が品川駅まで乗り入れる事になった事は挙げておきましょう…。この時のダイヤ改正と同時に、新たに特急『ひたち』号、『ときわ』号という名称に変更されたE657系(右上写真参照)列車や、乗り入れは朝と夕方以降に限られますが、常磐線のE231系(左上写真参照)等、新たな顔触れが増える事となりました。

    

 そして、東京駅では地下駅の存在だったJR横須賀線の路線も、ここ品川で地上に顔を出してきます。この先のこの路線は、品鶴線という呼ばれるルートで、既存の東海道本線とは大きく異なる行程を辿る事になるのですが、やはりこちらも正式には東海道本線なので、まずはこちら側のルートを辿って、いったん品川駅に戻り(笑)、再度東海道本線のルートを見ていきたいと思います。この時は朝のラッシュ時の真っ最中という感じだったので、215系(右上写真の左側の車両)を使用する快速『湘南ライナー』の姿も多く見掛けました。国鉄➡JRの着席定員列車の元祖とも言える列車です。

    

 品鶴線は品川駅を出ると、本家の路線を左に見ながら分かれ、東海道新幹線と共に右にカーブしていきます。隣りにはJR山手線が並行して走っており、このままですと大崎駅に到着してしまいそうですが、今度は山手線を右に見つつ分かれ、左カーブしていきます。この時に車窓右手には大崎駅が見えますが、そこから伸びてきた路線をオーバーパスし、後にその路線と合流をします…。これが湘南新宿ラインの路線で、左上写真で見ると、左側が品鶴線で、右側が湘南新宿ラインの路線となっています。この2つの路線の合流部分は平面交差となっており、ラッシュ時を中心に行き交う列車も増えてきたお陰で時刻調整をする事もしばしばで、将来的には立体交差に改良されるようです。この合流ポイントの頭上に東急大井町線(右上写真参照)が通ります。

    

    

 そして西大井駅となります。事実上、品鶴線(横須賀線)と湘南新宿ラインの分岐駅となりますが、ここで乗り換える人は少ないかもしれません。日中の列車の本数的には、横須賀線の列車が4本/時、湘南新宿ラインの列車が2本/時で、湘南新宿ラインの列車が少ないですが、これは2本/時の快速系統が当駅は通過するからです。全体的には横須賀線と湘南新宿ラインの列車本数は、ほぼ同等に設定されているようですね。
 上写真の通り、頭上には東海道新幹線が通っていますが、西大井駅を過ぎると徐々に同じ目線の高さになり、長い直線区間へと入ります。列車は最高速度の120km/時をよく出す区間で、これは多摩川を渡るぐらいまで続き、そこを過ぎると武蔵小杉駅になります。JR南武線〔鉄道さんぽ 29.(JR東日本、南武線編)参照〕、東急電鉄東横線〔鉄道さんぽ 11.(東京急行電鉄、東横線編)参照〕、目黒線との乗り換え駅ですが、こちらの路線としての駅は2010年3月に開設された、比較的新しい駅(左下写真参照)となっています。

    

 この開設の影響は大きく、都心への路線の選択肢が広がった事でとても便利になり、武蔵小杉駅周辺の高層ビルの開発は本当に目覚ましい状況となっています。確かに、品川や東京方面は勿論の事、渋谷、新宿、池袋方面もダイレクトで行けるようになったのですから、利用者が増えるのも頷けるというものです。
 武蔵小杉駅を出ると、ついに東海道新幹線と分かれ、代わりに右側から貨物線が合流します。これはJR武蔵野線の貨物専用線で、遠く府中本町駅からやってきている路線です。合流した後は新鶴見信号所と呼ばれる、多くの貨物線が行き交う中継地点の役割を果たす場所へと入っていきますが、その地点に新川崎駅が存在します。
 新川崎駅を出ると、次は横浜駅です。一気に飛んだ感じがありますが、東海道“本線”とは鶴見駅の手前ぐらいで既に合流をしており(左下写真参照)、ここから鶴見駅、新子安駅、東神奈川駅と、駅自体はあるものの、こちらはJR京浜東北線の路線にしか駅が無く、品鶴線ルートの列車は全て通過するからでもあります。横浜駅は一番西側の9、10番線に入線し、2004年に東急東横線のホームが地下へと移動させた以降、余った土地を利用してホームの拡張が行われました(右下写真参照)。

    

 さて、一度品川駅に戻り、今度は所謂東海道本線のルートで改めて横浜駅に向かってみる事にしましょう。この間、東海道本線の列車自体の停車駅は品川駅、川崎駅、横浜駅と少なく、並行するJR京浜東北線が各駅停車の役割を果たしています。こちらは川崎駅の手前で多摩川橋梁を渡って神奈川県に入ります。

    

 川崎駅を出ると、JR南武線と分かれた後に先程の品鶴線路線と合流して、後は同じルートを通っていくのですが、ここは更に京浜急行電鉄本線の線路も走っている区間でもあるので、多路線が暫く並行して走る区間を楽しめるポイントともなっています。特に注目すべきは、京浜急行電鉄の花月園前駅〜生麦駅付近で、ここはJR東海道本線、京浜東北線、品鶴線、京浜急行線の線路の他に、分岐した貨物専用線の線路も別に存在するので、合計10本の線路が敷設されている区間になるのです。面白いのは、ここを横断する踏切(右下写真参照)がある事で、開かずの踏切、そして日本一長い踏切として紹介された事もあるくらいです。

    

 貨物線が分かれ、京浜急行本線とは離れたり近付いたりが繰り返され、その後の東神奈川駅ではJR横浜線〔鉄道さんぽ 25.(JR横浜線編)参照〕と合流します。合流…とは言っても、JR京浜東北線の路線との合流で、東海道本線の線路には乗り入れません。横浜線、この東神奈川駅止まりの列車も多いですが、半分以上はJR京浜東北線に乗り入れ、横浜駅から先、桜木町駅や磯子駅、時間によっては大船駅まで達しています。

    

 …という事で、改めて横浜駅に着きました。横浜市の中心駅である事は言うまでもなく、当駅には合計6つの鉄道事業者が乗り入れる駅となっており、これは日本最多(2015年現在)でもあります。前述のように、東海道本線が開通した当初は、現在の桜木町駅が横浜駅と名乗っていて、その後に東海道本線が延長した時は、現在の桜木町駅がある場所からスイッチバックして国府津方面へと向かっていました。その作業が効率的でなかったので、1898年に短絡線が開通し、後に平沼駅という駅がその付近にでき、長距離の優等列車はその駅に停車していました。現在の横浜駅の場所の前身となる駅ですが、その後関東大震災等を経て再度場所が変わり、現在の場所になるのは1928年の時です(この年には東急東横線も開通しています)。当駅は工事完成前に、構内や駅周辺で次々と工事が行われる為、実質1915年(2代目横浜駅…現在の横浜市営地下鉄の高島町駅付近)から現在に至るまで、一度も工事計画が完全に完成した事が無いという、日本のサグラダ・ファミリアとも比喩される駅ともなっています。

 それでは、横浜駅から先に向かいましょう。歴史的にはこちらの方が古い桜木町駅方面とは分かれて、保土ヶ谷駅方面に路線は進んでいきます。暫くは相模鉄道の本線が進行方向右側に並走します。また、ここから大船駅までは、案内上ではJR横須賀線、湘南新宿ラインとされる路線と並行して進み、こちらは保土ヶ谷駅、東戸塚駅に停車しますが、東海道本線の列車はそれらは通過し、次は戸塚駅となります。

    

 それまで路線別で並走していたこれらの路線ですが、戸塚駅では方向別の配線になり、お互いの路線の乗り換えがホーム上で可能となっています(左上写真参照)。また、湘南新宿ラインの列車は、当駅で横須賀線方面と東海道本線方面へ、それぞれ振り分けられて運転されます。運転経路は複雑になってきており、最近は上野東京ラインの開業もあって、ますます分かりにくい状況にはなっていると思います。この戸塚駅は、それらが最も集約する場所でもあり、上り方面も下り方面も、注意して列車に乗らなければなりません。
 特に上り方面が顕著で、ここから上り方面に向かう方は、列車の行き先だけを見てはいけない状態になっています。…と言うのは、例えば同じ高崎駅行き(現在は、それまでの終点であった東京駅行きは、数が非常に減りました)でも、湘南新宿ライン経由なのか、上野東京ライン経由なのかで、ルートはだいぶ異なるからです。その中で更に快速の設定もされていたりするので、注意すべきは○○経由というのと、快速運転をしているのかどうか…という感じでしょう。

    

 運転経路は複雑ですが、走る車両の種類はだいぶ整理され、現在、この付近の東海道本線を走る普通列車はE231系とE233系にほぼ統一されています(横須賀線にはこれにE217系が加わります)。以前は列車によって車両が決まっていましたが、上野東京ライン開業以降は共通運用とされ、互いの車両の併結運転(左上写真参照)も見られます。この2系列の車両は共通設計の部分も多いので、利用者的にはどちらの車両に乗っているのかは、あまり気にならないかもしれません。前面部は結構異なりますが、側面部の差異は、ドアの形やラインカラーがドア部にも貼ってある等、だいぶ細かい点になってしまいます(笑)。車両は4扉ロングシート(一部セミクロスシート…右上写真参照)で、どちらも10両編成と、増結用の5両編成があり、それらを連結して15両編成で運転されている事が多いです。尚、10両編成には2階建てグリーン車が2両連結されています。

