- 2024/11/23 [PR]
- 2014/08/04 鉄道さんぽ 28.(北越急行、ほくほく線編)
- 2014/06/04 鉄道さんぽ 27.(JR東日本、烏山線編)
- 2014/04/28 鉄道さんぽ 26.(東武鉄道、野田線編)
- 2014/02/28 鉄道さんぽ 25.(JR東日本、横浜線編)
- 2013/12/29 鉄道さんぽ 24.(JR西日本、可部線編)
- 2013/10/16 鉄道さんぽ 23.(伊予鉄道、高浜線編)
- 2013/08/26 鉄道さんぽ 22.(JR東日本、川越線編)
- 2013/06/21 鉄道さんぽ 21.(東武鉄道、東上本線編)
- 2013/04/25 鉄道さんぽ 20.(JR東日本、田沢湖線編)
- 2013/02/27 鉄道さんぽ 19.(しなの鉄道線編)
そして、この路線は国鉄時代の1968年に首都圏と北陸を短絡する路線として“北越北線”の名で着工されます。このルート選定には時間を要し、最終的には十日町、六日町を通る北線案、越後田沢、越後湯沢を通る南線の2案が有力となり、紆余曲折を経て北線案に落ち着き、この路線名になったのだと思われますが、トンネルが多く工事は難航し、建設予算にも限りがあって、計画がどんどん後ろ倒しになってきてしまいました。そんな時に国鉄の経営悪化も進み、ついに工事は凍結されてしまいます。
その後、国鉄再建法に従って、建設が中断された地方鉄道新線については地元が第3セクターを設立して引き受ける事が可能となり、こちらも紆余曲折があったものの、北越急行株式会社が設立され、建設にも修正が加えられ、工事は再開となります。また、この頃には首都圏と北陸を結ぶ北陸新幹線の計画もあがっていましたが、建設の見通しが立たない事から、北越北線を高速化し、スーパー特急を走らせる構想が運輸省から出されました。これで北越北線は首都圏と北陸を高速で結ぶパイプの役割として、元々優等列車の運転を想定していた高規格の線形を生かし、現在の姿で運行を始めるのです。
ほくほく線が開通したのは1997年3月22日。路線名の“ほくほく線”は、国鉄新線として名付けられていた北越北線を略して平仮名化したものですが、これは同鉄道の愛称等ではなく、正式な路線名称となっています。開業と同時に、上越新幹線の越後湯沢駅から、JR上越線を経由して六日町駅、そして犀潟駅に抜けてJR信越本線、JR北陸本線のルートで富山、金沢方面へと結ぶ特急『はくたか』号の運転も始まりました。それまで、首都圏と北陸を結ぶルートというと、東海道新幹線の米原駅経由か、上越新幹線の長岡経由のルートがあり、場所によってその2種類のルートから選ぶ…という感じでしたが、ほくほく線開業により、その殆どが越後湯沢駅からの『はくたか』を乗り継ぐルートが有利になりました。…なので地方路線ではありますが、旧国鉄から第3セクターに移管した方式の鉄道路線としては、愛知環状鉄道に次いで2位の輸送密度、8000人/日…を計上している、利用者の非常に多い路線となっています。経営状態を見ても、10日間しか営業していなかった初年度を除いて毎年黒字を計上し、しかもその数字は年数億円規模となっている程です。
しかし、御存知のように現在は北陸新幹線が建設され、2015年の春には開業が予定されています。そうなると、特急『はくたか』号は減便、あるいは廃止が予想され、同社のドル箱列車無しでの経営方法を考えていかなければいけませんが、勿論それは同社も予想済みで、これまでの利益を赤字補填用に蓄えてあるのだそうです(目標は、2014年までに100億円との事でしたが、2012年度の決算にて、それを越える事に成功したと発表されました)。
これらは、実際に蓋を開けてみないと分からない部分もありますが、色々な対策が考えられているのは事実でしょう。…という事で、『はくたか』号の現在のような活躍も、北陸新幹線の開通である2015年の春までかもしれなく、もう残された時間は僅かしか無いという事になりました。自分は、この路線は特急『はくたか』号でしか通過した事が無く、沿線の風景も知らない部分が多かったので、今回の“鉄道さんぽ”のタイミング的には、正に今しか無い路線だと言える事が出来ましょう…。冬の時期に取り上げても良かったのですが、降雪量の多いこの地域的に、問題無く“さんぽ”が出来るかどうかも疑わしかったので(笑)、8月の現在の時期とさせて頂きました。ほくほく線というと、やはり雪のイメージもありましたが、今回の時期に“さんぽ”をして大正解。夏ならではの風景をバックに走る、ほくほく線の絵画的な姿を見る事が出来ました。勿論、その分暑さは尋常ではなく(笑)、体力的にも大変だった状況でもありましたが、とても良い印象を残す事が出来たと思いました。それではどうぞ御覧下さい!
●日時…2014年8月2日 ●距離…59,5km ●駅数…12駅
ほくほく線の起点は六日町駅ですが、前述のように首都圏と北陸を結ぶ路線の性格が強い為、特急列車は全て、普通列車も殆どがJR上越線に乗り入れ、上越新幹線との接続駅である越後湯沢駅を発着する列車が多いです。尚、六日町駅が起点駅ではありますが、犀潟方面を上り列車と称し、六日町方面を下り列車と称しています。これは特急『はくたか』がJR西日本主体の列車であり、JR北陸本線に合わせた為です。
『はくたか』に使用される車両は、通常681系、683系(外観は681系と似ています)とあり、それぞれに自社用の車両と、JR西日本所属のものが存在します。見分け方は簡単で、赤色のラインが入っているものが北越急行所属、青色のラインが入っているのがJR所属のものとなっています。これらは共通運用が組まれており、つまりは日によって担当の車両が変わったりするわけですが、『はくたか』は殆どが6両+3両の9両編成で運行されていて、1編成内に2社の車両が組まれている事もしばしばです(上写真参照)。ちなみに、これらの運用は同社のHPに載っています。
越後湯沢駅を出発すると、途中に石打駅、大沢駅、上越国際スキー場前駅、そして塩沢駅を経てから六日町駅となりますが、石打駅と大沢駅は常時、上越国際スキー場前駅は季節によって、普通列車も全列車が通過となります。六日町駅は、上越線の長いホームに対し、ほくほく線側は普通列車の最長編成?である2両編成までの長さとなっています。この為、『はくたか』は六日町駅を通る際には上越線側の線路を使用し(左下写真参照)、停車する時にも上越線のホームを使います。ほくほく線のホームには、片岡鶴太郎氏の描いた駅名票が掲げられており(右上写真参照)、これは、ほくほく線全駅に施行されています。
さて、ほくほく線に入ります。六日町駅を後にすると、上越線を右に見ながら左カーブして、坂を上っていきます。この後の長大トンネルに入るまでに高度を稼ぐ為ですが、そのまま無人駅の魚沼丘陵駅に着きます。正に駅名通りの土地の場所です。ちなみに、ほくほく線での有人駅はJRとの接続駅である六日町駅、十日町駅、犀潟駅のみとなっており、他は全て無人駅となっています。
魚沼丘陵駅付近は緩いカーブとなっていて、制限速度が設けられているのですが、その制限速度は120km/時〜125km/時と、他社線から見たら全く制限が掛かっていないような速度となっています(笑)。確かに、ほくほく線の最高速度は、新幹線を除いた在来線の最速である160km/時となっているので、制限と言えば制限なのですが、ほくほく線を特徴付ける事例だとも言えるでしょう。この為か、無人駅のホームの入口にはスイングゲートが付いていて、列車に乗降する時以外にはホームに入らないように…との案内書きがしてあります。
さて、正に魚沼丘陵!という風景を臨んだ後、列車は全長10471、5mの赤倉トンネルに入ります。これは、JR以外の鉄道トンネルでは日本最長を誇るトンネルでもあり、トンネル内に赤倉信号所(列車の行き違い可能)と美佐島駅(行き違い不可能)が存在します。ほくほく線は普通列車でも最高速度110km/時を維持しており、トンネル内でも結構なスピードを出すのですが、勿論これは、特急『はくたか』の運行の影響を極力少なくする為でもあります。
せっかくなので、赤倉トンネル内にある美佐島駅に降りてみます。この日は真夏の太陽が照り付け、相当暑い日だったのですが、トンネル内のホームに降りると空気は冷んやりとしていて驚かされました。普通列車しか停まらないのでホームも2両分しか無く、何だか不思議な雰囲気の駅です。そしてホームの外に出るには、分厚いドアを2ヶ所(ホーム側の1ヶ所は、その時の運転士がリモコン操作で開錠しているとの事)通らなければいけない仕組みになっていました。
つまり、列車通過の際に起きる風圧が凄い為、客扱い時以外はホームに立ち入れられないようにしてあるのです。当駅下車後は、2分以内にホームから出る必要があり、ホームは防犯カメラで監視もされているので、列車発車後にホームに残っているとアナウンスで退出を促されるそうです。そしてドアが何故2ヶ所あるかというと、列車発車の際に起きる気圧差で突風が起きる可能性がある為に、この2ヶ所のドアは同時に開かないようになっているのです。入ってきたドアが閉まってから、ようやく次の扉が開く…という感じです。なかなか物々しい状況ですが、階段を上がって地上に出てみると、右上写真のように喉かな風景の中の駅となっています。
駅前には道路が通っていますが、何も事情を知らない人から見たら、まさかこの建物の地下に鉄道路線のホームがあるとは思わないでしょうね…。無人駅ですが駅舎は立派で、建物内には誰でも使え、エアコン完備の畳敷きの無料の待合所(右上写真参照)まで設置されています(今年の9月にボヤ騒ぎがあったのとの事で、現在は終日閉鎖されているとの事…残念です)。
さて、不思議な光景の美佐島駅を過ぎ、まだまだ赤倉トンネルは続きますが、その出口直後にしんざ駅があります。この場所の地名は新座という場所ですが、漢字表記にするとJR武蔵野線の新座(にいざ)駅と重複するので、しんざ…と平仮名表記になっているようです。
ここから次の十日町駅までは1、5kmと短いので、早速“さんぽ”してみましょう。しんざ駅は既に十日町の市街内にあるとも言え、少し歩くと建物が徐々に増えてきて、雁木型アーケードの街並みになります。雪の多い土地である事が伺えるというものです。そしてJR飯山線と合流し(線路は繋がっていません)、十日町駅となります。ほくほく線で数少ない有人駅ですが、前述の六日町駅と犀潟駅ではJRの駅員による有人駅であるのに対し、当駅は唯一の、北越急行社員による有人駅となっています。飯山線の列車の本数は少なく、日中は3〜4時間も列車が来ない時間帯もありますが、ほくほく線はほぼ1時間に1本は列車が確保されており、『はくたか』も何本か停車します。正に、ほくほく線が開業して特に便利になった地域でしょう。ここから車で越後湯沢方面に向かうにも、どうしても山越えになってしまうので1時間以上は掛かってしまいます。特急『はくたか』なら30分程度で着きます。
地上駅の飯山線に対し、ほくほく線は勿論高架駅。1面3線となっており、東側には通過線も存在していて(左下写真参照)、通過列車はホームには入らずに、高速で通過本線を通っていきます。十日町駅を過ぎると、市街地を地下でやり過ごす?為、下り坂になって(右上写真参照)トンネルに入ります。一気に市街地をトンネルで抜けると信濃川を渡り(右下写真参照)、今度は全長6199、17mの薬師峠トンネルへと入ります。トンネル内には薬師峠信号所があり、ここでは列車の行き違いが可能です。
薬師峠トンネルを抜けると、大小4つのトンネルを抜け、まつだい駅へと着きます。ちなみに十日町駅〜まつだい駅間の距離は13、3km。ほくほく線の中で、最も駅間が長い区間でもあります。まつだい駅は、ほくほく線発祥の地でもあり、北口には“ほくほく線発祥の碑”も建てられています。駅舎も北口側にあり、道の駅まつだいふるさと会館(左下写真参照)に併設しているので、あたかも有人駅のような雰囲気となっていて、レストランは勿論、お土産屋や休憩所も用意されています。対して南口は、まつだい雪国農耕文化村センター「農舞台」に直結していて、駅周辺にもアート作品が点在している感じ(右下写真参照)になっています。
まつだい駅付近の特急列車は160km/時での走行が許容されていて、全国でも珍しい信号を見る事が出来ます。それが、左下写真の“高速進行信号”というものです。緑色のランプが2ヶ所付いているのが特徴で、この信号表示の場合には、列車は130km/時以上での進入が可能になります(681系・683系使用の車両でなければ表示されません)。この信号の導入により、それまでの緑1灯の信号表示は、130km/時の制限信号という事になりました。
…さて、先に進みましょう。まつだい駅を出ると、またまた長大トンネルの鍋立山トンネルに入ります。全長は9129、5mです。沿線を見ても分かるように、山越えルートが続くので、どうしてもトンネルが多くなってしまいますが、実際に沿線の7割弱はトンネルで占められています。これは、車窓の景色があまり楽しめない…という状況になってしまっているわけですが、ほくほく線ではそれを逆手に取り、トンネル走行時に車内で映像を鑑賞を出来る“ゆめぞら号”という車両が運行されています。普通列車に使用されるHK100形の、アレンジバージョンのような車両が使われています(右上写真参照)。
その車内の様子は上写真の通りです!…2両編成ですが、前後の車両と季節に応じて、様々なパターンが用意されているらしく、BGM付きでもあるので、確かに飽きる事無くトンネル内が過ごせそうです。また、静かに過ごしたい人用?…なのか、ドアがある車端部付近は常時照明のスペースとなっています。この列車は基本は土日祝日に運転され、多客期は毎日運転されます。他の日には一般車両と共通運用が組まれ、その場合は上映はされないようです。
そんな上映されている最中、トンネルを出ると(この時に上映は中断されます)、単線ホームのほくほく大島駅に着きます。そしてすぐにまた2連続のトンネルで、これを出たところが2面2線(列車の行き違いが可能)の虫川大杉駅。この駅を出ると、またトンネル…、そして出たところが、単線ホームのうらがわら駅…。これをまた出ると、再び2連続のトンネルで、それらを抜けたところが、こちらも単線ホームの大池いこいの森駅…と、正にトンネルか、駅か…、という状況が続きます…。単線ホームの駅が多いですが、ほくほく線には列車行き違いの為の信号所(全てトンネル内)も多く、行き違い可能の駅と合わせると、大体5km〜10kmの間隔で行き違い設備があるような状況になっています。トンネル内で列車交換をする事も多く、駅も無いのにトンネル内で暫く停車…という状況はよくあります。
さて、大池いこいの森駅まで来ると、長い山岳地帯を抜け、ようやく平野部に降りて来た感じになります。しかし、まだ降り切ってない…という所でもあり、当駅周辺には民家が無く、駅だけポツンとあるような、不思議な環境の駅でもあります。降りる人も殆どいなく、2012年度の1日平均乗車人員は5人だったとか。…それでは当駅から、次の駅のくびき駅までの約2kmを“さんぽ”してみましょう。
話しには聞いていましたが、本当に駅の周囲には民家が1つもありません。何故、こんな所に駅があるのか…という考えに至ってしまいますが、駅付近には野外活動施設の、大池いこいの森があり、こちらへの利用者を見込んだのでしょうか。しかし、風景は素晴らしく、列車を撮影する際に、どこを切り取っても絵になります。路線的には、カーブしながら平野部に降りていく…という感じの区間なので、周囲の風景と相まって、自然的にも迫力的にも申し分無い状況が作り出されているのです。しかも、これらの風景は駅を降りた瞬間から始まっているので(右上写真は駅のホームから撮影したものです)、変な話し、撮影の為に設置された駅なのでは…と思ってしまうくらいです(笑)。
上の写真を見ても、路線が下り坂でこちらに向かって来ているのが分かります。左奥に微かに見えるのが、前述の大池いこいの森駅です。勿論、列車は快適にスピードを出して通過していきます。これが新しく出来た鉄道の風景なのかもしれません。この区間を過ぎると、全長250mの短いトンネルを抜け、くびき駅へと着きます。ここは頸城平野の真っ只中で、この先にはもうトンネルはありません。ちなみに、頸城が“くびき”と読みます。少し難読感があるので、平仮名の駅名になったのかもしれません(また、全体的に平仮名表記は親しみやすい…というのもあるようです)。
くびき駅の駅舎は特徴的で、後ろか見ると右上写真のような感じです(笑)。正面からの姿も見たかったですが、残念ながら工事中で、全容を拝む事は出来ませんでした。当駅は2面2線のホームで、列車の行き違いが可能な駅です。
くびき駅を過ぎると、いよいよ終点の犀潟駅となりますが、この間の区間が、ほくほく線最大のハイライト区間でもあると言えましょう。頸城平野を築堤と高架橋で抜けるのですが、喉かな田園地帯を横切る近代的な高架橋路線は、現代の鉄道路線の美とも言えるような風景を作り出してくれます。ここを撮影に訪れる人は多く、周囲が開けているので様々なアングルが可能です。写真は午後の風景ですが、夕陽の時間帯は本当に綺麗なんだろうと思います。ここは既に日本海側の土地…。太陽が沈む方向のエリアでもあります。
手前味噌ながら、開放的な良い写真が撮れたと思うのですが、写真の風景とは裏腹に、環境はなかなか厳しいものがありました。前述したように、この日は太陽が強く照り付ける、いわゆる猛暑日にあたる日でして、そもそも今回のほくほく線の“さんぽ”では、ある意味で太陽と格闘しながら(笑)ここまで辿り着いたわけですが、終盤戦のこのポイントは、そんな最後の総仕上げの如く、暑さと眩しさが半端では無く、何とか撮りきった…という感じだったのです。陽を遮る所も無く(だだっ広い平野ですから)、当然の事ながら休憩する場所も無く、ただただ、列車と対面する時間でした…。何だか鉄道さんぽ的に、ひと回り大きくなれたような気がする1日でもありました(笑)。
さて、くびき駅に戻り、ほくほく線最後の乗車となります。列車はひたすらに日本海側に向けて走り、右側にJR信越本線が見えてくると、その上下線の間に入り込むような形で駅構内に進入し、犀潟駅となります。ほくほく線の区間はここまでですが、列車は殆どがJR線に乗り入れをしています。普通列車はこの2つ先の直江津駅まで、そして『はくたか』は更に先の金沢方面までを結んでいるのは、もはや言うまでも無いですね!