    

 戸塚駅の次の大船駅を出ると、並行してきたJR横須賀線とも分かれ、いよいよ東海道本線単独の路線となります。…とは言え、まだ進行方向右側には別の路線が並行していますが、これは東海道貨物線の線路で、貨物列車は勿論の事、快速『湘南ライナー』系列の一部や、様々な回送列車、そして試運転の列車等々、意外と走行する列車を見る事は多いです。
 ホームにかつての湘南型80系を模した売店がある藤沢駅(右上写真参照)は、小田急江ノ島線との乗換駅です。湘南新宿ラインが運転されて以降、小田急側も湘南急行(現在は快速急行)の運転を始め、新宿方面への競争が激化されています。東海道貨物線にもホームがありますが、これは事実上、ラッシュ時の『ライナー』用で、それ以外の時間帯は閉鎖されています。また、江ノ島電鉄〔鉄道さんぽ 4.(江ノ島電鉄線編)参照〕も乗り換えできます。
 藤沢駅を出ると、辻堂駅となります。快速『アクティ』や湘南新宿ラインの『特別快速』が通過しますが、快速『アクティ』は東京駅を出て、東海道本線上では当駅が初めての通過駅となります。そもそも、東海道本線上で通過する駅が、この辻堂駅と、あと3駅程しかないのですが、それでも先行する普通列車を追い抜いたりするので、一応の速達列車という面目は果たしているのかもしれません。…というより、東京駅〜小田原駅間を走る東海道本線の普通列車は、列車によって走行時間がバラバラで、後続の快速列車を先に行かせる為に、わざとゆっくり走ったり、駅で停車時間を多めに設定させている列車も多いです。同じ普通列車でも、所要時間が10分以上違う列車もしばしばで、なるべく等間隔に列車を設定させているが故なのかもしれませんが、速達面という意味では、他の路線より1歩遅れをとっている感も否めません。

    

 快速停車駅の茅ヶ崎駅を過ぎると相模川を渡り(上写真参照)、平塚駅となります。当駅で折り返す列車が多く存在し、行き先もだいぶ整理されてきます。快速列車は当駅で普通列車を追い越す事が多く、一部の普通列車は当駅で付属編成5両の増解結も行われます。

    

 相模川を渡った時に、進行方向左側には海が見えている筈で、この辺りから東海道本線は相模湾に沿って、わりと海の近くを通っていきます。…が、海が見える区間というのはまだ僅かで、それは早川駅以降に持ち越されます。大磯駅、二宮駅と、前述の快速列車が通過する駅を過ぎ、国府津駅となります。かつての東海道本線のルートでもあったJR御殿場線への乗り換え駅で、こちらの詳細は〔鉄道さんぽ 13.(JR東海、御殿場線編)〕を参照して下さい。

    

 新幹線発祥の地である鴨宮駅を過ぎると、小田原駅に到着となります。…ここでは偶然にも、今後のJR山手線に投入される新系列、E235系の試運転列車(右上写真参照)を見る事が出来ました。東海道本線に乗っていると、こんなチャンスに巡り会える機会も少なくはないという事でしょう(笑)。小田原駅で折り返す列車は多く、ここから先の区間は、日中は1時間に3本程度の運転です。湘南新宿ラインの列車は、基本的には小田原駅までの運転となります。

    

 さて、先に進みましょう。別線となっていた東海道貨物線の線路も、ようやくここで本線へと合流し、これまで東京駅から続いてきた複々線以上の区間が、ついに複線区間という状態になりました。そのせいか、急に庶民的な雰囲気になってくるのですが(笑)、行き交う列車の多くは15両編成を組んでいますので、やはり風格ある路線なのかもしれません。早川駅は、小田原市街の南端に位置し、それは同時に、長く続いてきた関東平野の終わりも意味します。ここから先は熱海駅まで、国道135号線と並行し、また、箱根山の外輪山が海岸近くまで迫ってきている区間を通るので、それまでの路線形態が一転して、カーブやトンネルが多い区間となります。

    

 そのトンネルを抜けた灯り区間では、広大な海を臨める区間も多く存在します。早川駅の先に存在する石橋という地域(上下写真参照)がそうで、隣りを走る東海道新幹線も含め、東海道本線の有名撮影地としても知られています。このポイントは以前、自分が中学生ぐらいだった頃に一度訪れた事があり、今回はそれ以来の訪問になったのですが、走る車両は変われど(当時は、東海道本線では113系、東海道新幹線では100系が主力という時代でした)、その堂々たる風景は健在でした。天気も良く、絶好の鉄道撮影日和だったとも思います。

    

 この区間は、鉄道車両が入れば、どこから撮っても絵になるような所で、色々なポイントを自由に探してはカメラを向ける…という時間が続いてしまいました…。何だか、鉄道写真を必死になって追いかけていた昔を思い出すようで楽しかったです(笑)。新幹線に至っては、速度が速いわりに灯り区間が短いので、列車が見えてからカメラを向けるのでは既に遅く、事前にカメラを線路に向けたまま待機し、そして列車がやってきたらシャッターを押す…という方法を取る必要がありますが、これも中学生時代にやってのけていた事でもありました。昔の方法をまだ自然に覚えていたという事でもあり、懐かしくもある時間でしたね。

    

 撮影地はこの他にもあり、この石橋というエリアの先にある米神という辺りなのですが、こちらは前述の撮影地のように景色との取り合わせではなく、列車そのものを迫力ある構図で撮る事が出来る区間でもあります(上写真参照)。カーブが多く続いている事と、15両という長い編成を生かし、蛇行して走る列車を収めるのです。ここも中学生の頃に、先程の石橋と同じ時に訪問した場所でもありました。

    

 陽も徐々に暮れてきました。西側に山が聳えているので、どうやら夕暮れの時間が少し早い印象になるようです。ここまで来ると、早川駅というよりは次の根府川駅に近く、そのまま根府川駅まで“さんぽ”していきましょう。根府川駅は海には近いものの高台に存在していて、その海抜は45mにもなります。乗降客数はJR東日本区間の東海道本線では飛び抜けて少なく、また、東海道本線では支線を除けば唯一と言える、完全な無人駅です。高台にあるぶん、眺めは非常に良く、眼下には海が臨め、元旦に運転される『初日の出』号等の臨時列車は当駅に停車し、正に初日の出を当駅から拝めるプランになっていたりします。

    

 根府川駅を出てすぐに渡る白糸川橋梁は、以前はここも鉄道撮影名所だったのですが、防風柵設置により、撮影には不向きになってしまいました…。だからこそ現在は、海をバックに列車が走る、石橋付近の撮影ポイントがより貴重になっているとも言えましょう。

    

 ここからはラストスパートをかけ、真鶴駅、湯河原駅という観光地を抜けて、いよいよ静岡県へと入り、JR東日本区間の東海道本線の終点である熱海駅に到着しました。普通列車の殆どはここで折り返しますが、一部はJR東海区間の沼津駅まで、また、JR伊東線に乗り入れて伊東駅まで顔を出す列車も存在します。この先の沼津方面への列車は基本的には3番線から発車し、東京方面から来た熱海駅に到着した列車の多くは2番線に着くので、この時は同じホームでの乗り換えとなるので楽ですが、必ずしもそうなるとは言えず、特に逆パターンは殆どが別ホームの乗り換えとなるので大変です。また、JR東日本の列車は15両編成が多く、JR東海の列車は3両編成が多いので(列車の本数は日中はほぼ同じ)、通過客数の違いはあれど、これで収まりきるのかと思ってしまう程です(笑)。東京への重要の高さが窺えるというものですね。

    

 駅前に保存されている機関車(左上写真参照)は、現在の東海道本線が開業する前に、小田原駅と熱海駅を結んでいた軽便鉄道の車両のもので、当時は人車軌道(その名の通り、人が車両を押していました)だったそうですが、後に蒸気運転を開始し、所要時間は2時間半程だったそうです。現在の東海道本線では約20分、新幹線では8分(笑)。なんて便利な時代になったのでしょうか…。
 また、現在の変化として、上野東京ライン開業後の熱海駅からの東京方面への行き先は凄い事になっていて、JR東北本線(宇都宮線)、JR高崎線の行き先ばかりが乱立している状態でした。その中でも宇都宮駅行き(右上写真参照)…というのは凄いなと思いましたが、設定本数は少ないものの、栃木県の北端である黒磯駅行きも設定されており、その走行距離は 268,1km にもなるとの事です。所要時間は4時間48分。東海道新幹線の最速『のぞみ』号の東京駅〜博多駅間の所要時間がほぼ同じくらいという事で、興味ある方は是非乗ってみて下さい(笑)。

    

 これにて、JR東日本区間の東海道本線の“さんぽ”は終了となりますが、せっかくなので帰りはグリーン車に乗ってみる事にしましょう。グリーン車 Suica システムになり、以前より気軽にグリーン車に乗れるようになりまして、たまにはゆったりとした雰囲気に身を委ねるのも悪くはありません。…それでは、最後に問題です。上の写真はそんなグリーン車の車両になりますが、これはE231系でしょうか、それともE233系でしょうか?…この記事をよく読んで頂いた方ならお分かりになれるかと思います(笑)。どうもお疲れ様でした!