流石に歴史がある犀潟駅は、駅の雰囲気も昔ながらという感じで、ほくほく線のそれとは全く様子を異にします。ほくほく線の普通列車は、上下線とも真ん中の2番線を使用しますが、全列車通過の『はくたか』は、両側の1、3番線を使って当駅を通過していきます。
せっかくなので、普通列車の乗り入れ先の直江津駅まで足を伸ばしてみましょう。途中に黒井駅がありますが、普通列車も含めて、ほくほく線の列車は全て当駅を通過しています。なので、ほくほく線の列車に乗っていると、犀潟駅の次が直江津駅…という事になります。周囲の土地は低く、海側には松林が立ち並び、新潟の日本海側らしい風景が続きます。
そして、住宅や工場が多くなってくると直江津駅に到着します。上越市の交通の要衝とも言える場所で、JR東日本とJR西日本の境界駅でもあり、管轄はJR東日本ですが、当駅を終点とするJR北陸本線の普通列車等、JR西日本の車両が多く見られます。
特急列車も全てが停車する、正に機能的にも交通の要衝ですが、北陸新幹線が開通する際の、この上越市内の駅は、市南部に所在する、信越本線の脇野田駅を移設して設置される為(新幹線開通時に、上越妙高駅になる予定)、新幹線はこの駅は通らない事になります。また、新幹線開業の際は、新幹線と並行する信越本線の長野駅〜直江津駅、北陸本線の直江津駅〜金沢駅がJRから経営分離され、県や沿線時自体が出資する第3セクター鉄道になり、新潟県担当のこの区間は「えちごトキメキ鉄道」となります。直江津駅の施設自体もこの鉄道会社に譲渡されるので、直江津駅にとって、大きな変革の時代を迎えようとしているわけです。
この記事を書いている途中に、北陸新幹線の開通は2015年3月14日…という発表がありました。もう半年を切っています。そう考えると、このタイミングでほくほく線を取り上げておいて良かったと思いますが、新幹線開通後の当路線も気になるところですね。新幹線開通の陰で経営が苦しくなってしまっている鉄道会社は多々あるのですが、そんな状況への打開策、そして参考の要になるのかどうか…。自分も楽しみにしながら待つ事にしましょう。北陸新幹線が開通したら、まず新幹線で金沢に行き、帰りは新装された在来線と、ほくほく線で帰ってくるのも良いかもしれません(笑)♪
☆北越急行株式会社のHP…http://www.hokuhoku.co.jp
非電化路線なのに電車が導入…というのは不思議な話しですが、簡単に言うと、パンタグラフを持つも、車体にリチウムイオン電池を搭載し、架線の無い区間でも走れるようにした電車なのです。愛称は、蓄電池を表す英語の Accumulator から“ACCUM”(アキュム)と名付けられており、早速地元では、烏山線で初の電車!…という事で、大きな歓迎がされています。確かに、この車両に対する期待は大きく、今のところ搭載されている蓄電池の容量が烏山線に適していた事から(宝積寺駅〜宇都宮駅間で、電化されているJR東北本線に乗り入れているというのも、適合の理由に値するでしょう)、まずは烏山線への導入に至ったようですが、色々と応用する事によって、他線への導入も考えられる事でしょう。ディーゼルカーよりも環境に優しいのは確かですし、近代化も一気に進展していきそうです。
そして、ここが大きいのですが、いずれは烏山線は全てEVーE301系での運転に置き換えられるようで(時期はまだ未定)、現在のようにキハ40形と共演している期間は今しか無いのです。烏山線は、栃木県という、東京からもそんなに時間を掛けずに訪れる事が出来る、気軽なローカル線ではありますが、今の雰囲気がいつまで続くかも分からず、今回の『鉄道さんぽ』の路線とさせて頂いたのでした。
日中は2時間に1本しか走らないような路線である為、行き当たりバッタリで乗るわけにはいかず、わりと計画を立てて臨んだものの、早速この日の早朝にキハ40形の車両に不備があり、ダイヤが乱れるというトラブルが発生してしまいました。本数が少ない路線でのダイヤの乱れは大変な事で(笑)、計画が崩れてしまうのかと心配にもなりましたが、ACCUM にも無事乗れ、烏山線を満喫する事が出来ました。久し振りの本格的なローカル線もあります。どうぞ御覧下さいませ!
●日時…2014年6月2日 ●距離…20,4km ●駅数…8駅
烏山線の起点は宝積寺駅ですが、前述のように東北本線に乗り入れ、2つ先の宇都宮駅まで顔を出している列車も数多く設定されています。今回も宇都宮駅に朝7:20頃には到着し、宇都宮駅に7:33に到着する烏山線からの列車を待ち構えていたものでした。この列車は、朝ラッシュ時に1往復だけする烏山線唯一の3両編成の列車だからです。
しかし、所定の時刻を過ぎても列車は到着しません…。おかしいなと思いましたが、ラッシュ時でもあるので、混雑か何かで遅れているのかなとも思ったりしていました。そのまま10分程が経ち、ようやく駅の放送で、宝積寺駅で車両トラブルの為、運転を見合わせている…との情報が入ってきました。
これはなかなか困りました。最近の『鉄道さんぽ』のように10分程待てば次の列車が来るような路線だったら良いのですが、烏山線は1〜2時間毎の運転と、1本が運休になっただけで、だいぶ計画が崩れてしまうのです。その後、続報を待ちましたが、どうやら運休になるのは東北本線区間の宝積寺駅〜宇都宮駅間だけのようで、次に乗ろうとしていた宇都宮駅始発の烏山駅行きの列車も、宝積寺駅始発になるとの事。…という事で、ひとまず東北本線の列車で宝積寺駅まで向かい、改めて乗り換えて、烏山線入りを果たす事になったのでした。とりあえずは烏山線自体が運休にはなっていなさそうで良かったです。
そうして訪れた宝積寺駅では、乗り換えの際の跨線橋はホームが、朝の通学の学生で大混雑をしていました。のんびりとした列車旅を期待していた自分からすると意外な光景でしたが、学生達は2つ目の仁井田駅で一気に降りていきました。そして車内は、右上写真のような状態へ…。はい、これこそイメージ通りのローカル線の光景でございます(笑)。
烏山線は列車の本数が少ないので、手前の駅から順に“さんぽ”を進めていくと、どうも効率が悪くなってしまう事が分かっていました。…なので今回は、なるべく効率の良い“さんぽ”をするべく、路線を行ったり来たりしながら向かわせて頂きたいと思います。本数が少ないとは言え、路線延長が短いので可能なやり方とも言えましょう。…という事で、まず降りたのは大金という駅でした。この駅は、再度訪れる事になりますが、まずは大金駅から次の小塙駅まで“さんぽ”をしてみましょう。大金駅は、単線の烏山線で唯一列車の交換が出来る駅で、早速旧国鉄2色塗装に塗られたキハ40形を見る事が出来ました(右下写真参照)。ちなみに、白色の車両が、烏山線用に塗られた塗装であります。
大金駅は「おおがね」と読みますが、縁起の良い名前なので、宝積寺駅と合わせて、烏山線全体に七福神のキャラクターが設定されていたりします。その最たる例が駅名板で、宝積寺駅を除くと全部で7駅ある事から、それぞれに異なる七福神が描かれています(宝積寺駅の駅名板には全員が集合しています)。ちなみに大金駅はやはり、大黒天が描かれていました(笑)。また、烏山線に所属しているキハ40形にも、それぞれ車両毎に、異なる七福神が描かれています。
…さて、列車が行ってしまうと、大金駅(無人駅です)周辺は急に静寂に包まれました。次に烏山方面への列車が来るのは約2時間後で、その列車が来る前に小塙駅まで到達していれば良い事になります。同時間帯に宝積寺方面の列車も来るので、途中でその列車をカメラに収める事も出来そうですね。この近くには荒川(埼玉、都内のものとは異なる川です)という川が右に左に蛇行しながら流れていて、大金駅から小塙駅までは“さんぽ”ですと線路と並行して進めず、結構回り道をしながら向かう事になるのですが、それでも約1時間程で小塙駅には着いてしまう事になりました。余裕の到着ですが、この日は天気が良かった為に、既に汗だく且つ、日焼けも心配な感じではありました。
荒川を渡るキハ40形(左上写真参照)を撮りつつ、片面ホームの小塙駅へ。ホームは意外にもリニューアルされていて、綺麗な姿を留めていました。この駅も無人駅…と言いますか、烏山線の駅は基本、終点の烏山駅を除いて無人駅となっています。ちなみに、小塙駅には恵比寿神が描かれていました。
…さて、先程撮った列車は宝積寺方面の列車だったので、恐らくこの先の大金駅で烏山方面への列車と擦れ違い交換を行っている事でしょう。そしてその烏山方面の列車も、そろそろ小塙駅にやってくる頃です。そしてその列車こそがいよいよ、前述した ACCUM での運行となっていたのでした。
…暫くして、遠くから電車風の車両がやってきましたが、パンタグラフは畳んでありますし、何よりここは非電化区間であるというのが、見た目的に不思議な感じを醸し出しています。今まで乗ってきたキハ40形のようなエンジン音はせず、時折モーターの音が聞こえるので、やはり電車という括りになるのでしょうが、これが蓄電池駆動電車の特徴という事なのでしょう。車内は最近のJR東日本の車両という感じで、両開き、3扉車である事から、都心を走っていても差し支え無さそうな雰囲気でした。また、車内灯は LED 化されており、正に最新鋭の技術を持って生まれた車両であるとも言えるでしょう。また、駅を発車する時に発車メロディが流れてきたのですが、これは車両側に設置されているもので、成程、無人駅等を走るローカル線ならではの対策がされている車両なのだとも思いました。
この列車で、このまま終点の烏山駅まで向かってしまいましょう。蓄電池駆動電車というからには、どこかで充電ポイントが必要になってくるわけですが、正に烏山駅には上写真のように、一部分だけ充電設備として架線が張られているのです。これらの写真をよく見ると、左上の方はパンタグラフを降ろしていますが、右上の方を見るとパンタグラフを上げ、いわゆる「充電中」である事が分かります。そしてどうやら充電は5分程で完了してしまうらしく、だいぶ実用的な「充電時間」となっているようでした。ホームには“充電ゾーン”の案内も描かれ、この日は平日だったものの、休日にはこの車両見たさに、お客さんの数も増えているのだとか…。何だか明るい話題で喜ばしい事ですよね。
では、この烏山駅から1駅“さんぽ”して戻ってみる事にしましょう。充電は5分で終われど、次にその列車が折り返して発車するのは約1時間半後で(笑)、この列車を、1駅手前付近にある烏山線の有名撮影ポイントで写真に収める…というのが次の目的となります。
その1駅手前の駅は滝という駅で、正に駅の近くに龍門の滝という滝があり、その滝の向こうの方を烏山線が走る…という構図が得られるポイントがあるのです。今回、自分は烏山線に乗るのは3回目だったのですが、恐らく初めて乗ったのは中学生ぐらいの頃だったと思います(2回目は仕事で乗ったので、特に何も見ていません)。そして、その時にもこの滝駅は訪れていて、前述の構図で写真を撮っていたのでした。あれから20年近くは経ってしまいましたが、その時撮ったのはキハ40形。そして今回はEVーE301系 ACCUM(左下写真参照)…。ゆっくりですが、確実に烏山線の時代は変わろうとしているのが、改めて感じられたような気がしたものでした。
カメラに収めた ACCUM を見送ると、今度の同方面への列車がやってくるのは約1時間半後となります。既にこの場所に30分以上も居た為に、再度烏山方面の列車に乗り、烏山駅周辺でお昼ご飯を食べつつ時間を潰す事にしました。今回の『鉄道さんぽ』は、歩いた総距離は結構なものになると思いますが、相当時間の進み方がゆっくりな気がしますね。
烏山駅で1時間程滞在した後に出発し、再度大金駅へとやってきました。今度は宝積寺方面に1駅“さんぽ”していきたいと思いますが、大金駅ではキハ40形と ACCUM の並びを見る事が出来ました。日中の烏山線の運用は2編成のみによって賄われていて、その内1編成は ACCUM なので、必ずその2編成が擦れ違うように設定されている大金駅では、これら新旧車両の共演が見られる事になっているのでした。改めてその2種類の車両を見ると、随分 ACCUM はモダンだなと思いますが、キハ40形は重厚感があって、何とも鉄道らしい車両だなとも思います。いずれ烏山線は ACCUM だけの運行になってしまうので、キハ40形もここでは見られなくなってしまいそうですが、強く目に焼き付けておきたい光景でもありました。
ここ大金駅から1駅先の鴻野山駅までの距離は4、4kmと、烏山線で最も駅間の長い区間でもあり、最も景色に変化が富んでいる区間でもあります。路線的には、大金駅から鴻野山駅に向かうに従って長い上り坂になっており、軽い山越えをしていくような感覚が得られます。そこを歩くのですから結構大変ですが、純日本風景と言いますか、何とも素朴で烏山線らしい雰囲気が味わえた区間だとも思いました。やはり、こういった区間にはキハ40形が似合いますね。
烏山駅から乗ってきた列車で大金駅に着いたのが14:15頃。そして、上写真のポイントでそれぞれの列車を撮ったのが15:40前後。そして鴻野山駅に着き、そこから宝積寺方面への次の列車は17:07発でしたから、4、4km(この距離は路線上なので、実際は更に歩いています…)を、約3時間掛けて“さんぽ”した事になりました。本当にのんびりとした“さんぽ”ではありませんか。そして、日中は2編成のみの運用が故、この日は何度同じ車両を見た事か…(笑)。朝方に見た旧国鉄塗装の編成が既に懐かしいですが、何だか烏山線が非常に身近な存在に思えてきてしまいましたね。
…さて、鴻野山駅を出て暫くして、列車は元来たところの宝積寺駅(右下写真参照)に到着。これにて烏山線の“さんぽ”は終了となりました。宝積寺駅の側線を見てみると、首都圏色と呼ばれる朱色1色のキハ40形(烏山線が開通90周年を迎えた2013年に、記念として塗り替えられました)が1両留置されていて、夕方になって運用に入った旧国鉄塗装の編成と合わせて、烏山線所属の全3パターンの塗装のキハ40形を収める事が出来ました(左下写真参照…写真の右側を走っているのは東北本線205系です)。これから引退するであろうキハ40形を、少しでも沢山見る事が出来て良かったです。
関東では最後のキハ40形使用路線となっている烏山線ですが、この日は思う存分満喫出来たように思いました。勿論 ACCUM の存在も忘れてはいけませんが、汽車旅を演出してくれたのは間違い無くキハ40形の方でしょう…。ローカル線とは言え、栃木県の宇都宮を拠点としているので、首都圏からは気軽に行く事が出来ると思います。是非その「汽車旅」ならではの雰囲気を体験して頂きたいですね。…そして、恐らく他の路線にも応用出来るこれからの ACCUM にも、どうぞ注目していって下さい!
※それにしても日差しの強い、暑い1日でした。この烏山線の“さんぽ”の後、
宇都宮で餃子(ビールセット)を食べたのは言うまでもありません(笑)。
“東武アーバンパークライン”…。御存知でしょうか?…これ、実は今年の4月からの東武野田線の新しい愛称名なのです!…東武鉄道的には、都市(アーバン)近郊を走り、沿線に数多くの公園(パーク)が存在するから…との事ですが、個人的な野田線のイメージというと、東武鉄道の路線の中でも地味な方であり、都市…というより田畑や雑木林が、公園…というより、野田の醤油工場のイメージの方が強い路線でもあったので、何故にこのような名前が?…と考えてしまうのも無理は無いように思いました。
…こう思ったのは自分だけではなく、沿線の方や鉄道ファンの方も同じように思ったらしく、何故名前を変えなければいけないのか…という意見や、愛称名が導入されたのが4月1日だったので、本気でエイプリールフールの一環だと思った方もいたそうです(笑)。
…とは言え、最近の野田線は昔に比べると、沿線にも変化が生まれてきているのは確かです。野田線は大宮駅から春日部、野田、柏を通って船橋駅に至る路線で、東京30km圏内の東半分を結ぶ校外路線でありますが、1980年以降の宅地化は著しく、人口減少という傾向の中、利用者数は未だに伸びています。…しかし、埼玉県と千葉県にまたがって路線が形成されているにも関わらず、特急や急行等の優等列車は臨時列車を除いて一切走らず、実際、大宮駅から柏駅や船橋駅に行くには、野田線を使うより、乗り換えがあってもJRを使った方が早く到達出来ます。車両も、今までは東武伊勢崎線や東武東上線の“お古”を回される事が多く、2004年にやっと8000系に統一されたのですが、この時点で他の東武の路線では、8000系が通勤型車両で一番古いという状況でした。この状況は2012年まで続きますが、2013年になって突如、野田線専用に新型式車両の60000系が導入されます。野田線に新型式の車両が導入されたのはこれが初めての事で、これは流石に自分も驚きました。そして、この60000系の導入の少し前には、ステンレス車体の10030系も野田線に導入され(こちらは伊勢崎線や東上線のお古でしたが…)、こちらは何と塗装をわざわざ変えての導入となっていました(こちらも非常に驚きました)。
つまり、野田線ブランド…というものを作っていっている感じがしたのです。野田線に自分が初めて乗ったは恐らく小学生くらいの頃で、中学生以降くらいになると、殆ど乗る事の無いまま現在に至ってしまいましたが、今回、約20年のブランクを持って“さんぽ”した野田線は、自分の予想以上に近代化が進んでいる路線でもありました。駅の発車ベルは全駅がメロディ化され、船橋駅には東武鉄道初のホームドアが…。流山おおたかの森駅の発展は凄まじく、清水公園駅周辺は“ソライエ”という、東武鉄道のマンションブランドの住宅都市開発が成される地域になり、その広告のキャラクターとして、“のだめカンタービレ”が起用されていたのです(確かに、のだめの名字は野田…笑)。
確実に“アーバンパークライン化”が推進されていました。東武野田線の駅に立つと、野田線という表示は殆ど無く、既にアーバンパークラインの表記に取り替えられていましたが、東武鉄道では野田線を基幹路線と位置付けており、まだまだ今後に期待される路線としての意思表示もあるのでしょう。そんな野田線の今を、じっくりと味わせて頂きました。前置きが長くなってしまいましたが、それではどうぞ御覧下さい!
●日時…2014年4月26日 ●距離…62,7km ●駅数…35駅
野田線の“さんぽ”は、起点の大宮駅から始めようと思います。野田線のように、東京を擦らないようなルートですと、どちらが上り列車で、どちらが下り列車…というのを定義するのは難しかったりするのですが、東武では大宮方面を上り、船橋方面を下り…と設定しているようです。こうなると、東武伊勢崎線と連絡する春日部駅では、伊勢崎線の上り下り列車とは方向が真逆になり、スイッチバックをする柏駅では、どちらも同じ方向に進むも、ちゃんと上り列車と下り列車というようになりますが、ちゃんとそこは徹底されています。
混雑率としては、大宮方より船橋方の列車の方が僅かながら混んでいる状態ですが、大宮駅では出口が先端の1ヶ所しかないので先頭車両に乗客が集中し、全区間で最も混む状況になってしまっているようです。この為、女性専用車両は柏方の先頭車に設定されています。朝ラッシュ時(大宮駅は、少し東京から離れているターミナル駅なので、ピークは7:30前後)は4〜5分毎、日中は10分毎に運行されています。
…では、船橋方面に向けて電車に乗ってみましょう。野田線の運転形態は、スイッチバックとなる柏駅でほぼ分断されていて、大宮駅〜柏駅と、柏駅〜船橋駅間の列車に大別されています。勿論、早朝・深夜を中心に柏駅を跨ぐ列車は設定されていますが、その本数は僅かです。また、ラッシュ時には区間列車も多数運転されていますが、春日部駅〜運河駅を中心に、まだ単線区間が多く残っているので、この区間では8〜9分間隔の運転が限度となっています。
大宮駅を出て、次の北大宮駅の先まではJR東北本線と並走します。そしてそのまま野田線は右にカーブをして分かれ(右上写真参照)、大宮公園駅へと着きます。この北大宮駅、大宮公園駅(上りホームのみ)とも、出入口がやはり大宮側にしか無いので、ますます大宮方の先頭車両は混んでしまう結果ともなっています。
大宮公園駅を出て暫くすると早速視界が開け、アーバンパークの“アーバン”な部分と“パーク”の部分が、早速この時点でどちらも体験出来る事になります(笑)。以前は後者のイメージの方が強かったわけですが、これから前者の“アーバン”な部分が伸びて来る事でしょう。…とは言え、この開けた区間は未だ昔の野田線の面影を残しているとも言えるかもしれません。車両もいつの間にか種類が増え、最新型の60000系(右上写真参照)、東上線や伊勢崎線から転属してきた10030系(左下写真参照)、今のところまだ主力の8000系(右下写真参照)の3種類の車両がそれぞれ活躍中です。8000系はこれから数を減らしていく運命にあるので、3種の共演も今の内なのかもしれませんね。
また、実は野田線には定期的な臨時列車も設定されています。定期的な臨時…というのは変な言葉ではありますが、今のところ土曜日に運転が設定されています。それは2012年12月から運行された特急『スカイツリートレイン』というもので、主に東武日光線や鬼怒川線で使用されている6050系〔鉄道さんぽ 7.(野岩鉄道、会津鬼怒川線編)参照〕を改造した634型(この数字は、東京スカイツリーの高さである634mに因んでいます…)を使用し、大宮駅を12:30に発車する伊勢崎線直通浅草駅行きとして運行されています(逆方面の列車は回送として運行…右下写真参照)。
この列車は、現在設定されている唯一の「野田線からの伊勢崎線直通列車」ですが、まだ宣伝が浸透していないのか、この日は野田線から利用している乗客は僅か…という状況でした。かなりの改造が施された車両で、窓も天井まで行き届き、座席の一部が窓側を向いている等、面白い趣向が凝らされているとは思うのですが、大宮駅から野田線を経由して(しかも、大宮駅の次の乗降扱いは春日部駅)スカイツリーに向かう…というのが、まだ浸透されていないのでしょう。週1回のみの運転というのも若干難しいと思うのですが、何とか頑張って貰いたいものですね。七里駅〜岩槻駅間等も辺りが開けていて(左下写真参照)、車窓的にも楽しいと思うのですが、やはり少し地味な印象なのでしょうか…。
橋上駅舎化が進められている岩槻駅を過ぎます。以前は、ここまでが15分毎に2本運転されていて、ここからは単線区間になり15分毎に1本の運転となっていました。今では大宮駅からの複線区間は春日部駅まで進み、運転本数も全区間で10分毎となっています。つまりは、ここから先の利用者が比較的伸びたのだとも言えます。実際、どの駅もそれなりに乗降客数は多く、田舎の路線…と言うよりは、地元の人に愛されている郊外電車…という感じでした。これが今の野田線のリアルな姿なのかもしれません。
そして、東武伊勢崎線と連絡する春日部駅へ…。先程、回送電車で見送った634型が、大宮駅で折り返して特急『スカイツリートレイン』として、伊勢崎線への側線を渡って行く姿が見えました(右上写真参照)。奥には東京メトロ半蔵門線の8000系の姿も…。この共演も、各社の相互直通が進んだ現代ならではの構図ではありますよね。
春日部駅を出ると、大宮駅から続いてきた複線区間が終わりを告げ、ここからは単線区間となります。駅間の距離も少し長くなり、次の藤の牛島駅までは2、6kmあります。その駅に入る手前には、徳川家康入府前の利根川だった大落古利根川を渡ります(上写真参照)。元々、牛島という駅名で開業した藤の牛島駅ですが、東武には他に牛田という駅があって混同を避ける為と、付近に特別天然記念物である“牛島の藤”がある為に、観光誘致の意味も含めて、現在の駅名に変更されたようです。
単線なので、駅は列車同士の行き違いを行う側面も持っているわけですが、日中は擦れ違う列車を極力待たないようにダイヤが配慮されていて、この駅でも殆どの場合、上りと下り列車が同時に進入してきます。春日部駅から当駅までの距離が前述通り2、6km。そして次の南桜井駅までが2、8kmで、野田線の単線区間での最長駅間距離となっていますが(野田線自体の最長駅間距離は、豊四季駅〜柏駅間の3、2km)、ここは片道4分弱の距離となっていて、これが野田線の運転間隔が8〜9分以内に縮められない大きな理由です(ダイヤは、少し余裕を持った設定にしなければなりません)。勿論、複線区間での増発はなされているのですが、この付近ではそもそも利用者も多くない区間なので、現状でも大丈夫なのでしょう。
南桜井駅からは、江戸川橋梁までの約1km程だけ複線になっています(左上写真は、複線区間と単線区間の境目の所です)。日中が10分間隔となっているので、片道に4分弱掛かる区間があったとしても、結局は1分程時間調整をしないと、次の列車と擦れ違えない状況にあるわけですが、南桜井駅を出て暫くは複線区間になっているので、この区間で上下列車が擦れ違い、うまい具合に駅で時間調整をしないで済むダイヤになっているのです。このように、現状単線区間が残っているものの、実質的には日中は複線と同等の流れを維持しており、この区間での複線化はまだ計画されていないようです。この先では江戸川を渡りますが(右上写真参照)、暫くはこの景色は維持される事でしょう。
江戸川を渡って千葉県に入り、千葉県最北端の駅(笑)川間駅を過ぎて、野田線の車両基地が隣接している七光台駅に着きます。この次の清水公園駅と並び、野田線の中では乗降客数の最も少ない区間を通りますが、車両基地が隣接しているので、当駅始発・終着の列車が設定されています。また、運転士はここで交代します。清水公園駅も、現在では野田線で一番利用者が少ない駅となっていますが、前述の通り“ソライエ”が開発されてからは、恐らく賑やかになってくる事でしょう。まだまだ潜在性を秘めている区間とも言えるのかもしれません。
そして、野田線の路線名の元にもなっている野田市駅へ…。そもそも野田線は、この野田市駅から柏駅まで、醤油を運ぶ貨物輸送の為に建設された路線でもあるのです。…かつては野田市のキッコーマン本社内に運搬用の駅が存在し、それこそ柏駅経由で、全国に醤油が輸送されていたのだとか…。今での名残と言えば、駅構内が広くとられている事でしょうか。この付近は将来は高架化が予定されていて、完成すると島式ホーム2面4線の駅になるようです。急行列車等の速達列車が設定されそうな予感がしますね!
野田市駅を出ると、徐々に柏駅に向かうに連れて利用者が増えていく感じになります。途中の運河駅からは複線となり、利用者の増加も顕著になりますが、その中で、最近の野田線の中で特に変貌を遂げた風景となった、流山おおたかの森駅は、取り上げないわけにはいきません。
当駅は、つくばエクスプレスが開業した2005年に8月24日と同時に、野田線にも新しく開業、併設された駅です(ちなみに、東武鉄道の中で一番新しい駅でもあります)。当駅から、つくばエクスプレスの快速を利用すると、北千住駅までは15分、秋葉原駅までは25分で着いてしまいますが、これは同時に、野田線沿線の駅からも都心が飛躍的に近くなった事を意味しています。利用者は年々伸び続け、中間駅としては柏駅(中間駅と言って良いのか…笑)、春日部駅に次いで、3位の乗降客数を数えます。
つくばエクスプレス側も快速が停まる駅なので全体的に駅の規模も大きく、現在では駅に隣接して“流山おおかたの森 S.C.”もあり、ここで1つの街が形成されているような状態です。当然、付近の宅地化も著しく、10年前とは景色が一変してしまったかのようです。…とは言え、森林もある程度残しながらの開発ともなっているようで、駅名に相応しい、過ごしやすい街を目指すべく、これからも発展していく場所となるでしょうね。
当駅から、次の駅の豊四季駅までも歩いてみましたが、途中から、昔からあった住宅街エリアに入っていく感じがなかなか面白かったです。この辺りもまだまだ緑は残っていて、こちらは昔ながらの野田線の風景だったので、1駅でこんなに景色が変わるのかと、何だか不思議に思ったものでした。この豊四季駅を出ると、JR常磐線との連絡駅、柏駅にいよいよ到着します。
柏駅に入る直前に、進行方向右側から、船橋からの線路と合流します。前述したように、野田線の当駅はスイッチバック式の駅となっており、ここから大宮方面も船橋方面の列車も、同じ方向へと発車していきます。…とは言え、日中にこの駅を跨ぐ列車は設定されておらず、ホームも分かれているので、あたかも別路線のような雰囲気になっているのですが、ホーム自体は頭端式となっているので、6号車の先に行けば、階段を使わずにスムーズに乗り換えが可能です(右上写真参照)。
列車を乗り換え、野田線の柏駅〜船橋駅間の部門?に入ります。この区間は、大宮駅〜柏駅の全線で10分毎運転のダイヤになる前から、日中は10分毎の運転が行われていた区間で、どちらかというと変化の少ない区間でもあるのですが(笑)、新鎌ケ谷駅の開業や、柏駅〜新柏駅の間に新駅の構想、そして将来は全区間の複線化が予定されており、地味ながらも、徐々に便利になってきている感もあります。
柏駅からの複線区間は、3つ先の逆井駅までで、ここから高柳駅、六実駅までの2駅のみが単線区間で残っています。単線区間の列車の擦れ違いは高柳駅で行っており、ここも日中は殆ど待つ事がありません。…とは言え、朝ラッシュ時にはやはり、行き違う列車を待つ事もあるので、複線化を期待したいところですね。
そして新鎌ケ谷駅へと着きます。北総鉄道(京成電鉄成田スカイアクセス線を含む)、新京成電鉄(右上写真の左奥の列車)が乗り入れる駅であり、3路線が乗り換え出来る大きな駅ではありますが、歴史は比較的新しく、野田線に駅が出来たのは1999年の事です。この3路線の中で歴史が一番新しいのは北総鉄道(当時は北総開発鉄道)ですが、1979年に開業した当時、この時点で3路線が交差する部分となったものの、まだこの付近に駅はありませんでした。この場所は当時、梨園や畑が広がる結構喉かな場所で、市街地等はまだ形成されていないような状態だったのです。ちなみに、北総鉄道と新京成電鉄は、この時点では隣の北初富駅で連絡し、北総鉄道が暫定的に新京成電鉄に乗り入れていました。そして1991年になって、北総鉄道が京成高砂駅まで延伸になった際に、ついに新鎌ケ谷駅が誕生します。しかし、この時点ではまだ新京成電鉄には駅は無く、1年後の1992年にようやく開業、そしてこの時に新京成電鉄と北総鉄道の乗り入れは中止されます(現在、北総鉄道は、京成電鉄やその先の都営浅草線、そして京浜急行線等と相互直通運転を行っています)。この時点でも、東武鉄道は依然として駅を設置しない方針だったのですが、地元の強い要望から1999年に野田線にも新鎌ケ谷駅が開業し、現在に至るのです。
このように、3路線が交差するようになってから20年経って、やっと3路線の駅が揃った形となったのですが、当然の如く利用者は伸びており、前述の流山おおたかの森駅に次ぐ利用者数となっています(この次に岩槻駅となります)。成田スカイアクセス線が出来てから、当駅から成田空港までも行ける事になったので、更なる伸びが期待出来る事でしょう。
この新鎌ケ谷駅の次の駅が、かつての鎌ヶ谷市の中心駅だった鎌ヶ谷駅です。高架の立派な駅ですが、新鎌ケ谷駅の大規模開発によって、その中心的役割を失いつつもあります。当駅から徒歩10分くらいの所に新京成電鉄の初富駅があり、新鎌ケ谷駅開業前は、こちらが新京成電鉄との乗り換え駅に指定されていました。
さて、大宮駅から長らく続いてきた野田線の“さんぽ”も終わりが近付いてきました。鎌ヶ谷駅から4つ目で、終点の船橋駅に到着です。ホームの先端からは東京スカイツリーも望む事が出来ます(左上写真参照)。ホームには東武鉄道初のホームドアが設置されており、駅は東武百貨店の2〜3階(左下写真参照)に位置しています。ちなみに駅照明はLED化されており、何気に東武の駅の中でも現代化が進んでいる駅とも言えましょう。
これで野田線の“さんぽ”は終了です。朝10:00頃から始めて、すっかり暗くなるまで乗り継いできましたが(笑)、自分の想像内の野田線と、想像外の野田線が入り乱れ、ついつい書く事が多くなってしまいました…。それほど、現在の野田線、いや、アーバンパークラインには変化が沢山訪れていたわけでしょう。勿論、現在もまだ過渡期と言ってよく、これから10年、20年後には更なる変化が起こっていきそうです。その頃にはどんな姿を見せてくれるのでしょうか。自分も楽しみに見守っていきたいと思います!