拍手[4回]



 冬らしい路線に乗りたい…。日本には四季があるので、こうした思いに駆られるのは当然の事ではあるでしょう。これまでも『鉄道さんぽ』には数多くの路線を挙げてきましたが、最近の路線選びの基準には、路線にとってタイムリーな出来事があるというものを優先してきたようにも思います。…とは言え、隔月に1度という頻度では、鉄道の世の中はタイムリーな事だらけですので(笑)、ほぼそれらの路線で手一杯になってしまう可能性だってあるくらいなのでした。
 しかし、今回の選定の基準は違いました。ただ単純に、鉄道による冬らしい雰囲気を体験したかったのです。『鉄道さんぽ』のルールに則ると、今年からまた、私鉄➡JR➡私鉄…の順番で取り上げていきますので、今月は私鉄の月になるわけですが、ここで思い浮かんだのが、現在の日本最北端に位置する私鉄、津軽鉄道でした。
 津軽鉄道線は、青森県津軽半島の津軽五所川原駅から津軽中里駅の約20km結ぶ路線で、以前北海道に走っていた北海道ちほく高原鉄道が2006年に廃止されてから、日本最北端に位置する私鉄となりました。石炭焚きのダルマストーブを用いる“ストーブ列車”は有名で、この鉄道の冬の風物詩ともなっており、全国からその車両に乗りにくるくらいです。ただ、基本はローカル線であり、経営は必ずしも良いとは言えない状態の路線ではあります。
 自分は以前、ストーブ列車を含め、この津軽鉄道に乗車した事はあります。それは2007年1月の事〔竹内大輔の写真日記(〜2009)、旅日記 10.(津軽・日本海編・…2007.1.7~1.9)
参照〕で、もう8年も前の事になりますが、その時は単純に路線を往復しただけで、まだまだ見るべき所は沢山ある気がしていました…。また、最近の青森地方はずっと雪が降り続いていて、冬らしい雰囲気を味わうには最適とも思いました(以前来た時は、雪は少ししか積もっておらず、天気も雪どころか雨の天気でした…)。
 しかし、やはり『鉄道さんぽ』としてハードルが高いのが、起点の津軽五所川原という場所でしょう。青森県の中でも、東京からは簡単にアクセス出来る場所ではなく、ここは日帰りという側面を外し、1日目は青森までの移動日に充て、翌日の2日目の早朝から津軽鉄道に乗る…という手法を取らせて頂きました。流石に拠点は弘前にしましたが、朝早くから行動したかった故、弘前駅を5:41に発車するJR五能線に乗り、津軽五所川原駅6:35発の津軽鉄道の始発に乗る事が出来ました。早朝は列車の本数が若干多い為、こちらを最大限に利用しようとも思ったのです。
 …という事で、今回も朝早くから始まった“鉄道さんぽ”。雪も期待通りに積もっており、天候が心配されたものの、見事に晴れ間が広がるという恵みを頂きました!…最初に乗車をしてから8年経った津軽鉄道はどうなっているのか…。その部分も含めて楽しみたいと思います。それではどうぞ御覧下さいませ!


 ●日時…2015年2月5日 ●距離…20,7km ●駅数…12駅

 朝6:30の津軽五所川原駅はまだ暗く、積雪に駅の蛍光灯が照らされ、深くて濃い青色の光景が展開されていました。駅構内は静でしたが、ディーゼル車のエンジン音が響き渡る事で、1日の始まりを予感させてくれているように感じます。ここが津軽鉄道の起点駅ですが、まだ時間的に早過ぎるので、まずは一気に終点の津軽中里駅まで向かい、そこから“さんぽ”しながら戻ってくるというコースを辿りたいと思います。…見るからに寒そうな写真ですが、この時点では、これから北の果ての鉄道に乗れるという期待感が勝っており、あまり寒さは感じていなかったように記憶しています。

    

 列車は2両編成で、お客さんは全部で4、5人という感じでしょうか。1両編成でも良いような気がしますが、この列車が終点で折り返して、再び津軽五所川原駅に着く頃に、2両編成の意味が出てくる…という事なのでしょう。列車は定刻通りに出発。更に北を目指します。

    

 まだ朝早い時間帯の為か、列車は1つ1つの駅に停まるわけではなく、通過する駅も少しだけ設定されているようでした。地方鉄道ではたまに見る光景で、これも効率化の一環になっているのかもしれません。お客さんも途中で降りたりして、いよいよ2両編成の内1両は貸し切り状態となってしまいました。車内からは津軽富士と呼ばれる岩木山が見え(左上写真参照)、何だか津軽鉄道からの歓迎を受けているような気分になったものでした(笑)。

    

 そうこうしている内に、終点の津軽中里駅に到着します。ここまで、津軽御五所川原駅からは約30分と、本当に小旅行という感じですが、この駅が日本最北端の私鉄駅ともなるわけです。思えば遠くに来たもんです(笑)。駅舎自体はスーパーに隣接していた形をとっていたので若干味気無いですが、いま自分は日本最北端の私鉄駅にいるという自負を持ちつつ、これから始めさせる“さんぽ”の活力にしたいと思いました。

    

 …という事で、早速今来た鉄路を戻ります(笑)。先程の車内とは一転して、学生ばかりが目立つ状態となっており、だいぶ活気のある車内になってきました。ボックス席は全て占領されてしまったので、運転席の横に場所を陣取ると、正面の窓付近に文庫本が何冊か置かれているではありませんか。御自由にどうぞ…との事でしたが、確かにここは太宰治出身の地でもあり、車両には『走れメロス号』の愛称も付けられています。文学作品に気軽に触れられるように…という配慮なのかもしれません。ちなみに、これらの文庫本は主要駅の待合室にも置いてあり、家に持ち帰って読んでも良く、読み終わったら元の場所に戻しておいて下さい…との事。中には著者のサインまでもが書かれた本もあり、時間があったら利用したいシステムではありますよね。

    

 さて、1駅進んで、深郷田という駅で降ります。「ふこうだ」…と読む、変わった駅名なのですが、ここから更に1駅先の大沢内駅まで“さんぽ”してみましょう。まだ時刻は朝の7:20ぐらいであり、こんなに朝早くから駅を降りて“さんぽ”するのも珍しいのですが(笑)、津軽半島らしい荒涼とした雪景色と、活気ある列車内の雰囲気とは対照的な静かな街並みを歩くのは、東京に住んでいては滅多に体験出来ない事でもあるので楽しいです。まあ、この駅間では国道が津軽鉄道をオーバークロスする区間があり、そこからの撮影がメインではあるのですが…(笑)。

    

 無事に津軽中里駅行きの下り列車を撮影し終え、大沢内駅へと向かいます。この撮影ポイントからは大沢内駅自体も見え、歩いてもあまり時間も掛からなそうでした。そうして、間も無く先程の折り返してきた列車に乗車し、上り方面へ2駅分、今度は芦野公園駅で下車します。

    

 ここは東北の桜の名所である芦野公園に隣接した駅で、春先ではそれは見事な桜のトンネルを作り出してくれるのですが、流石にこの時期ではその風景を見出だす事は難しそうです。それでも駅の佇まいの雰囲気は良くて、東北の駅百選にも選ばれているくらいです。太陽があまり照り付けないのか、積雪も多く残っており、時間が止まったかのような演出を作り出していました。ここから1駅先の金木駅まで“さんぽ”したいと思います。

    

 “さんぽ”中には、津軽中里駅行きの下り列車がやってきて、雑木林の区間を行く写真を撮る事が出来ました(左上写真参照)。何だか列車の本数が多いように感じるかもしれませんが、平日の朝の時間帯には、津軽中里駅〜金木駅間の区間列車が運転されていて、これを撮影予定に組み込んでいるからでもあります。言うならば、朝9:00頃までが勝負?の時で、これ以降は1時間に1本か、2時間に1本くらいの運転本数になってしまうので、だからこそ津軽鉄道の“さんぽ”は朝早くから始めたのでした。お陰で、この9:00までの時間で、路線の半分にあたる津軽中里駅〜金木駅(右上写真参照)間を制覇出来た事になったのです。

    

 金木駅は路線の中枢ともなる駅で、沿線で唯一の列車交換が出来る駅です。駅舎も前述の写真のように立派で、売店や食堂も併設されています。また、中間駅で唯一の有人駅でもあるので、数ある津軽鉄道の駅の中でもひときわ賑やかな駅と言いますか、現代を感じられる駅でもあると思います。周囲も明るくなってきており、岩木山も全容を現してくれました(左上写真参照)。空気が澄んでおり、本当に気持ちの良い朝です。
 ここでは昔ながらのタブレット交換(右上写真参照)が見られます。タブレットとは、列車の安全運行には関わる大事なシステムで、完結に言うと、それ(タブレット)を持っていないと、列車はその先の区間は走れないというものです。このタブレットは1つの区間に1つしか存在しないので、結果的に列車同士の衝突が避けられるという、シンプルですが極めて安全なシステムであるとも言えるでしょう。現在は、自動化、複雑化が進められているので、このような形態を見られる場所も限られてきてしまいましたが、津軽鉄道ではこのような鉄道の一時代が垣間見れる光景が日常として展開されているわけです。

    