☆東武鉄道のHP…http://railway.tobu.co.jp
そんな横浜線は、1908年に横浜鉄道として、八王子や信州で生産された生糸を横浜へ運搬する事が目的で開業しました。その後、1917年に国有化がされますが、路線が大きく変化するのは、1964年に東海道新幹線が開業した事によって誕生した新横浜駅の存在です。これにより、横浜線は横浜市と新幹線のフィーダー路線としての役割も持つ事により、その後に沿線の宅地化や大学の設置が急激に進み、都心を通らないJR東日本路線としては珍しく、1988年には快速の運転も始まりました。この年には首都圏でJR山手線に続いて205系が導入され、翌年には全列車の205系化が完了しています。
…その後、6扉車の導入を経るも、通勤型車両は205系のみ…という運行が続きましたが、本当に最近である2014年2月16日に、26年振りとなる新車のE233系6000番台が投入されました。沿線では早速その姿を頻繁に見掛けるようになり、なんと今年の夏までには全28編成の車両を置き換えるそうです。つまり、205系とE233系のコラボを見られるのは今のうち…という事で、今回は迷わず横浜線を選ばせて頂いたのでした。実行日は、E233系が運用を開始してから2日後の2月18日。八王子付近では、まだ2月14日に降り積もった雪が残る中での“さんぽ”となり、早速、残雪の中を走るE233系、そして、最後の冬となる横浜線の205系も写真に収める事も出来ました。それではどうぞ御覧下さい。
●日時…2014年2月18日 ●距離…42,6km ●駅数…20
横浜線は東神奈川駅〜八王子駅間の路線ですが、列車の多くは東神奈川駅からJR京浜東北線(JR根岸線)に乗り入れ、横浜を経て桜木町駅まで、中には大船駅まで足を伸ばす列車も設定されています。ちなみに、横浜線用車両の配置は、大船駅近くにある鎌倉車両センターとなっていますが、横浜線自身の路線と少し離れているので、鎌倉車両センターに入出庫する運用は僅かしかありません。故に、沿線の橋本駅派出所を中心に、夜間滞泊を兼ねて各主要駅に分散して留置されているのは、ある意味で特徴と言えるかもしれません。
せっかくなので、乗客の多くが利用する横浜駅から横浜線を眺めてみましょう。確かに、路線上は横浜駅を通っていないのに、横浜線…と名付けたのは不思議な気もしますが(笑)、実際には横浜駅ではよく見掛ける列車の1つと言えるでしょう。横浜線の日中の運転本数は、1時間に快速3本、各停6本という計9本の運転で、このうち快速3本、各停3本が東神奈川駅を越え、京浜東北線の桜木町駅まで顔を出しています。
そして横浜駅から一駅の、路線上の起点駅、東神奈川駅へと向かいます。東神奈川駅はホームの番線的に眺めると、京浜東北線(1、4番線)の間に横浜線(2、3番線)が入り込んでいるような線路配置になって(同じく並走しているJR東海道本線は通過扱いで、ホームも存在しません)いますが、横浜線方面への列車は、2(始発列車専用)、3、そして4番線からも発車が行われます。
暫くは京浜東北線(東海道本線)と並行します。右手には京浜東北線や、京浜急行の車庫等が見え、鉄道好きには釘付けとなってしまうような区間でもあります(笑)。そのまま並走は京浜急行の子安駅付近まで続き、ここで東側に進んでいた向きを北へと変え、京浜東北線等と分かれます。そして大口駅を過ぎ、シェードで覆われた東海道貨物線の高架下を潜ると、ここで今度は進路を西に変え、東急東横線〔鉄道さんぽ 11.(東急電鉄、東横線編)参照〕を連絡する菊名駅へと入ります。電車からは眼下に東横線が見えます(左下写真参照)。以前は快速の通過駅でしたが、2006年3月より快速停車駅となりました。
菊名駅を過ぎると、程なく新横浜駅となります。言うまでもなく東海道新幹線との連絡駅で、現在では東海道新幹線の全ての営業列車が停車する駅となったと考えると、神奈川県とその周辺における玄関口駅としての役割は、時代を追う毎に大きくなってきていると言えそうです。東海道新幹線はJR東海となっているので、駅の北口側はJR東海仕様となっていて、首都圏に居ながらJR東海の駅の雰囲気を味わえる珍しい駅となっています。
新横浜駅を出て暫くすると、突如田園地帯となり、右手には日産スタジアムも目に入ります。そこを過ぎると小机駅、そして快速停車駅の鴨居駅となります。この小机駅〜鴨居駅間では鶴見川と並走する区間があって(左下写真参照)、この辺りは横浜線の代表的な撮影地としても知られている場所です。
鶴見川沿いには農地や工場、反対側は住宅地となっいて、この辺りの風景の特徴とも言えるでしょう。横浜線では沿線の宅地化が進んでいて、この風景もまた何年か後には変わってくるのかもしれません。
鴨居駅を出ると、快速設定当初からの停車駅となっている中山駅に着きます。2008年からは横浜市営地下鉄グリーンラインが乗り入れ、乗り換え駅となりました。現在、日中の上り列車(横浜方面)は、快速は当駅で各停を追い越すダイヤになっています。下り列車の快速の追い越しは町田駅で行われていますが、これは中山駅のホームが2面3線で、上下列車同時に追い越しが出来ない構造によるものと言えそうです。
中山駅を出ると、十日市場駅、そして東急田園都市線・こどもの国線と連絡する長津田駅に到着します。こちらも快速停車駅で、こちらは1994年に快速停車駅となりました。田園都市線とは線路も繋がっており、東急電鉄(他、線路の繋がっている東京メトロ半蔵門線の車両等も)への新車受け渡しは、当駅を経由して行われます。田園都市線は、当駅では右手に見えますが、駅を出ると当線を潜るものの、引き続き東急長津田検車区を見ながらの走行となります。この辺りで神奈川県から東京都町田市に入り、成瀬駅に到着します。
この成瀬駅と長津田駅の間のカーブ区間も、横浜線の有名な撮影地の1つです♪…今回は雪がまだ残っている状態でしたので、“さんぽ”をしながら、楽しく撮影が楽しめました。今まで活躍してきた205系(右下写真参照)は勿論、まだ営業開始してから間も無い、ヘッドマーク付きのE233系(左下写真参照)も撮る事が出来ました。これが今年の夏以降はE233系だけになってしまうというのは俄には信じられませんが、これも時代の流れなのでしょう。思う存分、205系を目に焼け付けておきたいものです(笑)。
また、横浜線の205系で忘れてはいけないのは、6扉車の存在でしょう。1994年12月に混雑の切り札として、横浜寄りの2両目に組み込まれ、それまでの7両編成が8両編成化されました。横浜線の205系では1編成だけ、6扉車が組み込まれていない車両が存在する(左下写真参照)ので、6扉車有り(右下写真参照)と見比べて下さいませ。ちなみに、E233系では6扉車は導入されなかったので、205系の横浜線撤退は、横浜線からの6扉車が姿を消すという事にもなるわけです。
6扉車の車内は下写真になります。以前は朝の通勤時間帯には座席が収納されていましたが、E233系の営業開始と共に、この座席の格納は実施されなくなりました。いよいよ終焉が近付いている事を案じさせるというものです…。
さて、成瀬駅を過ぎると、横浜線の中心駅であり、路線のほぼ中間地点にも位置する町田駅に到着します。下り列車は当駅で、快速が各停を追い越します。勿論、快速の当初からの停車駅でもあります。…と、言いますか、快速の当初の設定停車駅は、快速運転を行う東神奈川駅〜橋本駅間では、中山駅、町田駅の2駅のみとなっていました…。当時は1時間に1本しか運行されていなかった事もあって、不便さが滲み出ていましたが(笑)、後に停車駅が見直され、新横浜駅(当然…笑)、鴨居駅が追加されます。そして長津田駅が、その後相模原駅が、そして前述した菊名駅も停車駅に加えられ、東神奈川駅〜町田駅間では4駅しか通過しないという状態になってしまいましたが、上下列車とも途中駅で、先行する各停列車を追い越す設定になっている事で、快速の面子を保っているようにも思えます(笑)。線内の速達化を目指すなら、停車駅を更に厳選したいところですが、短距離利用者が多い事実を考えると、これで良いのかもしれません。
町田駅では小田急小田原線と連絡しますが、両者の駅が少し離れている事は有名です。それぞれの路線で利用者が多数(横浜線では利用者1位、小田急線では新宿駅に次いで2位)あるにも関わらず、珍しい措置だと思いますが、元々、それぞれの駅が独自に発展して、同一駅としていなかった事にも由来しそうです。そして駅の再開発により、両駅を近付ける事が検討されたのですが、これに大しては周辺の商店街が猛烈に反対を唱えたそうで、結果、横浜線の駅を少し小田急線側に近付ける事で、現在の形となったのでした。現在でも、横浜線と小田急線の乗り換えには最低5分は見ておきたいところで、当然の如く人の流れも多いので、余裕を持って7、8分は見ておきたい乗換駅でもありますね。
町田駅を出ると快速は、古淵駅、淵野辺駅、矢部駅と通過し、初めて2駅以上連続で通過駅がある設定になりますが、その後は相模原駅に停車し、以後、終点の八王寺駅までは各駅停車となります。そのまま進んで、京王相模原線〔鉄道さんぽ 16.(京王電鉄、相模原線編)参照〕の高架橋を潜って(左下写真参照)橋本駅へ。町田駅からここまで、ほぼ直線の緩やかな上り勾配という感じです。京王相模原線の他に、JR相模線(右下写真参照)も乗り入れる、横浜線の中でも町田駅、八王子駅に続いて、3番目に利用者が多い駅です。
日中、1時間に6本運転される各停のうち、半分の3本はここ橋本駅止まりとなり、この先は快速3本(ただし各駅に停車)と各停3本というダイヤになります。また、JR相模線は当駅を終点としていますが、朝夕ラッシュの時間帯には、橋本駅から八王子駅まで乗り入れてきます。
橋本駅を出ると、少しずつ丘陵地帯が近付いてきて相原駅となります。ここまで来ると、雪もまだまだ残っているという感じで、先日の降雪時の状況が偲ばれますが、写真撮影的には恰好の被写体となります(笑)。当駅から、次駅の八王子みなみ野駅まで歩いてみましたが、トンネル有り、そして新興住宅街有りで、なかなか変化のある風景を楽しめました。
八王子市に入って1つ目の駅、八王子みなみ野駅は横浜線で一番新しい駅で、1997年4月に開業しました。駅舎・ホームの建設費は住宅・都市整備公団(現都市再生機構)が全額負担した駅で、街開きと合わせて開業に至りました。周辺には学校も多く、利便性が向上にも一役買う形になったそうです。
この先は、少しずつ丘陵地帯から離れて片倉駅へ…。そして、その先で京王高尾線の高架下を潜り、今度は右手に京王本線と併走しますが、お互いに連絡出来る駅は無く分かれ、今度は右手からJR中央本線(この路線がE233系の最初の投入線区)・八高線が近付いて来ると、終点の八王子駅となります。横浜線のホームは南側の一番端で、中央本線のホームとの間には貨物列車が退避・機回し・入換に頻繁に使用している側線が何本が存在しているような配置となっています。この時も、まだ雪が多く残る中、機関車の付け替え作業を行っているところを目にする事が出来ました。
…という事で、横浜線のさんぽは終了となります。全線を乗り通して思ったのが、予想以上にE233系に出会う確立が高かったという事です。この時点ではまだ3編成しか運用されていなかったのですが、日中も車庫に入る事無く、積極的に稼働させているという事でしょう。今まで205系ばかりだった路線が、あっという間にE233系に変わってしまうのも時間の問題だと思いますが、これは横浜線に限った事ではなく、以前に取り上げたJR京葉線〔鉄道さんぽ 3.(JR東日本、京葉線編)参照〕や、JR埼京線(乗り入れ先のJR川越線〔鉄道さんぽ 22.(JR東日本、川越線編)参照〕に付随)でも同じ事が起きています。
E233系は、今後はJR南武線にも投入が予定されていて、こちらも短い期間で全車が置き換えられる事でしょう。今回のさんぽは、JR東日本の車両の変化の流れを、如実に感じ取れた1日になったかもしれませんね。
可部線は、元々横川駅を起点とする私鉄だった為、駅間が短かったり、線路ギリギリまで住宅が接近するような、いわゆる私鉄らしい沿線風景が広がっています。これは1936年に国有化されても基本的には変わらず、私鉄らしい風景にJR(旧国鉄)の車両が走るというのは、趣味的にも見ても面白い路線ではあります。
現在は横川駅〜可部駅間の14kmを結ぶ、わりと短い路線ですが、かつては可部駅より先の、三段峡という駅まで、更に45km以上もの路線が続いていました。この廃止された区間は、国有化された後に国が建設したものでしたが、建設中に既に赤字の見込みがある事にも関わらず開通した区間でもありました。こちらは非電化区間となっていて、本数もそれは少ないものでしたが(1日に8往復で、三段峡駅まで達していたのは1日5往復のみ)、結局2003年に廃止…。そして現在の営業区間となるのです。…ですが、2013年になって、可部駅より先の1、6km区間だけ電化延伸される事が決まりました。開業は2016年となる見込みで、完成すると国鉄時代から廃止されてきた路線が初めて復活するケースとなるようです。
そんな可部線は、正直地味な印象が強い路線ではあるのですが(笑)、前述した私鉄らしい雰囲気とJRの車両との取り合わせが楽しく、しかも朝夕は使用車両も増えるので、意外と見所の多い路線ではないかと思いました。…という事で、朝夕に使用される車両も狙う為に、この日は広島でのライブ後の次の日にも関わらず、朝7:30にはホテルを出て敢行させてきました(笑)。今回が初めてでもあった可部線、どうぞ御覧下さいませ!
●日時…2013年12月24日 ●距離…14,0km ●駅数…12駅
可部線の起点は横川駅です。広島駅からは西に3km程の位置にありますが、JRの駅としては広島の繁華街にあたる紙屋町に一番近い駅であるという事と、この駅に乗り入れている広島電鉄が7号線(紙屋町方面に直接行ける系統です)の運行を開始した事もあって、顕著に利用者は増えているようです。
そんな中、可部線は一番北側のホームから発車します。乗り入れている広島駅〜横川駅間は、JR山陽本線と線路を共用しているので、朝ラッシュ時等では、山陽本線の列車に道を譲ったりしていますが、こう見ると、お互いに運行本数はそれなりに多そうな気がします。実際、可部線のダイヤは朝ラッシュ時が約10分毎、日中は概ね20分毎という感じで、JRの地方ローカル線にしては利用しやすい方ではないでしょうか…。確かに、途中の緑井駅くらいまでは住宅も多かったので、いわゆる通勤路線的な扱いにもなるのかもしれませんね。現在は可部駅が終点で、延長距離もそんなに長くはないので、よりその性格が表れているような気もします。
使用車両は105系が多く、現在は殆どが黄色1色という、味気無い塗装に塗られています。これはJR西日本が車両の単色化を図っている為で、北陸地方や山陰地方等でも、別の色の単色化が進んでいます。105系には大きく分けると2種類あって、1つは新規製造された3扉車のグループと、もう1つは103系から改造編入された4扉車のグループです。可部線にはどちらも使われていて、特に4扉車のグループの車内は旧国鉄の様子を未だに保っているので、現在の東京では味わえない雰囲気が嬉しくなります(笑)。
さて、横川駅を出発しましょう。駅を出るとすぐに太田川(上写真参照)を渡り、少し過ぎるともう次の駅の三滝駅です。横川駅からの距離は僅か1、1kmで、可部線にはこんな短い駅間が多いです。
暫くは太田川に沿って走り、住宅街の中に入ると安芸長束駅です。この辺りこそ、本当に私鉄らしい風景と言えそうですが、そんな中で不釣り合いなのが、朝夕ラッシュ時を中心に使われる113系、115系です(左下写真参照)。この車両は近郊形電車と言われ、どちらかと言うと山陽本線を走っている方が似合うのですが、ラッシュ時間帯には助っ人として運行されているのです。日中は運行されないので、これもまた可部線の魅力の1つと言えるかもしれませんね。
更に北上します。この時点で朝9:30頃になっていましたが、北側に見える山の麓には朝霧が立ち込めているのが分かると思います(右上写真参照)。中国地方ではよく見られる光景で、夜と朝の温度差が激しい為でしょう。そんな風景と住宅地の取り合わせというのも、可部線ならではなのかもしれません。
大町駅に着きます。この駅は、接続する広島高速交通アストラムライン(右上写真参照)が開業した1994年にJR側にも新設された駅で、可部線では3番目に乗降客数の多い駅でもあります。上写真を見ても分かるように、周囲は完全に宅地化されていて、大町バスターミナルとも直結しています。ここまで、横川駅から5つ目の駅ですが、まだ6、5kmしか来ていない事を考えると、やはり可部線の駅間は基本的に短いようです。ちなみに、次の緑井駅までは、当駅から僅か0、8kmの距離となっています。
時刻も10:00過ぎになると、線内を走る列車は105系の2両編成ばかりになります。…とは言え前述のように2タイプの車両が存在し、しかも3扉車には旧塗装(左上写真参照)の車両も使われるので、意外にバラエティに富んでいると言えるのかもしれません。全車両ロングシートなのは面白くないですが(113系や115系は転換クロスシートが基本です)、そもそも短い路線なので、これでも良いのかもしれません。しかし、車内は意外に混んでいて、それは次の緑井駅まで続きます。この駅は、ラッシュ時には折り返し列車も存在する駅となっています。
緑井駅を過ぎると徐々に住宅は少なくなってきますが、こちらも折り返し列車が設定されている梅林駅を過ぎると、それはより顕著になってくる感じでしょうか。その次の上八木駅(下写真参照)は1面1線という事も手伝って、だいぶローカル風情が増してきた印象でもありました。勿論無人駅です。
上八木駅を出ると、右にカーブして再度太田川を渡ります(下写真参照)。川沿いに出ると、見晴らしの良い景色が広がっており、川下側を見ると、遠くにJR芸備線が走っているのも見えたりします。どちらも列車は広島駅から運行されており、この辺りでは両線が接近している区間でもあるという事です。
さて、太田川を渡ると、やはり無人駅の中島駅となり、次はもう終点の可部駅です…。だいぶ早く着いてしまった印象があるかもしれませんが、実際は単線の為の列車の行き違いがあったりして、広島駅からの所要時間は、約40分という感じです。以前、この先の三段峡駅まで路線があったと思うと、何だか寂しい感じもしてしまいますが、前述したように、ここから1、6kmの延伸が決まっており(駅は2つ設けられるそうです)、そうなると、また乗りに来なくてはなりませんね(笑)。
可部駅は東口にある昔からの駅舎(右上写真参照)と、2007年に出来た、バス乗り場も有する西口(左下写真参照)が存在していて、この規模の駅にしては珍しいかと思われます。広島バスターミナルへの路線バスが頻繁に発着していて、可部線の状況も厳しそうですが、実際に可部駅を利用する乗客は年々減っており、利用者数が増加している大町駅、緑井駅、梅林駅と比べると、これが現実だと思わざるを得ません。2016年の電化延伸に期待したいものです。
そして、延伸される区間も少しだけ歩いて見てきました。実際には2003年に廃止された区間なので、まだまだ荒い雰囲気が続いていますが、少しずつ整備され、電化開業時には見違えるような状態になる事でしょう。列車の本数も、現在の可部駅までの列車がそのまま延長するような形で維持されるらしく、周囲がどのような発展を遂げるのか楽しみです。
ひとまずは可部線の“さんぽ”はこれで終わりですが、ただのローカル線ではなく、ある意味で希望が約束された路線でもあり、今の段階で乗っておいて良かったと思いました。また3年も経つと状況が変わるのかもしれませんが、その時も見届けていきたいと思います。
…さて、2014年はどのような路線に乗りましょうか…♪
今回、特に用事があったわけではなく、10月6日の鳥取でのライブを終え、次の日に鉄道を乗りに乗り継ぎ、中国地方を横断(縦断?)し、そして瀬戸内海を越え、伊予鉄道の本拠地である愛媛県は松山までやってきたのでした。そもそも伊予鉄道の路線は、自分は路面電車(通称、市内電車)しか乗った事が無く、それ以外の路線(通称、郊外電車)にはまだ1度も乗った事が無かったので、郊外電車を3路線有する伊予鉄道には、前々から乗ってみたいという気持ちが高かったのです。
さて、その中で選ばせ貰った高浜線の開通は1888年(明治21年)。100年以上の歴史を有する路線で、松山市内と、松山の古くからの外港である三津や、伊予鉄道自体が整備した高浜港を結ぶ路線でもあります。…とは言え、列車は日中15分毎の頻度で運転され、地元の人にも利便性が高い、生活路線としても親しまれています。そんな地元感溢れる高浜線、どうぞ御覧下さいませ!
●日時…2013年10月8日 ●距離…9,4km ●駅数…10駅
伊予鉄道の松山市内のターミナル駅であり、高浜線の起点ともなる松山市駅は、JRの松山駅とは離れた位置にあり、伊予鉄道側が言わば中心部でこちらの方が交通の要衝となっています。駅には四国最大の百貨店である、いよてつ高島屋が入っている他、周辺にはオフィス街や繁華街等が並びます。
高島屋の前には伊予鉄道の市内電車(軌道)も通っており、その中でも特に、蒸気機関車を模した“坊っちゃん列車”(左上写真に停車中)は有名です(実際はディーゼル機関車)。ご存知の通り、夏目漱石の『坊っちゃん』の「マッチ箱のような汽車」という表記で登場した列車でありますが、この列車こそ、軽便鉄道時代の高浜線に走っていた車両であり、現在は市内電車で復元されて走っているという事なのです。
こうしてみると、昔ながらの風景を大事に…という感じではありますが、伊予鉄道では Suica のような IC カード(IC い〜カード…といいます)も導入されていて、今の時代にも沿った経営がなされています。松山市駅は四国発の自動改札機導入駅でもありましたが、こちらに IC カードは対応させず、自動改札機を一部撤去させ、ここに IC カード専用の簡易改札機を設けさせました(左下写真参照)。勿論、自動改札機も残っているので、松山市駅はその2つの改札機が混在するという珍しい駅にもなっています。
松山市駅を発着する郊外電車は、高浜線の他に、横河原線、郡中線(右上写真参照)と、合計3つの路線が乗り入れていますが、横河原線は高浜線と直通運転をしているので、実質2路線という雰囲気です。…なので、高浜線の散歩は、横河原線に乗って松山市駅に着き、その続き…というような印象になるかもしれません。その横河原線は全線単線ですが、松山市駅以北となる高浜線は、殆どが複線の線形となっています。
松山市駅を出ると右にカーブし、JR松山駅の最寄り駅ともなる大手町駅に到着します。この先で市内電車と平面交差しますが、異なる路線同士の十字形の平面交差は、日本ではここだけの光景(右下写真参照)となってしまいました。かつて路面電車が縦横無尽に走っていた時代は、それこそどこでも見られた光景だったのですが…。
ここで少し、伊予鉄道の郊外電車で使われる車両を見てみましょう。ここでは昔から京王線の中古車両を導入していて、東京の方から見ると、少し懐かしいと思われる方もいるかもしれませんが、その中でも610系という車両(左下写真参照)は久々の自社発注となっていた車両で、2両×2編成しか在籍していないものの、注目に値する車両だと思います。
その610系は、ラッシュ時ではその2本を繋げて4両編成で走り、朝の通勤・通学輸送に対応しています。ただ、4両運転が出来るのは横河原線内が主で、高浜線内では古町駅以北は3両編成までしか対応していないので、ここで切り離され、その後は2両編成で運転されます。この運用は700系も似ていて(元京王5000系)、ラッシュ時は4両や3両(左下写真参照)で走り、その後は2両編成で運用されます。
さて、大手町駅を出ると、その先でまた市内電車と、今度は斜めに平面交差し、車両基地も併設されている古町駅に到着します。市内電車と郊外電車のホームが並んで配置されている駅でもあり、列車運行上の拠点にもなっています。朝ラッシュ時を過ぎると車庫には沢山の700系が置かれてあり、現在の主力車両は、これから紹介する3000系(元京王井の頭線3000系)になったのだと実感させられます。
こちらの車両(左上写真参照)も見覚えのある方が多いでしょう。伊予鉄道に導入されたのは2009年と、比較的新しい時期でもあるからです。全て3両編成を組み、日中の7割方はこの車両を見掛けます。ラッシュ時に4両編成を組む事は無理なものの、朝から晩までマルチに活躍する主力車両です。結果、京王線時代の700系と、本線時代には有り得なかった並びが実現する事にもなっています(笑)。
さて、古町駅を過ぎると路線は高架に上がり、松山市内を見下ろしつつ暫く進んでいきます。そのまま高架駅になるのかと思いきや、高架から地平に降り衣山駅に着きます。松山市の中でも近年発展が進んでいるエリアでもあります。ここを過ぎると幾分喉かな風景になってくるので、次の西衣山駅まで“さんぽ”してみましょう。左からはJR予讃線も近付いて来て、変化に富んだ区間でもあります。
付近は喉かな住宅街という感じで、そこに15分毎に走行する伊予鉄道の列車が既に風景に溶け込んでいて、地元に根付いた鉄道というのを改めて感じました。前述したように、この近くには予讃線も走っていますが、特急も走り、列車自体のスピードも軽快に駈けて行くので、どちらかというと“よそ行き”な列車でもあるような気がします(笑)。
そうして西衣山駅に着きました。無人駅となっていますが簡易改札機や自動券売機は設けてあるので、特に不便という感じではありません。予讃線はすぐ横を走っており(こちらに駅はありません)、当駅のすぐ先でアンダーパスします(左下写真参照)。
この先、少し丘陵地帯を走って、再度平野部に出ると山西駅、そして三津駅になります。三津駅は三津浜地区の中心の駅となっていて、高浜線の開業時はここが終点でした。今も漁業で栄えている三津浜港があり、かつては九州や関西を結ぶフェリーが発着する港でもありました(現在は山口県や瀬戸内海の離島を結ぶフェリーが発着しています)。
港山駅を過ぎ、列車左手には海が見えてきます。この先は海外線に沿って線路が敷かれていく感じになり、そのまま梅津寺駅となります。上り列車(高浜方面)のホームの柵の向こうには砂浜が広がり、数ある鉄道の中でも屈指の“海に近い駅”と言えるでしょう。港山駅と梅津寺駅の間で海が見える区間に入ると、上り線から下り線へ行ける渡り線があるのですが、これは異常気象時に海側の路線を使わず、陸側の路線だけで運行出来るようにしている為です。
この梅津寺駅は、海に近い駅としても有名ですが、ドラマ『東京ラブストーリー』の最終回のロケ地として使われた事でも有名です。主人公の赤名リカがハンカチを結び付けた柵も健在で、この行為を真似て、今でも柵にハンカチを結びつけて行く人も後を絶たないのだとか(当時は本当に凄い量のハンカチが結び付けられていたそうです)…。今では柵に、ロケ地であった事を示す案内板が掲げられています。
梅津寺駅を出ると、松山市駅から続いた複線区間は終わりを告げ、次の終点高浜駅までの1駅は単線区間となります。…とは言え右上写真を見ると、複線分の用地は残されているように窺えるのですが、これは全線開通時に複線だったものが、戦時中に金属供出で単線化された名残なのです。他の区間も単線化され、戦後は徐々に複線が復活してきましたが、この末端の区間だけ単線のままで残っている…という事です。確かに、今の運転本数ではこれで十分なような気もしますね。この区間も自分は“さんぽ”してみました。
こうして終点の高浜駅に着きました。松山市駅からは約20分の道のりでした。正に小旅行という感じで、かつての主要な港だった高浜港は目の前に位置しています。駅舎も存在感があり、当時は客船への乗り継ぎとして重要な役割があった駅だったと想像が出来る程です。ただ、現在は客船が大きくなってきた事もあって、ここから北に焼く600m 程行った所にある松山観光港に主要客船は発着しており、そこへの連絡バスは完備されているものの、当時の繁栄振り?は、もはや過去のものとなってしまっています。
今年で開業125周年を迎えた伊予鉄道高浜線。会社設立から換算すると126年の歴史がある鉄道ですが、こうした過去のものと現在のものとが入り交じり、とても魅力的な鉄道になっていると思いました。地元に愛され、四国初の鉄道を自負しつつ、まだまだ走り続けてほしいものですね。市内電車と合わせ、松山観光の1つに如何でしょうか(笑)?
☆伊予鉄道のHP…http://www.iyotetsu.co.jp
言わば、一気に都会的な路線になったわけですが、この時に川越駅を境に運転系統は分離される事になり、川越駅〜高麗川駅間ではそれとは独立された運行がなされています。こちらの区間では1996年のJR八高線の電化(高麗川駅〜八王子駅間)に伴って、八高線との乗り入れが行われるようになり、川越以東では“埼京線・川越線”、川越以西では“川越線・八高線”というような案内がなされ、ラインカラーも乗り入れ先に合わせるような形になりました(川越以東は緑、以西はグレー)。確かに川越以東の区間は、もはや埼京線の延長にしか思えない感じではありますが、歴史を紐解くと、この区間もれっきとした川越線なのです。ちなみに、埼京線…という路線ですが、この路線名は便宜上で正式に存在するものではなく、それぞれの路線の“別線”という扱いになっているのが面白いところです。
さて、そんな乗り入れ先の埼京線に、現在走っている205系という車両の置き換え目的で、E223系7000番台という車両が今年の6月30日から走り始めました。今までのパターンからすると、205系全車を置き換えるのも時間の問題で、両車の共演が見られるのも今だけでしょう。実際、今回は埼京線経由で川越線の大宮駅まで向かったのですが、もう既にE223系を見掛ける機会が多く、置き換えは思ったより早く進んでいるのだと思ったものでした。…正に過渡期とも言える現在の川越線。それではどうぞ御覧下さい!
●日時…2013年8月13日 ●距離…30,6km ●駅数…11駅
川越線の起点となる大宮駅は、埼京線と直通運転を行う為、地下のホームからの発着となっています。埼京線と繋がる前は、大宮駅の10番・11番ホーム(現在の、湘南新宿ラインからの下り列車が使用)から発着をしていました。…現在、川越線の大宮駅〜川越駅間を走る列車は、全て埼京線と直通運転を行っています。つまり、大宮駅始発の川越駅行きの設定が無いという事になりますが、ダイヤが乱れた際には直通運転が中止される事も多いので、この時にはそんな光景も見られる事になります。
大宮駅で埼京線・川越線ホームに向かう場合、駅が橋上駅舎なので、いったん駅の2階部分に上がり、そこから地下に向かわなければいけません。なので、駅舎に入ってからホームに辿り着くまでには結構な時間が掛かります。それでいて、日中の川越線の本数は20分に1本(殆ど、りんかい線からやってくる快速列車です)なので、整理はされているものの、ちゃんと時刻を確認して乗る必要があると言えそうです。
さて、早速やってきたE233系に乗り、川越駅方面に向かいましょう。大宮駅を出て暫くすると地上に上がり、右側にはJR高崎線が見えてきます(右上写真参照)。逆に、左側には鉄道博物館が見える筈です。この辺りの高崎線との並走区間は、〔鉄道さんぽ17.(JR東日本、高崎線編)〕でも書いているので、こちらも参照して下さい。そして高崎線と分かれると日進駅に到着し、ここからは単線区間となります。
日進駅を過ぎると、2009年に開業した西大宮駅となります。駅の向こう側には、吹奏楽部で有名な埼玉栄中学・高等学校がありますが、この駅が開業する前は、ここから約1、5km先の指扇駅から歩いてこなければなりませんでした。個人的に、自分の従姉妹がこの学校に通っていた時期があり、例の?吹奏楽部に入ったので朝練が存在していたわけですが、従姉妹の家が埼京線沿線だったのに、やたら朝早く出ているのを不思議に思っていたものでした。そして後々に、最寄り駅から学校までが結構な距離がある事を知るのです。
…せっかくなので、この距離を体感しようと、西大宮駅〜指扇駅間を歩いてみました(笑)。西大宮駅周辺は開発が徐々に進行しているようで、道も所々で工事中の区間も存在しましたが、概ね迷う事無く向かえる感じではありました。それでもやはり、30分弱は掛かる道のりだったので、通学時代は想像以上に大変だったのではないかと思われます…。現在ですと、西川越駅から学校までは10分も掛からない筈なので、今の学生達は、当時より20分以上は遅く家を出ても大丈夫だな…と、余計な心配をしながら(笑)、現在工事中の指扇駅(右上写真参照)を後にしました。
指扇駅を出ると、荒川橋梁を渡って川越市に入ります。そして築堤を右にカーブしながら降りていきますが、ここは川越線の撮影地としても有名(右上写真参照)です!…そのまま真っすぐ田園地帯を抜けていきますが、この南側には川越車両センターがあり、埼京線、川越線、そして八高線の電化区間(前述の、高麗川駅〜八王子駅間)を走る車両を受け持っています。ただし、りんかい線所属の70ー000形(左下写真参照)は受け持っていません(滞泊はあります)。
ここに所属している車両で特徴的なのは、クモヤ143形電車と、MUE-Train という、2つの車両でしょう…。いずれも旅客用ではなく、前者は牽引車として、後者は技術革新を目的とした車両として在籍しており、周囲の道路からもその姿が確認出来る(左下写真参照)ので、近くを通った際には是非とも目を向けてみて下さい(笑)。
…ちなみに、この日はこの周辺を2時間近く歩いていたのですが、日差しを避けられる場所が殆ど無く、だいぶ日焼けをしてしまいました…。この日も昨今の夏の例に漏れず、1日中暑い日でもあったのです。そんな川越車両センターが置かれている指扇駅〜南古谷駅間は、4、7kmの距離(今回は、南古谷駅を起点に“さんぽ”しました)…。この距離は、川越線で一番駅間の長い区間でもあります。
なかなか味のある駅舎である南古谷駅を後にし、川越駅へと進みます。ここからは路線の形態もガラリと変わり、列車も4両編成と結構コンパクトになります。そもそも車両のラインカラー(黄緑とオレンジ)も変わるので、見た目にも違う路線に入ったかのようです。…ですが、昔ながらの川越線は、やはりここからの区間だと自分では思います。
前述のように、川越駅を境に運転系統は分離されており、両区間を直通する列車は現在設定されておりません(例外的に、川越車両センターから出庫した列車が南古谷駅始発として、川越駅を通って高麗川駅方面に向かう列車が早朝にあります)。川越駅を出ると、暫くは東武東上線と並走しますが、その雰囲気は〔鉄道さんぽ21.(東武鉄道、東上本線編)〕を参照して頂ければと思います。そして東上線と分かれると、何だか心細くなるような感じ?で列車は進んでいきます。しかし、これがまた良かったりするものですから不思議なものです(笑)。
川越駅を出て暫くして、早速ローカル色の強い西川越駅に到着します。片面のみのホームで、列車の行き違いは出来ず、以前は無人駅でもありました(現在は早朝・夜間以外は駅員が配属されます)。この駅を出ると築堤に上がり、そのまま入間川を渡ります(右上写真参照)。車窓の右側には、先程分かれた東上線の橋梁も見え、まだそんなに距離が離れていない事が分かります(右下写真の奥に見える列車が東上線)。
入間川を渡ると徐々に東上線と離れ始め、的場駅に到着します。東上線側の霞ヶ関駅(開通当初はこちらが的場駅と名乗ってあり、後に霞ヶ関駅に改称…更に後に川越線が開通し、こちらに的場駅の名前が再度付けられました)は当駅から約1kmぐらいの距離にあります。駅の規模で言えば、断然こちらの方が小さいですが(笑)、日中の列車同士の交換駅にも設定されています。普段、どちらかというと下り列車が先に着き、上り列車の到着を待ってから発車していく感じになっています。
そのまま列車は西方向に進み、西川越駅と同じく、単式ホーム1面1線ホームの笠幡駅(左下写真参照)、このブログにもよく登場する、さばいばるいとうさんの自宅の最寄り駅でもある武蔵高萩駅(右下写真参照…笑)を経て、いよいよ終点の高麗川駅となります。ここまでずっと西に進んできた線路は、高麗川駅に近付くと左にカーブして南に進路を変え、右側から非電化区間のJR八高線が合流し、高麗川駅構内に進入していきます。
この先、八高線の電化区間である八王子駅まで、直通運転を行っていますが、ここまで列車は20分に1本の頻度で運転されているに対し、八高線は30分に1本の運転になるので運転間隔が合っておらず、列車によっては高麗川駅で長時間停車する事もしばしばなのですが、これもまたローカル路線の醍醐味かもしれません。駅舎の先には山々も見え、関東平野の西端である事を窺わさせてくれます。
左上の写真は、高麗川駅を出て、川越線の川越方面へ向かう209系3000番台電車です。左の線路は八高線の高崎方面へのものです(一瞬電化されているように見えますが、この先すぐに非電化区間に入ります)。右上写真は、そんな209系の車内です。今や209系の初期車両すらその数を減らしているので、本当に、関東圏内の車両の置き換えスピードの速さには驚かされます。
これにて、川越線の“さんぽ”は終了です。全区間が東京近郊区間に含まれる同線ですが、場所によってはまだまだ田園風景の残る風景も見え、手頃な“さんぽ”?としてはお勧めの路線と言えそうな印象がありました。また、この日、起点の大宮駅に降り立ったのは朝9:30頃で、この時間から“鉄道さんぽ”を開始したのですが、色々と寄り道をしても、終点の高麗川駅には15:00前には着けました。久し振りに、時間に余裕のあった“鉄道さんぽ”とも言えるかもしれません。
高麗川駅は、日高市の中心となる駅でもありますが、駅周辺はそんなに賑やかな雰囲気ではなくて、例えばレストランを探すにも一苦労です(笑)。また、この時はちょうどランチの時間帯を過ぎてしまった為か、お店があっても、支度中、準備中のお店ばかり…。しかし、そんな中でも1軒、居酒屋風レストランとでも言いましょうか…。良いお店が見付かりました。せっかくなので早めの打ち上げを行い、自分自身への乾杯を行いましょう(笑)。暑い1日の締めに、更に贅沢な時間でした♪
この出来事は東上線も関係があって、副都心線を介して、東武東上線森林公園駅発、横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅行き…という列車も生まれました。この列車は流石に設定が少ないですが、日中では川越市駅⇔元町・中華街駅の列車が30分毎に運行され、相互直通運転の変化を感じさせられるものとなっています。東上線内(和光市駅~川越市駅間)では日常的に東急の車両も見られる事になり、ダイヤも結構変わりました。
ただ、このダイヤによる変化というのが、東上線内だけの変化の方が、むしろ大々的なものが見られたのが興味深かったのです。詳細は〔2013年3月16日ダイヤ改正、目前!〕の記事を見て頂きたいですが、東横線直通による変化を東上線内だけで感じるには、直通される列車の行先が“元町・中華街”となっている部分で気付くしかありません。東急の車両が来るようになりましたが、その本数は僅かでもあります。また、ここが決定的に地味な所として、それらの直通列車は、東上線内は全て各駅停車で運転されているというのがあります。要するに、東上線内ではメインの列車というように扱われていないのです…。
では、どのように東上線のダイヤは変わったのか…というと、それこそ白紙ダイヤ改正のように変化がありました。池袋駅発着の日中の優等列車を見ると、それまで1時間に急行5本、準急3本(他に普通が8本)だったものが、快速2本、急行4本、準急2本となり、“快速”という種別が新たに生まれる事になったのです。これは、それまでの急行列車が各駅に停車していた川越市駅~東松山駅間でも通過運転を行うようになった列車で、霞ヶ関駅等、それまで急行が1時間に5本停車していた駅は、逆に4本へと減少していましたが、遠距離利用者にとっては優等列車が増えた事で、便利になったに違いありません。
その分、準急が1時間に2本だけの運転になってしまった事や、普通列車の8本中6本は途中の成増駅止まりとなってしまった等、本数を減らした箇所も無くはありません。ちなみに、日中の志木駅止まりも廃止され、東京メトロからの直通列車(1時間に、有楽町線から2本、副都心線から2本)は基本は川越市駅行きとなりました。
…と、話題的にはどんどん挙がってしまってキリが無いのですが(笑)、そのダイヤ改正が行われてから、自分は何度も東上線に乗っているものの、まだ把握には乏しい感じがありました。やはり隅々まで乗る事で、そのダイヤ改正の実態を肌で感じたいものです(笑)。東上線沿線に住んでいた自分にとって、東上線に乗る…という行為は非常に一般的で、いわゆる移動の為に乗る事が殆どだったのですが(普通はそうなのですが…笑)、今回は久し振りに、東上線に乗る…という事自体が目的になりました。現在、自分は沿線から外れてしまいましたが、それでもまだまだ身近な東上線。楽しみたいと思います♪
●日時…2013年6月20日 ●距離…75,0km ●駅数…38駅
では、朝の池袋駅から順に下って行こうと思います。時間は7:30…。ちょうど朝ラッシュが始まった頃で、電車が到着する度に大勢の人がホームから出口へと殺到していきます。副都心線が開通して以来、東上線の和光市駅以西の沿線から、新宿、渋谷方面が1本で行けるようになったので、乗客はこちらにもシフトされたと思いますが、まだまだ東上線の混み様は半端ではありません。直通運転は便利ではあるものの、東武としては池袋駅までなるべく乗って貰いたいというのが本音かもしれません。この時に、朝ラッシュ時の優等列車のスピードアップや、夕ラッシュ時の着席定員列車、『TJライナー』が走り始めました。
そんな『TJライナー』も、走り始めてもう5年だそうです。副都心線開通と同時日で、月日が経つのは本当に早いものですが、自分は出発式の瞬間にも立ち会っており、こちら〔竹内大輔写真日記(~2009)、東武東上線『TJライナー』出発式〕の記事も参照して頂けたらと思います(笑)。