 さて、距離的にはもう後半戦となりましたが、列車に乗り、また1駅先の嘉瀬駅で降りてみる事にしましょう。営業距離的には短い津軽鉄道ですので、今回は1駅乗っては降り、1駅乗っては降りの1日になりそうです。
 嘉瀬駅のホームには、「落書き列車」と称される、かつての車両が留置されているのが目に飛び込んできます。これは SMAP の香取慎吾さんが、『夢のキャンパス号』という企画デザインによって描かれた車両で、沿線を走行していた時期もありました。現在は廃車の状態にあり、残念ながら車内も入る事は出来ません。

    

 ここから、更に1駅先の毘沙門駅まで“さんぽ”したいと思います。距離的には約3kmと結構ありますが、晴れ間の広がる天候はこの上ない活力の後押しになりそうです。実は、青森地方は最近まで大雪や吹雪が続いており、天候によっては外を歩けないかもと思っていたのですが、一転して散歩日和とも言える天気となっていました。逆に、津軽地方の名物である地吹雪を体験出来ないのが残念と言えば残念ですが、これは贅沢な悩みと言うものでしょう(笑)。
 そうして駅間で列車を待っていると、今まで乗ってきたディーゼル車両に、旧型車両が1両連結されている列車が走ってきました(右上写真参照)。これぞ、この時期限定であり、津軽鉄道名物の「ストーブ列車」です。ノスタルジックな旧型車両は全部で3両ありますが、その中でも古いものですと1948年製で、車内には石炭を燃料とするダルマストーブが置いてあります。本来ならばディーゼル機関車が客車とディーゼルカーを牽引する形をとっているのですが、この時はどうやら機関車がメンテナンス中だったようで、上記のような運行形態になっているようでした。ディーゼル機関車も名物の1つだったので、今回見られないのは残念でしたが、上記の状態も珍しいと言えば珍しい光景なので、良しとしましょう(笑)。これは今回の最後に乗る予定にしているので、後述させて頂きます。

    

 …そしてゆっくり、1時間以上掛けて毘沙門駅に到着しました。集落から離れた小さな駅で、津軽鉄道の中でも最も乗降客数の少ない駅でもあります。そう言えば、朝に乗った列車は当駅を通過していました。ホームの背後には自然の脅威から守る鉄道林も存在し、この駅の特徴を浮き出しているような気がします。ここから、またまた1駅だけ移動し、津軽飯詰駅で下車します。

    

 津軽飯詰駅は元々列車の行き違いが出来る駅でしたが、現在は1面1線の棒線状の駅となっています。ただ、駅構内の端に目をやると、線路の分岐器上にスノーシェッドが設置されているのが分かります(右上写真参照)。今は使われていない分岐器ですが、かつて風雪から制動を守る為に設置されたのが現在でも残っているのです。これは雪国ではよく見る設備ではありますが、面白いのは、ここでは西側(写真では右側)から吹き付ける季節風対策が強化されていて、そちら側は厳重になっているのに対し、東側は鉄骨のみになっているという事でしょう。効率化を図る地方私鉄ならではの事かもしれません。

    

 ここは現在は無人駅ですが、駅舎は有人駅時代のままで、今にも駅員の人が姿を見せてくれるかのようです。駅舎内には、東北能開大青森校の協力により、無人駅という状況でありながら、ペレットストーブなるストーブが稼働しており、大変温かい空間を作り出してくれているので、なかなか外に出たくなくなってしまいます(笑)。…が、ここから更に1駅分進んだ五農校前駅まで“さんぽ”してみましょう。

    

 これらの駅間は1kmとなっていますが、歩いていくと多少大回りになるのと、今の時期は積雪で通れない道もあったりしたので、道のり的にはなかなかの距離になっていた事でしょう。周囲は開けていて、正に一面銀世界という感じでしたが、その向こうには相変わらず綺麗な岩木山も望めたりと、正に天候に恵まれた1日だと改めて思いましたね。

    

 そうして五農校前駅までやってきました。五農校というのは青森県立五所川原農林高等学校の事で、その最寄り駅という事なのでしょう。確かに、いま来た道の脇に校門らしきものがあったのは覚えているのですが、校舎らしきものが全く見えなかったような気がします。…実は、それもその筈でして、この学校は敷地が広く(日本で2番目に大きいとか)、校門から校舎までが約800mもあるらしいのです。これは、列車通学では気を付けなければいけないですね。駅から校門は徒歩3分程度ですが、そこから校舎までは更に10分程掛かるらしいので…(笑)。

    

 さて、列車に乗って次の十川駅までやってくると、もう起点の津軽五所川原駅まではあと1駅という状態になってしまいました。もう鉄道さんぽも終わりが近付いてきたわけですが、前述の「ストーブ列車」を満喫させるべく、当駅で下車してから、再度津軽中里駅行きの列車に乗って金木駅まで戻り、ここでまた折り返して再度津軽五所川原駅に向かうという手筈を取りました。やはり旧型車両を使用するストーブ列車は体験しておかなくてはなりません。もう60年以上も使われている車両なので、いつ無くなってもおかしくないのですから…。

    

 現在、ストーブ列車の旧型車両に乗るには、乗車券の他にストーブ列車券の400円が別途必要です。津軽鉄道では普通乗車券を含め、全て昔ながらの硬券が使われており、これも鉄道好きにはたまらない要素の1つでしょう。車内に入ると非常に温かく、それが2台のダルマストーブによるものだと、すぐに分かりました。この日は平日のせいか、お客さんは全部で5組程度でしたが、津軽半島のツアー等でこの列車乗車が組み込まれているのもあり、確かに前回乗った時には団体客で大賑わいな状態でした。
 車掌さんによって石炭が焼べられ、更にその温かさが増してきます。…というか、ストーブが目の前に位置する席に座った為か、むしろ暑過ぎるぐらいだったかもしれません。本来ならば、外は吹雪の中での有り難みというのを感じたりするのでしょうが、この日は幸か不幸か絶好の天気だったので(笑)、日差しの強さも相まって、汗が滲んでくるような状態でもありました。

    

 そして車内ではスルメや日本酒等の販売もあり、早速購入して楽しみます。勿論、スルメは前述のダルマストーブで炙ってくれます。どちらもオリジナル商品で、よく見ると日本酒の名前は「ストーブ酒」。ラベルにはストーブ列車と踏切の写真が掲載されており、踏切注意が“飲み過ぎ注意”になっていました(笑)。それにしても、この旧型車両の持つ、独特の温もり…とでも言うのでしょうか。本当に落ち着きます。これが本来の汽車旅なのではないかと思って旅情に耽ってしまうのは、日本酒を飲んでいたせいかもしれませんが…。
 このストーブ列車には車掌の他に、沿線案内をしてくれる(先程のスルメも炙ってくれていました)アテンダントの方も乗車されています。今まで通ってきた駅周辺で見てきた物の話しもしてくれるので、あたかも津軽鉄道の復習講座を受けているような感覚になりますが(笑)、鉄道林の話しや、地吹雪を防ぐ防風壁の説明、そして、一昨日くらいまでの天気が嘘のように晴れてしまっているので、今日は本来の津軽鉄道の冬らしくない日でもあった…という事まで地元目線で教えてくれました(笑)。

    

 そのように過ごしていると、もう列車は津軽五所川原駅に向け、市街地に入っているところでした。所要時間は約30分(本来の列車より若干遅めに走っています)と短かったですが、良い小旅行だったと思います。駅に着くと、先頭のディーゼル車が切り離され、今度は反対側の津軽中里側に連結されていきます。この日はもう1往復の運行が予定されているようで、成程、津軽鉄道の駅舎には多くのお客さんが列車を待っている状態でした。

 これで津軽鉄道の“さんぽ”は終了となります。だいぶ天気に恵まれてしまい、いわゆる冬の厳しい風情を感じる事はありませんでしたが(笑)、好天の中、元気に走り回る津軽鉄道の車両が見る事が出来て良かったです。本州最北の地の鉄道ですが、少し身近な存在になれたような気がしたものでした。前回、今回と、津軽鉄道へはまだ冬の季節にしか訪れていませんが、春には前述の芦野公園への特別列車、夏になれば風鈴列車、秋には鈴虫列車(笑)と、色々なアイデアで多くの人に乗って貰おうという努力が見られる鉄道会社でもあります。ここの魅力は冬だけではなく、季節感そのものなのかもしれませんね。

 ☆津軽鉄道のHP…http://tsutetsu.com

拍手[1回]



 ついに『鉄道さんぽ』も、今回で第30回目を迎える事となりました。偶数月の隔月に行っているので、始めてから5年が経ったわけですが、まだまだ取り上げたい路線は沢山あり、今後も地道に続けていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします!
 今回は、JR中央本線の大月駅から路線を延ばす、富士急行大月線を取り上げます。富士急行という名前は、富士急ハイランドを初めとしたネーミングでよく聞くかもしれません…。勿論、それらは富士急行の系列施設で、「富士急」と冠された富士急グループ会社も数多くあり、観光事業が多いのが特徴です。そして鉄道は当然の事ながら運輸事業の1つとして君臨されており、バスと並んで重要事業に挙げられています。
 鉄道路線は厳密には2路線あり、大月駅〜富士山駅が大月線とで、富士山駅〜河口湖駅は河口湖線と名付けられています。これらは富士山駅でスイッチバックをするものの、両線は直通運転を行っており、案内ではまとめて“富士急行線”と呼ばれます。…なので、この記事では便宜上は大月線として取り上げますが、その先の河口湖線も一緒に取り上げ、まとめて?さんぽしていきたいと思います。
 富士急行は、古くから富士登山の拠点となっていた吉田(現在の富士吉田市)と、中央本線の大月駅を結ぶ路線として、富士馬車鉄道と都留馬車鉄道という、馬車鉄道を前身としています。この2路線は途中で乗り換えが必要だったようですが、この不便さを解消する為に1921年に両社が合併され、電化もされて、併用軌道での電車運転が始まりました。そして急増する乗客に対応し、1929年には新設の鉄道線に切り替えられて、現在に近い形が出来上がります(馬車鉄道以来の軌道は廃止)。そして後の1950年に、富士吉田駅(現富士山駅)〜河口湖駅が開業し、1960年には、当時の社名だった富士山麓電気鉄道が富士急行に改称され、現在に至っています。
 JR(当時は国鉄)との乗り入れは1934年から始まっており、現在でも『ホリデー快速』等の臨時列車が土日中心に、通勤電車が朝夜に数本程、JR中央本線の高尾駅、新宿駅、東京駅へと乗り入れています。また、富士急行線内のみを走る特別列車も数多く運転されており、その名も『フジサン特急』や『富士登山電車』、『トーマス電車』等、種類も豊富です。
 今回は、その数多くの魅力的な列車にほぼ乗る事ができ、短いながらも変化に富んだ時間を過ごす事が出来ました。2013年に富士山が世界遺産に認定され、海外からの乗客も多くなり、ますます注目されているこの地域への観光輸送として、富士急行線の今をお伝えしていきたいと思います。それでは、どうぞ御覧下さいませ!


 ●日時…2014年12月6日
 ●距離…23,6km(河口湖線…3,0km)

 ●駅数…16駅(河口湖線…3駅〔富士山駅を含む〕) 

 この日、起点の大月駅に着いたのは朝の7:00!…だいぶ早起きをしましたが、これには大きな理由がありました。それは、富士山をバックに走る電車の写真を撮るというものです。富士急行線は富士山の近くを走る路線であるが故、電車と富士山を絡められる撮影ポイントも幾つか存在しています。しかし、富士山が綺麗に臨めるのは大抵午前中の早い時間で、太陽が昇りきってしまうと雲も多くなり、午後以降には霞んでしまう事もしばしばです。つまり午前中の早い時間が勝負という事で、自宅を朝の5:00前に飛び出し、鉄道さんぽにやってきたのでした。7:00の大月駅は、空こそ明るくなってきたものの、山に囲まれている地域だけに陽が地面にまで差し込んでいなく、早朝の時間を思わせるような状況でした。

    

 富士急行の大月駅はJR中央本線の下りホームと繋がっていて、連絡改札は通るものの、移動はスムーズです。ただし富士急行線内では Suica や PASMO の類いが使えないので、乗り換えの際には注意が必要です(2015年の春から導入予定)。富士急行のホームはJRの隣りに位置するものの、平行には並んでいなく、少し斜めに配置されているので、両線のホームの間には空間があります。ここは現在は駐車場となっているのですが(左下写真参照)、かつては貨物列車用の側線があったそうです。…さて、そちらの方向を見ていると、JR中央線のE233系の東京駅行きがJRホームに入っていきましたが、これは朝に2本だけ設定されている、富士急行の河口湖駅発、東京駅行きの直通列車です(下り列車は夜に設定)。富士急行線内は4両編成で走り、大月駅(JR線への直通列車は、JR側のホームに発着)で6両編成を連結し、当駅からは10両編成で走ります。

    

 そんな東京駅行きを見送りつつ、自分は富士急行線内へと入ります。車両は、元JR山手線を走っていた6000系(旧205系)で、JR九州でもお馴染み、水戸岡鋭治氏によりデザインされた車両になります。床や吊り革等に木製のものを使っているのが特徴で、この車両の隣りに停車していた『フジサン特急』8000系(右上写真参照)を含め、富士急の車両は本当に個性的になってきましたね。

    

      

 ひとまず、この列車で三つ峠駅まで行きます。例の、富士山とのポイントがある場所の最寄り駅だからです。この後、再度大月駅まで戻ろうと思っていますが、以前取り上げたJR御殿場線〔鉄道さんぽ 13.(JR東海、御殿場線編)参照〕と同じような手法になっていますね。こちらも富士山との写真を収める理由によるものだったので、やはり富士山というのは人を惹き付ける何かがあるようです。
 富士急行線の沿線はほぼ上り坂で、これは大月駅の標高が358mに対し、終点の河口湖駅の標高が857mな事からも頷けます。この三つ峠駅の付近でも上り坂は続いており、次の寿駅までの約3kmの区間で、約100mも高度を上げます。富士山とのポイントは、この駅間の丁度中間ぐらいに位置しており、徒歩でのアクセスが可能ですが、やはり気温は寒いです。この日の朝はマイナス2℃くらいになっていたようですが、それでも太陽が昇って日差しを浴びられるようになると、少し暖かみを感じてきたので、改めて太陽の偉大さを感じたものでした。…そして、富士山とのポイントに着きました。

    

 こちらです!…流石は有名ポイントです。雲ひとつ無い好天で、役者も揃って素晴らしい景観を作り出してくれました!…左上写真の電車は、元京王電鉄の1000形(旧5000系)で、旧富士急塗装だったところがまた良かったです。右上写真の電車は、JR中央本線から乗り入れてきたJR115系で、旧国鉄塗装でもあり、そもそもこの車両自体が貴重なので、それも含めて良い写真を撮れたと思いました。しかも後で気付いたのですが、中央本線の115系のこの塗装の車両は、この日の運転が最後だったとの事…。ギリギリでしたが、こうした写真を撮る事が出来ると、苦手な早起きをした甲斐があったと思いますね。これだから、鉄道さんぽは続けたくなるのです(笑)。

    

 この辺りは線路の周りが開けた場所でもあり、例え富士山が見えない角度でも、列車の編成を綺麗に収める事が出来る状況を作り出してくれます。そして列車の種類がバラエティに富んでいる事もあり、それが有名ポイントと言われる所以でもありましょう。特に土休日を中心に、右上写真の『ホリデー快速富士山』号等、JRからの臨時列車も多く運転されているので、それを狙いに来る人も多いようです。ちなみに右下写真は、2002年から走っている『フジサン特急』2000形電車です。前述の8000系もそうですが、車両に富士山を模したキャラクターが沢山描かれているのが分かりますでしょうか。フジサンキャラと呼ばれるこのキャラクターは1つ1つが異なり、その種類なんと全101種!…名前もそれぞれに付けられており、フジサンくんやフジ3兄弟に始まり、エコフジ、フジガハハ、エベレストフジ、FUZZY 等々、挙げればキリが無いですが(笑)、調べてみると何となく面白いかもしれません。尚、2000形はそろそろ引退が近付いています。

    

 この日も、自分の他にカメラを抱えた方々が5、6人くらい、付近を移動しながら富士急行線の撮影を楽しんでられたようです。予想ではもっと沢山いるかなとも思ったのですが、この撮影日の前の月の11月まで走っていた列車もあったので、12月になって少し減ったのかもしれません。しかし、前述のようにJR115系はこの日が運転最終日だった事を考えると、やはり情報は頻繁に収集していかないと…とも思いますね。

    

 さて、自分もバラエティに富む列車を撮る事が出来たので、いったん大月駅に戻りたいと思います。ここで選んだ列車が、富士急行線内を走るコンセプト電車『富士登山電車』で、乗車券の他に、着席券200円が必要になりますが、こちらも水戸岡デザインの本領が発揮された、正に乗って楽しい造りとなっています。

    

 列車は2両編成で1両毎にデザインが異なり、それぞれ“赤富士”と“青富士”と呼ばれています。着席券なので車内は自由席ですが、せっかくなので1つの席に留まらず、この車両の“仕掛け”を沢山体験したいものです。ソファや展望席じゃ勿論、ライブラリーやカウンターの設置までされていて、この短い乗車時間で全てを堪能するのはむしろ大変かもしれません…。また、車内では様々なオリジナル・グッズも発売され、旅気分をより高めます。以前、JR九州の三角線を取り上げた事がありましたが〔鉄道さんぽ 15.JR九州、三角線編参照〕、その時に乗車した特急『A列車で行こう』号を思い出されたものでした(こちらも同じく水戸岡氏によってデザインされた列車です)。

    

 車内では沿線案内のアナウンスも所々に組み入れられ、大月駅までの行程は本当にあっという間でした。そして改めて車両の塗装を見てみると、こちらも特徴的に思えます。どうやら、富士急行の開業時に走っていたモ1号という車両の“さび朱色”を再現しているのだとか。流石、抜かりがないですね!