東上線の池袋駅ホームは3面3線となっていて、1番線以外は列車の両側にホームがある状況になっていますが、時間帯によって、これらを最大限に生かした乗降分離を行っています。普段は1番線と2番線が優等列車、4番線が普通列車、3番と5番線を降車専用…としていますが、朝の9:00頃までは普通列車が頻繁に発車するので、3番線と4番線を普通列車専用にし、2番線は降車専用としています。また、夕方以降は3番線からも普通列車が発車します。
そして、今までは終日降車専用としていた5番線が、夕方以降には、『TJライナー』の発車ホームの機能も持つ事になりました(『TJライナー』発車時は、4番線が降車専用)。つまり夕方からの時間帯は、2・3番ホームに着く列車と、4・5番ホームに着く列車は、列車の種別によって乗れるホームが変わるという事です。なかなか複雑になってきてしまいましたが、限られたスペースの中で、よく頑張っていると思います(笑)。しかし、夕ラッシュ時のホームの状況は既に大変な混雑になっており、何かしらの打開策が必要かもしれません。今後を見守っていきたいものです。
さて、池袋駅を出るとJR山手線と分かれ、暫くはJR埼京線と並走します。これは北池袋駅まで続き、その先で埼京線と分かれ、今まで北に向かってきた東上線は左にカーブし、一路西へと進路を変えます。そして下板橋駅となり、その先の広いスペースに留置線があるのが確認出来ますが(右上写真参照)、ここが開業時の下板橋駅の場所でもありました。
実は、今でこそ東武鉄道の東上線ですが、かつては東上鉄道という私鉄で、1911年に設立した鉄道会社でした。そして、1914年に最初の営業区間として池袋駅~田面沢駅(現・川越市駅~霞ヶ関駅間)が開通し、後の1920年に東武鉄道と合併して、現在の姿になるのです。その東上鉄道の最初の起点として計画されていたのは大塚辻町という所(現・東京メトロ丸ノ内線新大塚駅付近)だったのですが、当時の東京市に阻まれて、当駅から東に延ばす事が容易には出来なかったのです。そして結局は南へと方向転換をし、池袋発着となるわけですが、こうした経緯から、東上線の起点を示す0kmポストは池袋駅ではなく、この留置線内にあり、東上鉄道発祥の記念碑も留置線内に設置されています。
ちなみに東上鉄道の名前は、“東京”と“上州(現・群馬県)”を結ぶ鉄道…という由来がありまして、当時は高崎を超えて渋川まで結ぶという構想がありました。それは、当時の国鉄の八高線等の計画によって中断されてしまいますが、その構想は雄大なものであったと想像出来ます…。開通していたら、さぞかし面白かったでしょうね(笑)。
そしてこの下板橋駅ですが、当時は隣りの大山駅との間に金井窪という駅があって、駅間距離が非常に狭かった事と、もはや大塚辻町への延伸は不可能と判断されて、1935年の複線化と同時に現在の場所に移されたのです(後に金井窪駅は、1945年の東京大空襲で被災して廃止されました…下板橋駅も全焼する被害を受けています)。
東上線の歴史を辿る…みたいな時間になってしまいましたが(笑)、先に進みましょう。北池袋駅~下赤塚駅間にある7つの駅は、普通列車のみが停車する駅となっていて、その中に2駅、優等列車を待避出来る駅が存在します。それが中板橋駅(左上写真参照)と上板橋駅(右上写真参照)で、早朝・深夜以外、普通列車の殆どはどちらか(朝ラッシュ時の上り列車は両駅)で優等列車を待避します。副都心線開通前のダイヤでは、殆どが中板橋駅待避だったのですが、それ以降や、今年のダイヤ改正で更に顕著に、上板橋駅待避の数が多くなっています。
そして、東京都内で最後の駅となる成増駅です、快速、急行、通勤急行、準急が停車し、日中のダイヤにおいては全ての列車が停車する要の駅で、今年のダイヤ改正では池袋発着の7割ぐらいの普通列車が、当駅折り返しとなりました(従来は半分くらいでした)。今まで何度か言っていますが、自分の出身地はここ成増であり、もう本当に30年以上も見てきた駅でもあります。当時は快速の種別が無く、ここを通過する列車というのは、1日に数本しか走らない特急(現在は設定無し)だけであり、個人的に、「自慢出来る、大きな駅!」との自負があった事を憶えています(笑)。子供の時はそれくらい、通過する列車の方が珍しい…という見え方の駅だったのですが、現在では『TJライナー』が通過し、快速急行も通過し…、それでも、それらの列車は日中の設定が無いので、かろうじてその面子が保たれているかもしれません(笑)。
さて、成増駅留置線を写した上のが挙げたところで、東上線車両についても徐々に説明しておきましょう。左上写真には同じ種類の車両が2本見えますが、これは9000系という車両で、東京メトロ有楽町線直通用として開発された車両です。そして時代は過ぎ、副都心線対応が必要になってきますが、ここで試作車の1編成を除いて、そのリニューアルが施されました。その対応型が左の車両で、真ん中に走っている車両こそ、1編成のみの試作車なのです。何故試作車には対応が施されなかったかというと、製造が6年も異なる事(試作車が1981年、量産車は1987年)と、それに伴う寸法の違い(副都心線にはホームドアが設置されていて、ドア間の寸法が試作車では異なります)や、走行装置の違い等が大きな理由かと思われます。故に、試作車は現在は地下鉄には乗り入れておらず、地上線専用の運用となっています(量産車は主に地下鉄に乗り入れますが、運用によっては地上線に入る事もあり、左上写真のような共演も見られるのです)。
さて、では成増駅を超え、埼玉県に入りましょう。次の和光市駅からは、いよいよ副都心線や有楽町線系列の車両(左上写真参照)も見掛けるようになってきます。その前に、既に走り始めてから50年も経つ、8000系車両(右上写真参照)を紹介しておきましょう。その数は徐々に減らしており、東上線系列に於いては、小川町駅以西と、越生線用にワンマン改造された4両編成×12本を除くと、8両編成と2両編成を組み合わせた10両編成の車両が3本、残るのみとなっています。…なので、小川町駅以東で8000系に出会える確率は、相当低い数字という事になりますが、『TJライナー』以外の全ての種別で使用されるので、写真のように快速急行に入る場合も十分あるのです。ただ、2015年に池袋駅~小川町駅間でATCが導入されるらしいので、非対応の8000系は、この区間ではそれまでの活躍となるでしょう。昔ながらの走行音を都心で体験出来るのも、今の内かもしれません!
少々話しが逸れましたが、和光市駅では色々な鉄道会社の車両を見る事が出来ます。その中でも特筆したいのは、やはり西武鉄道と東急電鉄の車両でしょう。遠く離れた東武鉄道管轄内で、その2社の共演(右上写真参照)が見られるというのは、相互直通のスケールの大きさを感じさせるというものです…(笑)。当然、東京メトロの車両も見られますし、みなとみらい線の車両も見られますので、和光市駅は非常にバラエティに富んだ車両が見られる駅ともなっています。この内、西武鉄道の車両以外は、東上線内にも乗り入れてきますが、前述の通り、日中は1時間に有楽町線からの車両が2本、副都心線からの車両が2本(副都心線内は急行運転)だけの直通となっているので、全て10両編成となっている事から、8両編成の車両(故に、みなとみらい線の車両は全部)は日中では見る事は出来ず、しかも8両編成の乗り入れは最大でも志木駅までとなっています。
和光市駅~志木駅間は複々線区間となっています。他社のそれと違う点は、急行線にもホームが設置されており、当区間で各駅停車を行う準急列車も、急行線を走行するという事でしょう。以前は緩行線(普通列車が走る線)に多くの列車が設定されていましたが、日中は東京メトロからの直通列車を除くと、池袋発着の普通列車が1時間に2本だけ運転されるに留まっています。
和光市駅を出ると、東京メトロの車庫を左に僅かに臨めつつ、一気に右カーブします。当初は近くを走る川越街道と共に、そのまま真っ直ぐ進めるつもりだったらしいのですが、当時、志木付近での商人の誘致が盛んで、朝霞や志木方向を通る事となりました(今や途中の朝霞台駅は、東上線で池袋駅の次に乗降客数の多い駅になりました)。このように、当時の計画経路から変更された区間は幾つかあり、この先では坂戸、小川町、寄居辺りがそうで、確かにこの付近の前後はカーブしてある所が多いです。
志木駅を過ぎると複線区間に戻り、柳瀬川駅となります。駅の由来となっている柳瀬川は駅を出るとすぐに渡り、ようやく風景らしい風景に立ち会える感じでしょうか。…とは言えこの付近では宅地化も盛んで、現在では和光市駅~川越市駅間の日中の列車の本数が同じになった事からも窺えるというものです(以前は、志木駅以遠で本数が減っていたのです)。
その宅地化の最もたるが、その先のふじみ野駅でしょう…。1993年に開設された当駅は、当初から急行停車駅とし、周囲の土地区画整理事業と併せ、新しいマンションを続々と建ち並ばせた地域でもあります。駅の建設時代に自分は立ち寄った事がありますが、本当に何も無い空き地といった感じで、現在のような“街”になるとは想像もついていませんでした。現在では、年を追う毎に駅の利用者が増加傾向にあり、乗り換えの無い単独駅としては、東上線では志木駅に次いで、2番目に乗降客数の多い駅になりました。
ではここで10030系の紹介です。先程紹介した8000系の後継者として、1983年に登場した10000系電車の、更にマイナーチェンジを施したのが10030系です。今の東上線では最も多く見られる系列かもしれません。天井の空調の変更や車椅子スペースの設置、外観では冷房装置のカバーが連続式になる等の変更が見られた10050番台の車両と共に、大活躍中でございます。最近では内装を中心にリニューアルされた車両(右上写真参照)も多く、行先表示器のフルカラーLED化や、先頭車にはスカート(前面排障器)が取り付けられる等、外観的にも少し変化が出てきています。
さて、路線の中枢である川越駅に着きました。北池袋駅付近で分かれたJR埼京線(ここではJR川越線と呼ばれます)と再度合流し、池袋駅以降、全ての種別の列車が停車する最初の駅でもあります。中枢こそ川越駅なものの、列車運行的には次の川越市駅の方が重要となりますが、両駅はそんなに離れておらず、歩いてもせいぜい20分程度だと思います。せっかくなのでこの区間を“さんぽ”してみる事にしましょう。
川越駅を出ると、暫くは川越線と並走しますが、あちらは4両編成で20分毎に1本の運転なので、車内からはなかなか姿を捉える事が出来ません。そして、両線が分かれる辺りに、1本の線路を越えるのですが、これが西武新宿線で、車窓の右側には当路線の本川越駅が臨めると思います。要は、川越市中心部には、川越駅、川越市駅、本川越駅と3つの駅があるものの、それらは全て別の場所にあり、そして本川越駅はどの路線とも接続していないのです(割りと近いのは本川越駅と川越市駅で、徒歩8分程です)。西武線だけ独立した形になっていますが、喜多院や菓子屋横町等、川越の観光ポイントに一番近いのは本川越駅であり、それぞれにメリットもあれば、デメリットがある状況になっているのかもしれません。川越市駅以降は、日中は快速と急行だけの運転になり、本数は半分以下に減ってしまいます。
…という事は、東京メトロからの車両も、基本はここ川越市駅止まりとなります。その中でも貴重なのが、東横線所属の5050系(左下写真参照)でしょう。志木駅までは朝・夕ラッシュ時を中心に何本か来ているのですが、川越市駅までとなると、1日に5往復しか乗り入れてこないのです…。直通運転用として使われているのは多くは東京メトロの車両で、東武の車両も有楽町線乗り入れ用に多く使われていて、東武の車両による副都心線乗り入れ用の設定も少ないのですが、とにかく、ここで東急車両に出会えたら、運が良かったと感じる事にしましょう(笑)。鉄道の趣味とは、こういった部分に価値を感じる所から始まります(笑)。
川越市駅を出ると、田園地帯を過ぎて入間川を渡ります(右上写真参照)。左の遠くの方に見えるのは先程の川越線で、距離はあれど、並走し続けていたのだという事が分かります。流石に川を超えるとそれぞれ進路を変え、霞ヶ関駅、鶴ヶ島駅と過ぎ、今回のダイヤ改正で快速停車駅に昇格した若葉駅を過ぎて、坂戸駅に到着します。ここまでが東上鉄道時代に開業した区間て、この先からは東武鉄道になってから開業した区間(…とは言え、東上鉄道時代に建設はされていました)へと入ります。
坂戸駅では越生線を左に見ながら(左上写真参照)、一気に右カーブします。そのまま北坂戸駅を過ぎ、越辺川を超え、都幾川を超え、沿線は徐々に緑が多くなってきて長閑な風景になってきますが、やはり駅に近付くと、ある程度の宅地化が行われているのが、東上線の凄いところでしょう。この為、快速や急行列車は、東松山駅を過ぎて、やっと空いてきた…という感じになります。流石は通勤・通学路線です。
さて、森林公園駅に到着しました。当駅には車両基地が併設されているので、ここを始終着としている列車は多く、東武東上線の車両の殆どは、ここを寝床としています。では、今度は東上線の最新型車両である、50000系電車(右上写真参照)を紹介したいと思います。
50000系は2004年に東上線で初めて登場し(営業運転開始は2005年)、東武鉄道の通勤車としては初めてアルミ車体を採用したり、それまでとはガラッとデザインが変わる等、いわゆる最近の鉄道車両のトレンド風でもあり、話題になった車両ではありました。2編成目は翌年の2005年に登場し、それまで非貫通であった先頭車が貫通型になり、前照灯等の位置が変わる等、見た目の変化も大きいものとなりました。そして、3編成目以降(左下写真参照)が2009年の登場と、今度は4年振りの投入でもあったので、その間に登場した50050系、50070系、50090系の仕様がフィードバックされ、側面の窓が開閉式になったり、椅子の形状や車内の化粧版が変更される等、居心地が幾分か改善されました。今では初期車を含めて9編成が導入され、地下鉄乗り入れ用の50070系、そして『TJライナー』にも使用出来る50090系と共に活躍中です(50050系は東武伊勢崎線で使用されている車両です)。
では、もう1系列として、2011年から運転が開始された30000系(下写真参照)についても紹介しておきましょう。元々は東武伊勢崎線系列で、東京メトロ半蔵門線、東急田園都市線乗り入れの為に造られた系列で、まさか東上線に転用されるとは思いもしなかったのですが、既に6編成が東上線へと移ってきてます。これは前述した、東上線のATC化と大きく関わっており、30000系は既に対応化となっている車両なので、こちらに沢山移ってきたものと思われます。現在、伊勢崎線系統での半蔵門線系列の直通列車は、先程前述した50050系が主体となっています(30000系も2編成だけ残存)。
さて、森林公園駅からは本数もいよいよ少なくなって、1時間に快速2本、急行1本のみと、日中は快速の本数が上回り、時間帯によっては30分も電車間隔が空く時があります。流石に宅地化はここまでか…と思われますが、次のつきのわ駅は2002年に開業された、東上線の中で最も新しい駅で、東武鉄道による分譲住宅地「フランサ」の開発が進められ、やはりここも宅地化は進められています。
つきのわ駅までは池袋駅から快速で約1時間。西武池袋線ですと、飯能駅を通り越して高麗駅までの所要時間で、小田急線に至っては、新宿駅~秦野駅ぐらいまでの距離です。如何に宅地化が奥地まで進んでいるかが分かるというもので、東上線の利用者の多さが窺えますね…。勿論、東武鉄道の中でも収益率はトップクラスの路線である事は言うまでもありません!
つきのわ駅から隣りの武蔵嵐山駅までも歩いてみましたが、あまりに宅地化が進んでいて驚きでした。勿論、ショッピングセンター等の施設もあり、既にそこは“街”と化していました。この辺りは、小中学生の頃によく電車に乗りに来ては、駅から降りて電車の写真を撮っていたりしましたが、当時は田舎の素朴な景色だったのに対し、完全に郊外の街の景色でした。武蔵嵐山駅に近付くと、街並みも昔ながらの雰囲気に変わってきて懐かしくなりますが、駅も含めて周囲は新しくなっており、やはり時は経っているのだと改めて思わせてくれました。
昔は森林公園駅以遠は単線で、つきのわ駅も無かったので、森林公園駅~小川町駅間では武蔵嵐山駅が唯一の交換駅だったのですが、つきのわ駅が開業した時に当駅までが複線化され、当駅を始終着とする列車も運転され、現在に近い本数が走るようになりました(それまで、森林公園駅以遠は1時間に2本の運転でした)。そして、2005年には武蔵嵐山駅から3km程先にある嵐山信号所(左下写真参照)までも複線化され、それまで武蔵嵐山駅始終着だった列車は全て小川町駅まで延長…。森林公園駅~小川町駅間は、1時間に3本の運転になるのです。この武蔵嵐山駅~小川町駅の駅間は7,0kmもあり、東上線の全長の10分の1の距離に相当する長さなので、ここが列車行き違いのネックになっていたのです。それまでは、列車の間隔が15分がやっとだったのが、この複線化のお陰で、10分間隔まで縮める事が出来ました。
…くねくねとカーブが続き、丘陵地帯を抜け、やっと小川町駅までやってきました。ここも宅地化は進んでいるものの、まだ疎らで、どちらかというと山間の中の小さな街…という雰囲気が残っています。当駅からは終点の寄居駅までは、8000系4両編成のワンマン化対応の列車が限定して使われていて、小川町駅を通り越す列車は設定されていません。以前は何本かあったのですが、2005年に無くなってしまいました。こうなると、俄然ローカル色が増してくるというもので(笑)、確かにこの先は、以前の景色をまだ留めているような気がします。
小川町駅を出ると、暫くはJR八高線と並走し、いったん右側に分かれてから、東上線も右の方にカーブしてきて、八高線と立体交差します。八高線も寄居駅を通るので、この先はルートを変えて、それぞれで寄居駅まで向かうわけですが、東上線は丘陵地帯の北側を、八高線は南側を通っているのが面白いところです。
そして寄居町に入り、鉢形駅を過ぎると荒川橋梁を渡ります。ここの眺めは素晴らしく、恐らく東上線の中で最もハイライトな区間と言って良いでしょう。荒川というと、金八先生でお馴染みの、あの雄大な川というイメージが浮かびますが(笑)、上流に近いここでの荒川は、岩肌もゴツゴツしていて、何だか厳しい自然を思わせる雰囲気が漂っています。
荒川を渡るのも束の間、すぐに玉淀駅となります。ホームは1面1線で、東上線の単線区間の中では唯一、列車の交換が出来ない駅です。まあ、鉢形駅から当駅まで0,9km、次の寄居駅までは0,6kmしかないので、そもそも必要無いのかもしれません。このように、既に寄居の街中には入っていて、玉淀駅を出るとあっという間に終点の寄居駅に着いてしまいます。先程分かれた八高線は、東上線とは反対側の方向が小川町方面となっており、東上線と共に入線した側が高崎方面になります。
この駅はもう1つの路線、秩父鉄道とも接続していて、そもそも駅の管理は秩父鉄道が行っているので、東上線はどちらかというと間借りさせて貰っているような?雰囲気もあるかもしれません。以前は池袋駅から当駅まで直通列車が走っていて、この先の秩父鉄道線内にも乗り入れ、長瀞駅や三峰口駅まで走っていたものでしたが(その頃の種別は特急で、それぞれ『ながとろ』や『みつみね』の名前が付けられており、ヘッドマークまで用意されていました)、1992年に取り止めてしまいました。
…とは言え、線路はまだ繋がっています。これは東上線が、秩父鉄道を介して東武伊勢崎線と繋がらせている為で、新車や伊勢崎線との車両入れ替えの際は、このルートを通って車両を移動させているのです(…なので、8000系の2両固定編成の一部に、秩父鉄道の信号システムに対応させた編成が存在しています)。30000系も、伊勢崎線からこのルートを通って、東上線に移ってきたわけですね(他にも車両の入れ替えは頻繁に行われています)。
さて、これで東上線の“さんぽ”は終了です。昔と比べて変化があった所、まだまだ昔ながらの姿を留めている所…と、それぞれでしたが、その両方を掛け合わせて、今の東武東上線なのだと思います。折りしも、いま東上線は過渡期でもあり、車両も本当にバラエティに富んでいる状態になっているのですが、これも2015年のATC化で、少し整理されるのかもしれませんね。一時期(自分が生まれた頃)、東武鉄道は車両の統一化が進んでいて、通勤型は8000系ばかりになり、趣味的にはあまり面白くない時期が続いていたようですが、通勤型の約20年振りの新型式である9000系が登場してからは、どんどん変化が進んでいます。とにかく車両数が多いので、同じ型式でも編成によって仕様の異なる場合が多く、それは現在の50000系列でもしっかりと伝統?を守っています(笑)。今回で改めて身近に思えた東上線ですが、例えばまた10年後とかに“さんぽ”してみたいものです。それでなくても何度も乗ってしまうような路線ですが、今後ともどうぞよろしくお願いします…という結びにさせて頂きます(笑)。
…では池袋方面へ戻る事にしましょう。時刻は17:00を回ってきて、これからは50090系を使った『TJライナー』(右上写真参照)が本格的に稼働する時間帯となります。使用車両が50090系に限定されているので、この時間には森林公園検車区から、池袋駅への送り込みを兼ねた、50090系限定仕様の快速急行が多数運転されます。TJライナーと、この送り込み用の快速急行だけ、50090系はクロスシート仕様(ロングシート、クロスシートと、座席を回転させる機能を持っているのです)となっているので、旅行気分を味わうのには持って来いの列車です♪…その辺りは、〔竹内大輔の写真日記(~2009)、地下鉄副都心線開業、その後(東武東上線編)〕の記事を御覧下さいませ。どうもお疲れ様でした!
☆東武鉄道のHP…http://www.tobu.co.jp/
路線の登録上は大曲駅が起点になっていますが、東京から見ると、盛岡駅を通ってから大曲駅に達するので、実際の案内では盛岡駅から大曲駅に向かうのが“下り”で、逆が“上り”とされています。ここでもそのように記したいと思います。勿論、メインの列車は新幹線『こまち』号で、全てが東北新幹線に直通し(1往復は仙台駅発着)、東京駅~秋田駅間を4時間弱で結びます。『こまち』号の運転開始時に、その宣伝がテレビCMで流れていて、自分もよく覚えているのですが、今まで飛行機に乗ろうとした人達が、「新幹線、出来たらしいよ?」という言葉を切っ掛けに、空港からぞろぞろと移動してしまい、最後には飛行機のパイロットも新幹線に乗ろうとしてしまうという(笑)、なかなかインパクトのあるものでした。このように、所要時間の短縮も大きいのですが、“乗り換え無し”というのも重要な事で、それが、これ以降の新幹線網の発展にも少なからず影響を与えていっているのだと思いました。
そして記憶に新しいのが、今年の3月16日から走り始めた『スーパーこまち』号。E6系という新しい車両を投入し、新幹線内は最高速度320km/時(現在は300km/時で運転)で走行するという、更なる期待の星でもあります。実は『スーパーこまち』号と言われるのは暫定的なもので、それまで走っていたE3系という車両を今後全て置き換える事から全てがE6系となり、この時には名称から『スーパー』が取れるのだとか…。そう考えると、E6系とE3系が共演している現在は貴重な瞬間で、今のうちに写真に収めておきたくなったのです。自力で向かう“鉄道さんぽ”として(ツアーの合間とかを利用せず)は異例の遠さの路線でしたが(笑)、新幹線で行けるので、盛岡駅までは自宅からたったの約3時間なのです…。意外に身近の存在であった田沢湖線を、どうぞ御覧下さいませ!
●日時…2013年4月23日 ●距離…75,6km ●駅数…17駅
田沢湖線の盛岡駅は、新幹線ホームと在来線ホームに分かれます。まずは新幹線ホームから見てみる事にしましょう。基本的に『スーパーこまち』号、『こまち』号は、東北新幹線を走る時には『はやぶさ』号や『はやて』号と併結しており、この駅で列車の連結・切り離し作業を行います。この作業は人気があるようで、いつもその作業を見る人でホームは一時的に賑やかになりますが、作業自体は2,3分程で、本当に迅速に行われます。
そして、早速やってきた『スーパーこまち』号のE6系。自分はこの時に初めて生で見る事になりましたが、文句無しに格好良い車両です。流石、フェラーリをデザインした人が監修しただけの事はあります。現在、この車両を使用している『スーパーこまち』号は4往復走っており、順次E3系を置き換えていきます(早速、4月27日から一部が置き換えられます)。
ここでE5系『はやぶさ』号を切り離し、身軽になった列車は、新幹線の新青森駅方向へと走り出し、少しすると、そこから田沢湖線への連絡線へと左側に分岐していきます。逆も同じで、その場合は迅速に連結作業に入れるように、先頭の連結器を剥き出しにして盛岡駅に入線してきます(右下写真参照)。
では、在来線ホームを見てみる事にしましょう。こちらは地平ホームで、JR東北本線ホームのすぐ横に専用のホームが設けられていますが、田沢湖線の軌道(線路の幅)は改軌されているので、線路同士は繋がってはいません。在来線の車両は、秋田新幹線の開通に際して投入された701系という車両で、JR東日本の東北地方の電化路線では殆どの場所で見られる型式の車両です。田沢湖線を走る車両は5000番台と分けられており(軌道の幅が違うので、田沢湖線専用の車両です)、ラインカラー、車内(ボックスシートが千鳥状に配置されています)も独自のものになっています。
では、まずは普通列車で田沢湖線に乗ってみます。秋田新幹線が走るとは言え、普通列車に関しては所謂ローカル線であり、県を跨いで利用する人が殆どいない為か、列車の殆どは盛岡側と大曲側に分かれて運転されています。その本数も1~2時間に1本程度で、県境に近付く程その本数は減り、特に県境となる赤渕駅~田沢湖駅を通る普通列車は1日4往復のみの運転となっています。…なので、普通列車の方が実は貴重という田沢湖線(笑)では、短距離でも新幹線を利用する人が比較的多く見られます(この区間のみを乗る人は立席特急券といって、空いている席があれば座って良いという制度の特急券です…基本、全席指定席となっているので)。
乗った普通列車も、盛岡駅から3つ目の雫石駅止まりとなっていて、ここから先はグッとその本数も減ってしまいます。ここで周囲をちょっと探索してみました。この日の朝は凄く寒かったのですが、昼からは気温も上がってきて、それはここ東北地方も例外では無いようで、思った以上に暖かくて驚きました…。東北地方にも春が訪れてきている…という事ですが、そんな場所から遠くを見ると、まだ雪山が控えているという事で、やはり北国である事を感じさせます。ここ雫石駅までは盛岡の近郊圏という雰囲気でしたが、この先からはいよいよ峠を越えていく感じになってきます。
さて、では『こまち』号に乗って秋田県の田沢湖駅まで向かいましょう。この先には、前述した県境の赤渕駅~田沢湖駅間が含まれるので、普通列車で乗り通すのは困難に近いのです(ちなみに下り列車の場合、朝5時台の次に走るのが14時台という…笑)。そしてやってきたのは、E6系『スーパーこまち』号!…新幹線ホームで見た時とはまた違った魅力を醸し出しており、自分も記念すべき初乗車です!
…とは言え、車内は結構混んでいて、窓側の座席は空いていない状態でした。この区間の景色も非常に気になるので、通路側の座席は自分にとっては微妙である他になく、結局はドアの横でずっと立っているという状態で乗り通しました(笑)。赤渕駅を過ぎ、いよいよ県境区間へと突入し、人も殆ど住んでいないような場所を走り続けます。この駅間は18,1kmあり、田沢湖線のハイライトとも言える区間でしょう。雫石駅から峠を越え、田沢湖駅までは約20分。初乗車にしては少し苦い印象になってしまいましたが、今度は長い区間、そして新幹線区間でその乗り心地を体験してみたいですね。田沢湖駅は秋田新幹線の開業で新駅舎に生まれ変わっており、田沢湖の観光拠点に相応しい出で立ちでお客さんを迎えていました。
ここで『スーパーこまち』号とは別れ、また周囲を“さんぽ”してみます。特に赤渕駅側で見られる周囲の景観は素晴らしいの一言で、よく撮影地としても紹介されている程です。ただ、駅から遠いのが難点で(3km~4kmくらいの距離です)、そこまでの時間が無く、今回はその往路にタクシーを利用してしまいました(笑)。散歩…からは若干離れてしまいますが、歩くだけが“さんぽ”ではないのです。田沢湖線と並行して国道46号線が通っており、そのドライブイン的な役割である“峠の茶屋”付近のポイントは有名です(下写真参照)。
また、ここまでの展望ではないですが、田沢湖駅の赤渕駅側ではない景色も悪くはないです。田沢湖駅を望むように撮ると(左下写真参照)、雪山に向かっていくような感じがして、さながら山岳鉄道のような雰囲気にも見えてきます。このように、見所が沢山の田沢湖駅周辺。勿論、観光のメインである田沢湖が控えていますが、ここは駅から5~6km程の距離にあり、バスやタクシーで向かうのが一般的です。
さて、今度はE3系の『こまち』号で先に進みます。ここから先は大曲駅まで、徐々に標高を下げていく感じで進み、基本的に下り坂が続きます。E6系ですと7両編成ですが、E3系ですと6両編成となっており、これはE6系の場合、先頭車の流線型の部分が長過ぎて、E3系と同じ6両編成にすると定員が少なくなってしまうからです。そして、E3系も登場当時は5両編成でしたが、これが6両編成になったのは、単純に利用客が増えた為でもありました。
田沢湖線のように、在来線の新幹線化(厳密には“新幹線”ではありませんが…)をされた路線の呼び方として、ミニ新幹線という言葉があります。他の例ですと、奥羽本線の福島駅~新庄駅間がそうで、御存知の通り山形新幹線と呼ばれている路線でもあります。こちらの方が元祖で、秋田新幹線より早い1992年に福島駅~山形駅間が開通しました(新庄駅まで延長されたのは1999年)。それ故、やはり車両は特殊なものになっています。新幹線車両ではあるものの、在来線の大きさに合わせて造られているので、普通車の座席も2・2人掛けとなっていて(通常の新幹線は2・3人掛け)、車体長も在来線と同じ20m(通常の新幹線は25m)です。確かにミニ新幹線というのは的を得ているのです。そして在来線走行時の最高速度も130km/時に設定。これは通常の在来線の最高速度と同じになっています。
E3系は現在、全部で26編成が存在しますが、そのうち最初の1編成は量産先行車という、少し試作的な要素の強い車両(いわゆるプロトタイプというやつです)になっているのですが、E3系の場合、デザインも若干異なっています。…上の写真を御覧下さい。右の車両が量産先行車です。先頭のデザインが、量産先行車の方が連結器に掛けての絞り込みが大きく、少し丸みを帯びているのが分かりますでしょうか。これは、最初のミニ新幹線用に造られた400系〔竹内大輔の写真日記(~2009)、400回目!参照〕に近いデザインで、小さな差ですが、こういった変化を発見するのも面白いかもしれません。また、前照灯の位置や大きさも異なっているので、知っていれば判別は付きやすいものではあります。量産先行車は、どの列車に割り当てられるかは特に決まっていないので、見付けたら相当運が良いです(笑)。頭の片隅にでも入れておいて下さい。
さて、桜と武家屋敷で有名な角館駅で降り、次の鶯野駅まで歩いてみましょう。この区間には鉄道橋としては珍しい、2連続エクストラドーズドPC橋という、比較的新しい種類の橋梁が存在します(左下写真参照)。そこを走るE6系『スーパーこまち』号…。何とも絵になるではありませんか(笑)。
そろそろ田沢湖線の“さんぽ”も佳境が近付いてきました。角館駅を過ぎると、あとは普通列車のみが停車する駅を過ぎ、秋田県大仙市の表玄関、大曲駅に到着します。列車に乗っていると、緩やかな下り坂を真っ直ぐ降りていく感じだったのが、市街地に入って大きく左に向きを変え、右側に秋田駅からやってきた奥羽本線と合流する形で大曲駅に入線していきます。秋田駅からの奥羽本線…と書きましたが、秋田新幹線のルートは大曲駅でスイッチバックをして、先程合流した側の路線に入って秋田駅に向かっていくのです。
田沢湖線としては終点の大曲駅ですが、スイッチバックをして向かう大曲駅~秋田駅間が少し特徴的なので、こちらにも触れておきましょう…。田沢湖線が改軌したように、この奥羽本線の大曲駅~秋田駅間も改軌されたのですが、複線の区間は片側の線路しか改軌されませんでした。つまり複線のように見えて、単線が2つ並んでいる…という状態になっているのです(…なので同じ方向を走行中に、普通列車が秋田新幹線に追い抜かれる場合もあります)。
下の写真を御覧下さい。どちらも秋田からやってきた列車ですが、それぞれ使っている線路が異なっているのが分かります(軌道の幅は勿論違います)。日本の列車は左側通行ですが、左の写真の在来線車両は、右側通行として走行していますね。つまり、こちらから見て、左の線路が奥羽本線の在来線用で、右の線路が秋田新幹線用…という事です。日本では結構珍しいケースですが、一部には、秋田新幹線同士が行き違えるように、在来線軌道を三線軌条にしている区間もあり、更に複雑になっています。鉄道ファン的には興味深い事例ですね。
大曲駅でスイッチバックするという運転上、田沢湖線のホームは終着駅のような頭端式になっています。一方、そのまま駅を貫いているのが奥羽本線で、長いホームが存在するも、今や優等列車は1本も走らなくなってしまったので、その機能を持て余している感じでしょうか。この駅の主役は、完全に秋田新幹線…といった様子です。
大曲で有名なのは、全国花火競技大会(例年、8月の第4土曜日)が行われる事でしょう…。この時、盛岡方面から来た新幹線列車は大曲駅を始終着駅として増便を行い、大曲駅~秋田駅間では快速の臨時列車が設定されるそうです。いずれは見てみたいものです(花火も勿論ですが、そういった運転形態になっている状態も…笑)。
さて、田沢湖線としての“さんぽ”は終了しましたが、せっかくなので秋田新幹線としての終着駅である秋田駅まで乗ってみましょう。この間、駅は幾つもありますが、秋田新幹線の列車は全て通過し、大曲駅を発車すると、次は終点の秋田駅…という感じになります。秋田駅こそ新幹線には専用のホームが割り当てられ、改札も在来線とは別になっているので、同じ地平ホームとは言え、独自の雰囲気が漂っています。
そして、秋田駅で見られたE3系とE6系の新旧の共演…。こういった共演が見られるのも、何気にあと1年ぐらいと言われています…。E6系だけが注目されている今日ではありますが、今こそE3系に注目したい時期なのかもしれません。E3系の『こまち』号からの引退は寂しくもありますが、それでも『こまち』号がE6系ばかりになる日が楽しみでもありますね。列車の高速化は、まだまだ留まる事を知りません!
移管される前は信越“本線”と、幹線に値する路線でしたが、長距離利用者が新幹線に移ってしまった為に、開業当初から経営は苦しいものでした。本来なら、篠ノ井駅から先の長野駅までも経営移管させたかったと思うのですが、この篠ノ井駅~長野駅間はJR篠ノ井線からの列車や、JR東海からの特急『しなの』号が乗り入れているので、ダイヤ調整のやり繰りが難しいという事で、ここは未だにJRの区間なのです。しなの鉄道の列車は全て篠ノ井駅から先の長野駅まで直通していますが(勿論、料金体系は別です…)、この篠ノ井駅~長野駅が一番利用客が多いだけに、しなの鉄道にとっては厳しい話しでしょう。
そして今後、北陸新幹線(現長野新幹線は、将来の北陸新幹線の一部というわけです)として長野駅から先(金沢駅まで)の新幹線が、2014年度中の予定で開業しますが、その時の並行在来線である、現JR信越本線の長野県部分(長野駅~妙高高原駅間)も、しなの鉄道が引き継ぐ事になり、こちらの区間は更に利用者が少ないので、今後の経営手腕が問われるところだと思います。
このように、正に変化の真っ只中のしなの鉄道ですが、更に大きな出来事として、現在所属中の車両の1つである169系という車両が、今年の4月29日をもって引退するという発表がありました…。169系は、国鉄時代に“急行型電車”の名義で生まれた165系の、碓氷峠での協調運転に対応した車両でして、しなの鉄道に経営移管された際に、車両もそのまま引き継がせたのですが、2003年に既にJRからは形式消滅しており、今や全国で、ここでしか活躍していない車両なのです(165系も既にJRからは形式消滅)。
これは今の内に、しなの鉄道に乗るしかありません…。ちなみに、まだJR信越本線だった時代に、自分はこの区間にはよく乗りに来ていて(15年以上前ですから、高校生時代ですね)、しなの鉄道に代わってから1度だけは乗りましたが、途中下車する程の鉄道旅(さんぽ?)は正にそれ以来の事でもあったので、その意味でも非常に楽しみな路線でした。当日は天候には恵まれたもの、真冬の極寒の中の“さんぽ”だったので大変ではありましたが(笑)、当時を思い出したりして、非常に充実した内容のものになりました。どうぞ御覧下さいませ!