 さて、大月駅に戻りまして、また改めてこの路線を“さんぽ”していきましょう。この時点でまだ時刻は11:00頃…。やはり早起きした甲斐はあったのです!…改めて終点の河口湖駅を目指しまして、普通列車で出発です。

    

 ここからは細かく途中下車していきますが、まずは禾生(かせい)駅にて、付近を流れる桂川を渡るポイントを抑えます。左上写真の奥に見えている高架橋はリニア実験線で、これがいずれリニア方式で走る中央新幹線として完成するのかもしれません。そこと見比べると、富士急行はいかにものんびり…といった風情で走っていますが、こちらはこちらのペースがあります。それが良いのだと思います。

    

 禾生駅に戻って、今度乗ったのは『トーマスランド』号という仕様になった車両でした。これは富士急行に1編成だけ存在する5000形という車両で、その登場は1975年と少し古いのですが、地方私鉄としては意欲的な冷房付き自社発注新造車という事が評価され、翌年には鉄道友の会ローレル賞を受賞しています。1編成のみの存在という事と、他の車両と連結する事が出来なく、運用も限定されている事から、富士急ハイランドのイベントに合わせて塗装が変更される事が多く、現在の仕様には2007年から、車内も含めて“きかんしゃトーマス”をあしらったものとなりました。普通列車として運行され、こちらは乗車券のみで利用出来るので、出くわしたらラッキー…という感じでしょう。

    

 そしてルート的には前後してしまいますが、この列車で東桂駅まで乗り、そこから大月駅方面に2駅戻るという行程を取りたいと思います。東桂駅付近は、それまでの緩い上り坂から、急な上り坂に差し掛かってくる付近でもあり、当駅から河口湖駅方面の線路を見てみると、駅構内を出てからすぐに上り坂に差し掛かる様子がよく分かります(右上写真参照)。

    

 ここから十日市場駅、都留文科大学前駅と、2駅分“さんぽ”したいと思います。大月駅方面に戻る形となるので下り坂となり、歩いている分には幾分楽かと思われます(笑)。この辺りも坂が続いていますが、意外と住宅が多く、辺りが開けている…という感じではありません。しかしこの狭さが、地元と密に繋がっている富士急行らしくて、こういった区間でも好きであったりはします。

    

 十日市場駅付近では再度桂川を渡り、車内からはその眼下に蒼竜峡の渓谷美が一瞬見渡せるのですが、それを外から撮ろうと思うと、現在では左上写真のように建設中の橋脚が邪魔をして、うまく列車を臨める事が出来ません。それでも背伸び(笑)やカメラのズームを駆使し、なんとか右上写真のような光景を撮る事に成功しました。一応、左上写真にもギリギリですが鉄道橋が写っているのが確認出来るでしょうか…。どちらもほぼ同じ立ち位置から撮っていますが、努力次第でここまでになるのです。まあ、自己満足ではありますけど(笑)。

    

 さて、都留文科大学前駅までやってきました。都留文科大学の最寄り駅であり、2004年に開設された、比較的新しい駅です。行き違い設備はなく、単式1面1線のホームを持つだけの駅ですが、駅舎は立派で、『フジサン特急』停車駅でもあります。駅前は整備され、辺りは都留市西郊の住宅地や商業施設が多く見られます。

    

 ここからは『フジサン特急』で、一気に終点の河口湖駅まで目指してしまいましょう。乗車券の他に特急券が必要ですが、途中駅の都留文科大学前駅からですと、プラス150円で乗れてしまいます(他の区間は300円)。また、1号車は展望室付きの車両となっており、この車両に乗るには着席整理券100円を別途払わなければいけませんが、自分は迷わずこの車両を選びました(笑)。定員制という事で、席は指定されていませんが、色々と席を移動出来るこのタイプの方が、この列車には合っているようにも感じました。

    

 今回乗ったこの2000形という車両は、元国鉄➡JR東日本の165系という車両でして、ジョイフルトレイン『パノラマエクスプレスアルプス』に改造されていた車両です。1987年に登場し、2001年に廃車(そして富士急行に売却)されるまで、JR中央線を中心に運行されていました。実はこの列車は、自分が小学生の時に乗った事があり(確か、新宿駅から甲府駅まで乗ったと記憶しています)、自分も非常に好きな車両の1つでした。引退は残念でしたが、『フジサン特急』として生まれ変わり、こうして再度乗れる事になるというのも何かの縁なのかもしれません。内装はわりと以前のままを留めており、そもそもがグリーン車として運転されていただけに、通路から1段高い所に座席が設置、そしてそのシート間隔も広めと、往年の時代を思わせるような車内の雰囲気を漂わせていました。富士急行でも近々引退になるとの事で、今回が最後の乗車となった事でしょう…。先程通った東桂駅付近や三つ峠駅から臨めた富士山もまた格別でした。

    

 途中の富士山駅でスイッチバックをして河口湖線に入り、少しして終点の河口湖駅に到着しました。『フジサン特急』の前で記念写真を撮る外国人観光客もチラホラいまして、改めて注目の高さが伺えます。河口湖駅では多くの臨時列車を受け入れられるように、駅構内には多くの留置線が設置されているようです。2006年に完成した新駅舎は(左下写真参照)、正に観光の拠点にピッタリの雰囲気で、ここから出発する観光バスも多く、駅前は広めにとられている感じがしました。

    

 駅前には前述のモ1号も保存されていました(右上写真参照)。この時、富士山は少々雲に隠れていて、その全容を見る事は出来なかったのですが、富士山をバックにし、スイスをイメージした駅…と、関東の駅百選にも選定(これは新駅舎が出来る前からです)されています。

 さて、河口湖駅は終点ですが、もう少し“さんぽ”を続けるとしましょう。ひとまず1駅戻り、富士急ハイランド駅へと向かいます。駅前はもう富士急ハイランドの入口という環境の駅です。開業時は“ハイランド”という駅名で、カタカナ表記のみの駅名としては日本初のものでもありました。駅舎は富士急ハイランドの施設と一体化していて、チケットの窓口も設置されてはいるのですが、年間約200万人もの来場数を誇る富士急ハイランドと比較して、この駅を利用する乗客は少なめです。この日の当然の事ながら閑散としていました。

    

 この駅からは更に3駅分戻り、下吉田駅まで“さんぽ”してみます。3駅分というと随分な距離と思うかもしれませんが、間にある富士山駅がスイッチバックの駅となっている性質上、ここからの徒歩ルートは、線路のルートよりだいぶショートカットが出来るので、距離にすれば2km程の“さんぽ”になると思われます(実際の線路のルートは約4km)。

    

 そして、途中には富士山が臨める撮影ポイントもあります。月江寺駅〜下吉田駅の区間が上の写真になります。河口湖駅で見た富士山は半分以上雲が掛かっていましたが、それも少し薄らいできているようで、先程より裾野が多く臨める状態でもありました。…とは言え、雄大な姿には変わりありません。住宅も建て込んでいる地域ですが、何だか絵になる風景です…。富士山も長い間、この富士急行沿線を見守り続けているわけですね。

    

 そうして下吉田駅に着きました。見て分かる人がいたら流石ですが、この駅舎は先程から何度も登場している、水戸岡氏によってデザインされたもので、2009年に建てられました。車両のデザインだけではなく、鉄道施設も取り込んでのトータルデザインという手法が感じられるというものです。この建物内には、カフェも併設されています。

    

 また、何と言っても特筆されるのが、2011年から“下吉田ブルートレインテラス”という施設が登場して、JRのスハネフ14形寝台客車の保存・展示がされるようになった事でしょう。しかもそのヘッドマークを見てみると『富士』となっていました。これには脱帽でした。実際は寝台特急『北陸』に使われていたもので、寝台特急『富士』には使われた事は無いそうですが、実際に使用されていた車両とほぼ同等のもので、大きな改造や塗装変更も行われていたいので、当時の姿が極力再現されているものと言えそうです。車内も土休日のみ開放されており、普通に寝台に座ったり、横になる事も出来てしまいます。自分はこの駅でこんな施設がある事を知らなかったので、駅に着いていきなり目に飛び込んできて、そして車内も入れた事に、本当に驚きました。実に鉄道ファンの心をくすぐる仕掛けが多いですね、富士急行は…(笑)。

    

 さて、富士急行の“さんぽ”も佳境です。再び河口湖駅方面への列車に乗り、2駅進んで、富士急行の中枢とも言える駅、富士山駅に到着です。スイッチバック式の駅なので、ここが終点みたいな雰囲気ですが、あくまでここは大月線と河口湖線の境界駅というだけです。元々は富士吉田という駅名でしたが、2011年に現在の富士山駅に改称しました。同時に、駅舎も水戸岡氏によってリニューアルされ、右上写真のように入口に鳥居が設置される外観となりました。駅ビルはキュースタと呼ばれ、6階建ての立派な建物となっています。正に富士登山の拠点と言える駅でもありましょう。
 …そして、この富士山駅への到着をもって、富士急行の“鉄道さんぽ”もほぼ終了です。あとは新宿駅へ直通する『ホリデー快速富士山』号に乗れば、そのまま帰路となるわけです。あんなに雲掛かっていた富士山も、この時には再度全容を見せてくれました。良い見送りの景色になったのではないでしょうか(笑)。

 今回は路線を行ったり戻ったりと、かなり複雑な経路での“さんぽ”となりましたが、それは如何に効率良く、殆どの車両を写真に収められるか…と考えた結果でした。列車の本数もそんなに多くないので、色々な車両を見たり乗ったりするには、ある程度の工夫が必要なのです。富士急行線内は、“富士急行遊園地線”と言いたくなる程、バラエティに富んで、面白い仕掛けが沢山ある路線なのですから…。

    

 そして、どうしても帰りの列車を『ホリデー快速富士山』号にしたかったのでした。この列車は普段は特急『あずさ』カラーの189系が使われますが、1編成のみの存在で車両検査の関係からか、この日は旧国鉄色の189系が使用されていました。これに乗れただけでも価値があるというものです。元々特急型の車両なので居心地も良いですし、それでいて快速列車なので乗車券だけで乗れてしまうのです。そして、新宿駅まで直通というのが良いですね。朝早く起きた疲れを一気にこの列車で取り戻した感じがありました(ほぼ眠っていたという事ですが…笑)。
 珍しく、事前に列車の乗車の予定を厳密に決め、そして全て順調にそれを実行出来た1日になりました。たまにはこんな計画性のある“さんぽ”も良いですね。ひと味違う達成感が得られたものでした♪

 ☆富士急行のHP…http://www.fujikyu.co.jp/index.php

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 今回の『鉄道さんぽ』は、川崎駅と立川駅を結ぶJR南武線を取り上げます。東京都心部から郊外に延びる路線と連絡している駅が多いので、馴染みがある方も多いこの路線ですが、南武線には尻手駅〜浜川崎駅間の通称“浜川崎支線”と、尻手駅から新鶴見信号所を経由して鶴見駅までを結ぶ、通称“尻手短絡線”という支線が2本存在し、前者の浜川崎支線も取り上げます(後者は旅客営業が無いので取り上げません)。
 南武線の歴史を紐解くと、1920年に設立した南武鉄道という私鉄から始まっています。そもそもは川崎駅を起点に、多摩川で川原で採取した砂利を運搬するのが目的でしたが、すぐに川崎地区と多摩地区を結ぶ交通路線を目指す目的も含まれ、1927年に川崎駅〜登戸駅と、貨物路線の矢向駅〜川崎河岸駅が開業しました。貨物路線を除き、当初から全線電化でした。川崎河岸駅は多摩川の畔にあり、鉄道と水運の結束点となっていました(主に砂利の運搬です)。川崎駅自体に、この機能を持つターミナルを設置しても良かったのですが、川崎駅から多摩川までのルートを南武鉄道は確保出来なかったのです。
 その後、1929年には立川駅までの全線が開業し、1930年には支線の尻手駅〜浜川崎駅間も開業しました。これで、現在の南武線の形態が出来るわけです。前述の川崎河岸駅への貨物路線は、道路網の整備に寄る需要の低下から、1972年に廃止されます。
 1930年以降は沿線に工場が多数進出し、人口も急増してきました。南武鉄道はその通勤客を運ぶ役割も大きくなり、1937年上期(4月〜10月)は乗降客は200万人に達します。そんな中、東海道線や工業地帯と中央線を結ぶ重要路線である事、青梅からの石灰石輸送を担うのに重要な路線である事、軍事施設や重要工場が沿線に多数存在する事等の理由で、1944年4月1日に戦時買収私鉄指定で国有化され(この時期の事情による、半ば強引なやり方によるものだったという説があります)、国鉄南武線となります。
 戦後は、高度経済成長により東京都区部の人口が増加したので、都心へ伸びる私鉄路線との乗り換え駅を皮切りに都市化が進み、利用客が急増しました。1960年代の後半には6両編成化と全線の複線化を完成し、軌道自体も強化されました。車両面では、1963年から20m級の車両配置が行われ、101系、103系と新しくなっていき、JR化後の1989年には、現在の主力車両である205系が配属され、1993年の209系と共に、全体の半分がステンレスカーで占められるようになりました。
 その後2003年になると、JR山手線へのE231系500番台の投入によって余剰となった205系が南武線に回ってくるようになり、翌2004年には205系と209系のみで占められるようになりました(支線は除く)。このように近代化は徐々に進みましたが、2008年になると南武線は、JR東日本による長期経営計画「グループ経営ビジョン2020ー挑むー」において、横浜線、武蔵野線、京葉線と共に“東京メガループ”を形成し、サービス向上に務めていく事が発表され、快速列車が32年振りに復活したり、E233系が投入される等、近代化が一層進められたように思います。
 E233系の営業運転は今月の10月4日からと、本当にタイムリーなタイミングで運転され始め、しかも2015年の秋を目処に、全35編成が投入完了予定だそうです。現在の南武線の車両が全36編成(支線を除く)なので、来年には全てがE233系になる可能性が高そうです。改めて、南武線に乗る…というのは、こんな機会が無い限り実現しそうにないので(笑)、今回取り上げさせて頂きました。支線も含めて、それではどうぞ御覧下さいませ!


 ●日時…2014年10月6日
 ●距離…45,0km
 (川崎駅〜立川駅…35,5km、尻手駅〜浜川崎駅…4,1km、
  尻手駅〜新鶴見信号所〜鶴見駅…5,4km《旅客営業無し》)
 ●駅数…29駅
 (本線…26駅、支線…3駅《尻手駅、鶴見駅を除く》)
 

 この10月6日という日は、大型台風が関東地区に接近していたので、大荒れの天気となっていました。しかしそれも午前中の話しで、午後になると、それまでの天気が嘘のように晴れ間が広がり、何だか散歩日和な青空が覗かせています。南武線は、家からもそんなに遠くない路線なので、まだ間に合うだろうと、午後を過ぎた時間になりましたが、足を運ばせて頂きました。
 …とは言え、付近の鉄道路線は午前中のダイヤの乱れの影響を受けていて、なかなかスムーズに先に進めない場面もありましたが、ひとまずは南武線の起点の川崎駅には14:00頃には到着。昨今の鉄道さんぽでは珍しく、遅い始まりとなりました。

    

 川崎駅での南武線のホームの位置は、5番線、6番線になります。南武線に乗るのは久し振りですが、早速、2011年から運転が開始されている快速(左上写真参照)を確認する事が出来ました。台風が直撃したりしますと、鉄道路線は減便をして運転する時もあり、もしかしたらこの日は快速の運転は休止するのではないかとハラハラしていたものでしたが(笑)、無事に運転していて良かったです。また、いつの間にかJR東日本の通勤車両でも少数派となってしまっている209系初期車(右上写真参照)も見る事が出来ました。いずれは全てE233系に置き換えられるので、貴重なショットとなる事と思います。

    

 ようやく南武線に乗れたのも束の間、次の尻手駅では、隣りに停まっている2両編成の電車に乗り換えなければいけません(右上写真参照)。実はこれも南武線の一部の路線で、旅客案内上では“南武支線”と呼ばれていたりしますが、通称は“浜川崎支線”と呼ばれる路線です。終日、2両編成の専用の電車が尻手駅と浜川崎駅間の4、1kmを結び、ダイヤも日中は40分毎の運転と、あたかもローカル線のような雰囲気が楽しめます。写真の車両はどちらも205系ですが、浜川崎支線の方は先頭車改造がなされていて、ラインカラーも異なるので、あたかも別の車両のように見えます。また、南武本線の方の205系で、ドアの窓が小型なものは、JR山手線から転属されてきた車両です。

    

 こんなに本数が少ないのは、浜川崎駅付近が工業地帯の中にあり、朝夕を覗くと利用者が極端に少ない為…というのが通説でした。これは、すぐ近くを走るJR鶴見線と似たような環境にあるかもしれません。しかし、今回は正に日中での乗車となったものの、利用客もそれなりにいたのは少し意外でもありました。個人的には、空気を運んでいる雰囲気だろうと予想をしていたものの(笑)、何だかんだで1両に10人くらいは乗っていたと思います。

    

 尻手駅から乗ると、八丁畷駅、川崎新町駅で、次が終点の浜川崎駅です。所要時間は約7分となっております。八丁畷駅の手前で東海道貨物線と合流し、線路を共用しながら進み、浜川崎駅の手前で東海道貨物線は分離し、この先、東京貨物ターミナル駅方面へと繋がっています。こちらは正に、貨物列車の大動脈の路線でもあるのです。

    

 そちらとは別世界…と言わんばかりに、旅客用の浜川崎駅は非常にのんびりとした風情が漂よわせています。真新しい雰囲気はまるで無く、Suica が使えるのが意外に感じるくらいでもあります(笑)。この駅はJR鶴見線との乗り換え駅でもありますが、両者の駅が1本の道を挟んで別の場所にあるのが面白いところです。これは駅の建設当時は、どちらも別の私鉄会社だったところが原因によるもので、それでも国鉄買収時には、南武線の方を出来るだけ鶴見線寄りに近付けたそうです。

    

 左上写真が、南武線の浜川崎駅舎から、鶴見線の駅を見たところです。右上写真は、逆に鶴見線の浜川崎駅前から、奥の南武線浜川崎駅を見たところです。大した距離ではないものの、完璧に独立した駅となっているのは、JR線同士の乗り換え駅としては全国でも珍しいです。それにしても、写真で見る以上に、非常に長閑な光景でして、これだけで旅情を感じてしまう程です。遠くに行く事だけが旅の醍醐味ではなく、日常からの脱出に“旅”という精神があるのだと教えてくれるかのようでした。

    