●日時…2013年2月25日 ●距離…65,1km ●駅数…19駅
しなの鉄道に乗る為には、関東起点で考えるとすると、まずは軽井沢駅に出向かなければなりません…。しなの鉄道以前は、軽井沢の手前に存在した、横川駅~軽井沢駅間の約10kmで、500m以上の高低差があった碓氷峠を、EF63形という専用の機関車を2両連結して通過していたものでしたが、今では新幹線で大宮駅から1時間も掛からずに着いてしまいます(以前はこの碓氷峠越えだけで20~30分くらい掛かっていました)。現在、碓氷峠区間は廃止されていて、あの迫力ある峠越えは体験出来ないのですが、利便性で言えば、現在は飛躍的に向上されていると言って良いでしょう。
それにしても寒いです。都心から1時間ぐらいで着いてしまう為に、その変化も急激なものと感じるのでしょうか。まだ朝方の時間帯でもあったので、空気もピシッと締まっており、恐らく氷点下10℃ぐらいはいっていたと思われます。写真撮影の際、手袋をするわけにはいかないので生指でやるしかないのですが、30秒くらい経つと痛くて堪らなくなります。1分も経つと、暫く感覚が無くなってしまう程です。これは、大変な時期に“鉄道さんぽ”を敢行してしまったなと思い始めてしまいましたが、天候は写真通り、本当に恵まれました。後に掲載する浅間山もよく見え、やはりこの時期に行っておいて良かったです。
新幹線が開通して、だいぶ軽井沢駅の印象は変わりましたが、しなの鉄道のホームだけに限れば割りと当時の雰囲気を留めている感じかもしれません。ただ、もう編成両数の長い特急列車は来る筈もなく、高崎側の線路も分断され、行き止まりとなっています(右上写真参照)。ホームで待っていたのは、JRから移管された115系の3両編成。しなの鉄道では11編成の所属となっており、この鉄道会社の主力車両です。塗装も変更され、車内も少々のリニューアルはされていますが、やはり雰囲気的には115系そのもので、かつて信越本線時代に何度も旅をした事を思い起こさせてくれるものでした。とりあえず1駅、次の中軽井沢駅まで乗ってみましょう。この駅の近くには、浅間山をバックに列車が走る撮影ポイントが存在するのです。
それが上の写真です。少しゴチャゴチャしているものの、短い編成を撮るには適した場所です(中軽井沢駅からは、徒歩5分くらいでしょうか)。浅間山は気持ち良いくらい全容が見渡せましたね。中軽井沢駅は現在改築中で、旧駅舎は既にありませんが、新しい交流の場として(図書館が出来るとか)今後発展が見込まれそうな雰囲気でした。信越本線時代は特急も停車した駅でしたが、新幹線は軽井沢駅の方に造られたので、こちらも発展させていこうという狙いでしょうか。
それでは、もう1駅進んでみましょう。次の駅は信濃追分駅で、何とも風流な駅名ではありませんか。標高は956mで、かつては特急が通る日本最高所として知られていましたが、現在はしなの鉄道になって特急の設定は無くなったものの、JRを除いた普通鉄道では最も標高の高い駅になりました。この駅名の“追分”とは、中山道と北国街道の分岐点の意味があり、鉄道作家の故・宮脇俊三氏は「旅情を誘われ、信濃路の終わりを感じさせられる」と、この駅名を表現しています。信濃路の終わり…という事は、軽井沢側から向かうと、ここから信濃路が始まる…という感じでしょうか。確かに、軽井沢は長野県ですが、色々と発展している部分もあり、また異色の存在の土地のようにも思えます。そうなると、ここからが純粋の“信濃”という国になるのかもしれません。そういえば昔、不動産分譲の為に“西軽井沢”と駅名も地名も変更しようとした時があったらしいのですが、地元住民等の猛反対にあったそうです。当然の事だと思います。
さて、少し歩いてみましょう。この駅から次の御代田駅、その次の平原駅までは、しなの鉄道で最も景色に富んだ区間でしょう。浅間山の裾野に沿って、徐々に長野盆地に向けて下っていく区間で、車窓からも堂々とした浅間山を、これでもか!というくらい望めるのです。…そしたらそれは自然と、鉄道の撮影地としても有名になってくるのです。この信濃追分駅~御代田駅間のポイントは今回初めて訪れたのですが、特急が走っている時代にも来たかったですね。今は列車は3両、長くても6両編成が基本ですが、当時の在来線特急『あさま』号は、9両、又は11両編成だったので、さぞかし迫力もあった事と思います。…もう早速、当時の状況を思い出してしまっていますね(笑)。
どちらの写真も、この区間の変化に富んだ雰囲気がよく表れています。そして左上写真の車両が前述した169系です。現在、3両編成×3編成が残っているのですが、その内1編成は湘南色と言われる、当時の国鉄時代を思わせる塗装になっていて、近年更に注目が集まっています。169系は現在、基本的には1日に1編成しか運用されず(運休の日もあります…)、故に湘南色の編成が運行される日は少ないのですが、しなの鉄道のHPに運行表が掲載されていまして、だからこそ、この日を選んだという部分もあるのです。
ちなみに、この169系を使って、リバイバル列車として急行『志賀』号等、イベント列車も数多く運転されているのですが、自分としては普段の姿を見ておきたかったのでした…。全容がハッキリ見える浅間山をバックに走る、湘南色の169系…。この姿が見れるだけで、寒い想いをしてまで(笑)、ここまで来た甲斐があったというものです。
信濃追分駅に戻り、今度は御代田駅から平原駅まで“さんぽ”してみましょう。この区間にも数多くの撮影地が存在し、自分も2,3回訪れた事がある場所です。流石に有名撮影地が点在してるだけあって、自分と同じ目的の人も何人か見掛けましたが、ここは鉄道と浅間山が望めれば、どこでも撮影地と言っても良いような広々とした場所なので、余裕のある撮影になりました。
それにしても…寒いです。ここは浅間山の裾野のような場所にあたり、長野方面に向かって、ちょっとした傾斜になっているのですが、そこから吹き上げてくる風がわりと強めで、どんどん体温を奪っていくのです。雪もまだまだ残っていて、常に風が吹いている証拠として、地面に積もっている雪が風の経路をそのまま残しており、霧氷のようにも見えます。そんな中でも、時刻通りに、ただ坦々と運行している鉄道…。これがまた良いのです。
さて、平原駅まで歩いたものの、思ったより距離があったのか、予定の列車に間に合わないという事態が発生してしまいました(本当は、左上写真の列車に乗りたかった…笑)。この先の予定として、この列車の後に来る169系を駅間で撮影しようとしていたのですが、せっかくですので、169系に乗る…という予定に変更しましょう。…とは言え、次の列車が来るまで50分くらいあったので、いったん逆方面の列車に乗り、少し時間を稼いで(とりあえず信濃追分駅まで戻りました)、改めて169系との対面を果たしました。ちなみに、今回のしなの鉄道を利用するにあたり、自分は“しなの鉄道フリーきっぷ”(2000円)を購入しています。こういった急な予定の変更にも対応出来るのが嬉しいですよね。
さて、再度の信濃追分駅にて、169系の小諸駅行き列車がやってきました(平原駅の次が、小諸駅です)。湘南色という塗装のせいか、往年の急行列車の風格が漂い、かつて旅と言えば鉄道が主力だった時代を思い起こさせてくれます(自分はこの世代ではありませんが…笑)。片側2扉でデッキが備えてあり、車内は落ち着いた雰囲気そのもの…。座席は元新幹線の物が使われていますが、40年以上前に登場した雰囲気は未だ健在という感じでしょうか。今回の引退も老朽化に伴うものですが、現在で既に運用範囲が狭まっております。…というのは、2011年にJRが保安装置の更新を行ったのですが、これに伴い、JR線に乗り入れる、しなの鉄道所属の115系も保安装置の更新を行ったものの、169系はその対象としなかったからです。これも数年後に引退する事を見越しての事でしょう。つまりは、現在は169系は長野には顔を出せないという事で、定期運用としては、車庫のある戸倉駅~軽井沢駅間のみが運用範囲で、実際の運用としては、殆どが小諸駅~軽井沢駅間の区間運用に張り付いている感じです。
ひとまず、しなの鉄道の風向明瞭な区間に残っているというのは幸いな事ですが、流石に引退という将来を感じさせるような状況である事は確かです。少し前までは、朝のライナー的な列車として、169系9両編成での『しなのサンライズ』号という運用もあったのですが、今では最高でも3両編成です。ここは現実から目を背けず、最後まで安全運転をして欲しいと願うばかりですね。乗っていると、安定しているような走行感や、静かな車内など、正に鉄道旅に適しているような車両でもあるのですが、これも時代の流れなのでしょう。じっくりとその風格を堪能したいと思います。
そうこうしている内に平原駅を過ぎ、左からJR小海線〔鉄道さんぽ 5.(JR東日本、小海線編)参照〕が合流して、この列車の終点、小諸駅に到着します。そもそも軽井沢駅~小諸駅間の区間列車が多いのは、ここまでの利用者と、ここから先の利用者にだいぶ幅があるという部分もあるのでしょう。ここからは列車の本数も増え、1時間に1本程度から、1時間に2本程度となります。
小諸駅は新幹線の通り道とならなかったせいか、駅舎や周りの景色も含めて、かつての名残を留めています。JRの小海線の終着駅でもあるので(駅管理はしなの鉄道)、少しJRの雰囲気も存在しているという事なのでしょうか…。駅では、JR小海線のキハ110系、そして現在の『しなのサンライズ』号の使用車両である、JR東日本の189系(183系が使われる事もあるそうです)との並びが実現しました!…そして、ここからは115系のみの旅が始まります。今の内に、169系をじっくりと眺めておきましょう。
さて、小諸駅を出発します。ここからは利用者も増え、車窓の様子も、浅間山の裾野というよりは、千曲川に沿って、山と山に挟まれた地形を進む…という感じになります。徐々にその幅は広くなっていき、長野盆地に到達するという形です。浅間山も見え辛くなり、車窓の変化も少なくなってきてくる区間でもあるので、このまま上田駅まで行ってしまいましょう。新幹線の停車駅でもあり、しなの鉄道としても、大きな駅の1つとして数えられます。
新幹線がJR東日本、そしてしなの鉄道、それと、ここを拠点とする上田電鉄別所線という、鉄道会社3つが乗り入れる駅ともなっている上田駅ですが、やはり利用者は減ってきています。峠の釜めしで有名な“おぎのや”が、ここでは立ち食い蕎麦屋も経営しているのですが(釜めしも購入可能)、どうやら今年の2月いっぱいで、この上田駅店?を閉店させてしまうのだそうで、何だか残念な話しです。駅自体は近代化が進められており、駅北口がお城口、南口が温泉口とも呼ばれる等、観光を意識した部分もあるので、今後の展開に期待したいですね…。当然の如く、利用者もこの駅から更に増えていきます。
少し先に進むと、坂城駅になります。そんなに大きな駅ではありませんが、駅の西側には新日本石油の油槽設備があり、平日にはここから神奈川県の根岸駅(JR根岸線)まで、石油取扱いの貨物列車が運行されています。これは国鉄、JR時代から続くもので、しなの鉄道になった現在でも継続されているものです。…ルート的には、坂城駅→篠ノ井駅→松本駅→(中央本線)→立川駅→府中本町駅→(武蔵野貨物線)→鶴見駅→(高島貨物線)→桜木町駅→根岸駅…という感じだと思います。かなりの長旅ですが、新幹線が開通した今も、貨物列車とは言えど、こうした1本の列車で関東地区と結ばれているというのは何だか嬉しいですね。ここでは車窓から眺めるだけに留め、次の戸倉駅で途中下車します。しなの鉄道の車両基地があり、運行の拠点ともなる駅でもあります。
この駅から長野駅までは車掌が乗り込み、ツーマン運転となります。逆に、軽井沢駅からこの戸倉駅までは、しなの鉄道所属の115系はワンマン運転(3両編成運転時)となっています。右上写真で車掌が乗り込んでいる所に注目してみて下さい。ただ、ワンマン運転とは言え、地方のローカル線によく見られるような切符収集は運転士は行わず、基本はドアの開け閉めをやっている感じです。これは、しなの鉄道の各駅は有人駅が多く、切符の収集は駅で行ってる場所が多いからでもあります。また、今後ワンマン運転は長野駅まで拡大される模様です。
車両基地があるので駅構内は広くとられてあります。車両基地には115系は勿論、しなの鉄道塗装の169系(右上写真参照)を見る事も出来ました。また、側線が山側にも延びていて、本線とは少し離れた所にも車両を配置しているのが面白いところです(左下写真参照)。車両入替の為に当駅を始終着としている列車も何本かあり、前述の通り169系の運用は、普段は軽井沢駅から当駅までとなっています(臨時で篠ノ井駅まで運転される事もあります)。また、訪問時には、今年の3月16日のダイヤ改正から運用される、2両編成の115系が試運転している姿も見られました(左上写真参照)♪…確かに、しなの鉄道の115系は3両編成のみで、特に軽井沢駅~小諸駅間は現在の状況からすると2両編成でも良いような感じではあるので、こちらの区間を中心に導入されるのかもしれません。
…さて、この次の千曲駅から、更に1つ先の屋代駅まで“さんぽ”してみましょう。距離にして2km強という感じでもあるので、先程(御代田駅~平原駅間は5,1km)よりは気軽?に歩ける筈です。千曲駅は2009年に出来た新しい駅で、完成当時は跨線橋やエレベーターの建設が間に合わず、駅舎と反対側のホームでは、臨時の改札口が設けられていました。現在では駅周辺も整備され、利用者も増加傾向にあるようです。
左下写真の115系はJRからの乗り入れ列車で、1日に何本が設定されていて、塗装からもそれは判別付きますが、こちらの車両は構造上、ワンマン運転は行えないというのも、また細かい判別ポイントだったりします(笑)。また、トイレの設定が有るのも、JR所属の車両のみとなっています。
徐々に沿線には住宅地が増えてきています。ここは既に、長野拠点で考えて通勤圏内の度合いが濃いのでしょう。鉄道撮影の観点からすると、なかなか見通しの良い区間が少なくなってくる(撮影がしにくい)ので、すぐに気付かされます。しなの鉄道の115系は、現在のところ基本は3両編成ですが、ラッシュ時にはそれを組み合わせ、6両編成での運転も何本か存在し、通勤や通学の足としても広く使われています。今後2両編成の列車が加わり、よりフレキシブルな輸送にも対応させるとの事で、注目していきたいところです。115系は、JRからすると、現在はローカル輸送に徹している部分があり、世代交代が進んで東京都心で見かける事は無くなりましたが、ここでは今後暫くは主力として活躍する事でしょう。
さて、屋代駅に着きました。昨年の1月にこの駅に来た時〔長野遠征演奏参照〕は、まだ長野電鉄の屋代線という路線が存在してしまいましたが、昨年の4月1日に廃止され、今では列車はやってきません…。しかし、当時のホームや線路等はまだ残されている部分も多く、言ってしまえば、今でも列車がやってきそうな雰囲気です。廃止前には、しなの鉄道の169系と、長野電鉄の車両とのコラボ撮影会等も開催されていたようで、大変盛り上がった事と思いますが、今度はその169系も引退…。やはり、時代の流れなのかもしれません。
さて、しなの鉄道の旅も終わりが近付いてきました。屋代高校前駅を過ぎ、右側から長野新幹線が、左側からJR篠ノ井線が近付いてくると、篠ノ井駅となります。長野駅まで、あと3駅という場所でもありますが、ここから先は前述の通りJR東日本の路線(信越本線)となります。ただ、列車は全て長野駅まで行くので、あまり起終点駅という感じの雰囲気はありません(そういえば、しなの鉄道も、JR信越本線も、JR篠ノ井線も、この駅が起終点となってますね)。JR時代と同じく、2つの路線が合流する駅…という感じです。また、駅の管理もJR東日本が行っている為、駅の雰囲気もそのまま、JRっぽいです。起終点の駅にしては、あまりしなの鉄道らしさが感じられないのですが、仕方無いのかもしれませんね。
やってくる列車は一気にバラエティに富んでいて、JR東日本の車両は勿論、はるばる名古屋からやってくる、特急『しなの』号(左上写真参照)の姿も見る事が出来ます。また、新幹線も望む事が出来ます。今後、JR東日本では、篠ノ井線に211系やE127系を投入するらしく(右上写真参照)、更にバラエティさに拍車が掛かってきますね。しなの鉄道の路線としてはここで終わりですが、長野駅に近付いてきた…という雰囲気は感じられる駅だとは思いました。
さて、せっかくなので長野駅まで行ってみましょう。時刻は18:00頃になっており、いわゆる長野都市圏の夕ラッシュ時にあたる時間です。どんな雰囲気かなと思っていましたが、しなの鉄道を利用する帰宅客は予想以上に多く、やはり、まだまだ多くの人に利用されているな…という印象でした。ホーム上は寒いですが、しなの鉄道の列車は、実質的にここ長野駅を起点にしているので、皆で列を作って、折り返しの列車を待っています。それは東京で見る光景と変わらず、ここにもきちんと鉄道の流れがあるという事を感じさせてくれるものでした。
このまま新幹線で東京に帰っても良かったのですが、せっかく1日フリーきっぷを買っているので(長野駅~篠ノ井駅間は使えませんが…)、再度しなの鉄道に乗って、軽井沢駅まで戻ってみる事にしましょう。夕ラッシュ時の鉄道の雰囲気は、朝や昼とはまた違った印象を与えてくれるものなのです。
そんな中、乗車整理券200円が必要な、快速『しなのサンセット』号に乗ってみる事にしました。都市圏で流行りのライナー的な列車だと思われますが、以前は169系が使われていたものの、この車両はJRに乗り入れられなくなってしまったので、現在は115系が使われているのです。つまり、普段と変わらない車両であり、特に定員制というわけでもないので、何の為の200円なのか…とは思ってしまいますが、これも厳しい鉄道運営状況という事なのでしょう。列車は上田駅までノンストップで、もう終点となり、その駅で軽井沢駅行きの普通列車に接続するという形をとっています(整理券200円は長野駅出発後、車掌が車内に来て販売)。
接続列車で終点の軽井沢駅まで…という形は取らず、途中の小諸駅でいったん降りて次の列車を待ち、小諸駅始発の169系で軽井沢駅まで向かう事にしました。恐らく自分は、これが最後の169系乗車となる事でしょう。辺りはもう真っ暗で、綺麗な車窓を楽しめる感じではありませんでしたが、この列車がダイヤ的に不便な設定になっている為か、車内は非常に空いていて、思う存分169系の車内の雰囲気そのものを楽しむ事が出来ました。自分が乗った2両目の車両の乗客は、やはり169系に乗りに来てると思われる方が1人と、地元の女子高生と思われる方が2人、そして自分の計4人でした。その内、女子高生の1人が信濃追分駅で降り、もう1人は中軽井沢駅で降り、、、結局終点の軽井沢駅まで乗っていたのは、電車目的の2人だけ…という状況でした(他の車両も、似たようなものでしょう)。
軽井沢駅まで戻って、これで完全に今回の“さんぽ”は終了です。湘南色の169系に特化した感じになってしまいましたが、それだけ見届けておきたい車両でもあるのです…。引退まではもう少し時間がありますが、それまで本当に安全運転で頑張って貰いたいですね。かつて碓氷峠を長編成で通過出来た車両の1つとして、信越本線時代から、そしてしなの鉄道でも語り継がれていく事でしょう。あと2ヶ月です!
☆しなの鉄道のHP…http://www.shinanorailway.co.jp/