 さて、尻手駅に戻ります。この浜川崎支線は東海道貨物線と繋がっていると前述しましたが、更にその路線は尻手短絡線と言って、尻手駅の武蔵小杉駅寄りから南武本線と分離し(右下写真参照…左に分かれていきます)、近くを走るJR品鶴(ひんかく)線の新鶴見信号所方面へと繋がっています。こちらは旅客営業はありません。品鶴線…とは、聞き慣れない路線名だと思いますが、これは東海道本線の支線の通称で、品川駅で東海道本線と分かれて内陸寄りを走り、武蔵小杉や新鶴見信号所を通って、再び鶴見駅で東海道本線に合流する路線です。そう、これは現在はJR横須賀線や、湘南新宿ラインのルートとなっている路線でもあり、こちらの方が一般的な説明だとは思います。何だか説明が難しくなってきてしまいましたが(笑)、こちらの路線と結ぶ短絡線も、南武線の一部に含まれている…という事です。また、新鶴見信号所からはJR武蔵野線の貨物線にも続いているので、東京貨物ターミナル駅から来た貨物列車は、これらの路線を経由し、様々な路線へと貨物を運ぶ事が出来ているのです。

    

 …さて、南武本線のルートに戻りましょう。まだ、川崎駅から1駅しか来ていません(笑)。南武線は『メガループ』と呼ばれている性質上、都心からの放射状に伸びる路線と多く交差をしています。これは、隣りを走るJR横浜線〔鉄道さんぽ 25.(JR東日本、横浜線編)参照〕と同じ環境にありますが、南武線の方が都心寄りの為か、昔からの住宅地の中を走るような路線というイメージがありますね。

    

 そんな乗り換え駅として、重要な位置に締めるのが武蔵小杉駅です。元々、東急東横線との乗り換え駅として発展した駅ですが、2000年8月に東急目黒線が開業し、東横線が複々線化されたようなスタイルで新たに武蔵小杉駅に乗り入れてきました。JRもこれに負けじと、元々近くを走っていた品鶴線(横須賀線・湘南新宿ライン)にホームを新設(左上写真の、電車がいる辺りの上部に品鶴線は走っています…乗り換えには少々時間を要します)し、2010年3月に武蔵小杉駅として開業しました。この時はまだ改札外連絡となっていましたが、2011年6月には正規連絡通路が完成、現在に至ります。つまり、ここ15年の間に、計5つもの路線の一大連絡駅となったのです。加えて、東急東横線とJR湘南新宿ラインでは、都心と横浜地区を結ぶ路線として、お互いにライバル路線としての位置付けがなされており、サービスの向上に余念がありません。今までは横浜駅〜渋谷駅…での競争だったのが、現在では横浜地区〜武蔵小杉駅〜渋谷駅・新宿駅・池袋駅、埼玉方面…という、武蔵小杉駅を介して、更に幅を広げた競争に変化してきており、これからにも注目されますね。お陰で、武蔵小杉という街の人気度が上がっているのも事実です。

    

 さて、先に進みましょう。武蔵小杉駅を出ると、武蔵中原駅、武蔵新城駅、武蔵溝ノ口駅と、「武蔵」と付く駅が4つ続きますが、この区間は快速列車も各駅に停車します。また、上り列車(川崎方面)は武蔵中原駅で、下り列車(立川方面)は武蔵溝ノ口駅で先行の各駅停車に連絡しています。せっかくなので、この先は快速列車に乗ってみて、南武線の(個人的には初の)快速運転を味わってみましょう。武蔵溝ノ口駅を出ると快速の次の停車駅は、小田急小田原線との接続駅である登戸駅となります。
 通過駅となる途中の宿河原駅では、先頭車改造された205系が留置されてるのを確認出来ました(右上写真参照)。前述の浜川崎支線の車両と同じ先頭形状をしているのがお分かり頂けるかと思います。ちなみに、この留置線から発車した列車は、武蔵溝ノ口駅始発(そこまでは回送運転)の上り列車に使われます。

    

 以前は、快速運転区間はこの登戸駅まででしたが、2014年3月から快速運転区間が稲城長沼駅まで延長されました。それまで川崎駅〜登戸駅間で運転されていた各駅停車も稲城長沼駅まで延長運転し、快速通過駅でも同等の運転本数が確保されています。この区間では快速は稲田堤駅にのみ停車します。京王相模原線との接続駅でもありますが、両者の駅は約400m程離れており
鉄道さんぽ 16.(京王電鉄、相模原線編)参照〕、他の駅に比べると賑わいは少ないかもしれません。
 稲田堤駅を出ると東京都に入り、最近高架化された矢野口駅となります。駅の手前で鶴川街道と交差していますが(右上写真参照)、高架前は踏切で、この道は以前、片側一車線の歩道無しの道路で渋滞が深刻な状態となっており、この区間はその為の高架でもありました。今では鶴川街道も拡幅され、バイパスルートも設置されているので、以前に比べると車の流れもスムーズになっています。

    

 そして稲城長沼駅を過ぎ、ここからは全て各駅停車となって南多摩駅へ。この駅と次の府中本町駅の間で多摩川を渡り、その橋梁を撮影する為に当駅でも降りましたが、ここでついに、この鉄道さんぽ施行日の3日前の10月4日から営業運転を始めたE233系を目撃する事が出来ました(右下写真参照)。まだピカピカの状態で、沿線的にも珍しい存在なのか、カメラを向けるお客さんも多かったです。今後は非常にお馴染みになっていく車両で、逆に205系や209系が貴重になっていく事でしょう。

    

 E233系が撮れたのは、今回は結局この時だけとなってしまいましたが、むしろ今押さえておきたいのは、既存の205系や209系でしょう。世代交代の期間を、ちゃんと見ておきたいように思います。その意味では、夕暮れの中の多摩川橋梁を走る205系(右下写真参照)が撮れたというのは、大変意味のある瞬間だったように思います。この天気を見ると、朝の台風時の様子が嘘のようですが…(笑)。ちなみにこのポイントは、以前の西武多摩川線の是政駅の近くでもあります〔鉄道さんぽ 2.(西武鉄道、多摩川線編)参照〕。

    

 列車は多摩川橋梁を渡る手前で、左側からJR武蔵野貨物線と合流します。そして、多摩川を渡って暫くしてその武蔵野貨物線は南武線の上下線に挟まれるような形になり、府中本町駅へと到着します。この先の武蔵野線は旅客営業を行っているので、旅客案内上は当駅が始発駅と案内されます。南武線の上下線に挟まれる形で武蔵野線のホームがあるものの、武蔵野線のホームが島式で、それに相反するように?南武線のホームは相対式となっているので、両線の乗り換えは必ず跨線橋を使わないと出来ません。また、この先の武蔵野線との立体交差の関係上、南武線の上りホームは半地下のような構造に置かれており(右下写真参照)、このホームとの乗り換えは少々時間を要します。

    

 府中本町駅を出て武蔵野線と分かれ、京王本線との接続駅である分倍河原駅に着きます。ここでの京王本線の下りホームとの乗り換えは、同じJR線同士の府中本町駅以上に簡単で、南武線の階段を上がると、連絡改札後にすぐホームがあるという感じです(右下写真参照)。恐らく、1分もあれば乗り換えは可能でしょう(上りホームへは地下道を通らないと行けません)。これは両社が構内を共用する共同使用駅となっている為で、管轄は全て京王電鉄が行っており、JRの社員は配置もされていません。

    

 さて、辺りもすっかり暗くなってきて撮影も難しくなってきたので、このまま終点の立川駅まで進んでしまいましょう。府中市から国立市に入り、立川市に入ったところで何故か西国立駅という名前の駅を通り(笑)、終点の立川駅に到着します。勿論JR中央線との乗換駅でもあり、JR青梅線の始発駅でもあります。また、駅の西側には多摩都市モノレールも存在し、交通の要所としての機能も持ち合わせています。駅周辺は多摩地域一の繁華街でもあります。

    

 日が暮れてきたので、最後の方はバタバタになってしまいましたが、無事に南武線のさんぽを終える事が出来ました。台風一過の遅い時間の始まりでしたが、E233系を含めて様々な車両を見る事ができ、また、快速運転を含め、正に今の南武線を味わえたという感じでした。派手さの無い路線ですが、前述した通り、南武線は東京メガループに組み込まれた路線でもあり、今後も発展性は大いにあります。まずは、本線の全ての車両がE233系に置き換えられるのが大きな変化といった感じでしょうか。その脇では、今後も恐らく現状を維持しそうな“支線”の存在もあるわけで、思ったより奥の深い路線なのかもしれませんね。

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HN:
竹内大輔(Pf,Key)
性別:
男性
自己紹介:
1980年1月29日生まれ
の生粋のO型(…が、初対面
ではよくA型と見られる)。
3歳(自分では記憶に無い)
からクラシックピアノを始め、
高校ではジャズに目覚め、大学
ではバンドも経験する。現在の
活動は日本全国から海外に及び、
各地のライブハウスやラウンジ、
レストラン、そしてバー等での
演奏は勿論、各アーティストへの
レコーディングや、作曲・編曲
等にも積極的に取り組んでいる。
日本、世界中を飛び回りたい、
鉄道、旅客機、旅行、写真好き。

5月16日(木)
銀座 No Bird
Open…18:00~、
1st…19:30〜、
2nd…21:00〜、
Charge…3500円(ドリンク別)
コースを御予約の方は2500円
Member…(Pf)竹内大輔、
(B)池田暢夫、
(Ds)佐々木俊之

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4th.CD アルバム『Voyaging』
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 From Spartacus”公開中!


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