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 2017年最後の『鉄道さんぽ』は、新潟県の柏崎駅と新潟駅を結ぶ、JR東日本の越後線を取り上げたいと思います。1900年初頭、柏崎駅〜新潟駅間は既に信越本線が運行を開始していましたが、そのルートは内陸部の長岡や三条を経由していたので、柏崎から日本海側を経由して新潟に至る鉄道が計画されました。それが越後線の前身となる越後鉄道です。
 越後鉄道は1912年〜1913年にかけて全通されましたが、資金不足の為に新潟近辺で信濃川に架橋する事ができず、新潟側のターミナルが信越本線新潟駅とは信濃川を隔てて、対岸の白山に置かれる事になりました。その後、途中に多くの駅が新設されるも、経営難に悩んでいた越後鉄道は1927年に国有化され、国鉄越後線となります。
 その後、1943年に信越本線の旧新潟駅(現在とは場所が異なりました)から越後線の関屋駅間に、戦時中の物資輸送という目的で貨物線が敷設され、両線はついに信濃川を渡って線路で結ばれる事になりました。そして、戦後の1951年に旅客営業が開始。同年に白山駅をこの路線上に移転させ、開業時の関屋駅〜白山駅を廃止させました。そして1956年には新潟駅がこのルート上に移転開業され、ほぼ現在の越後線の形態が出来上がります。
 越後線は柏崎駅〜新潟駅間の中、途中の吉田駅を境に運転がほぼ二部されています。柏崎駅寄りの区間はローカル度が非常に高く、それは日中は3〜4時間も列車が来ない時間帯が存在するくらいで、朝夕の通勤・通学輸送に特化した区間でもあると言えましょう。逆に新潟駅寄りは、吉田駅〜内野駅間でほぼ1時間間隔、内野駅〜新潟駅間では20分間隔のダイヤが組まれている等々、燕市、新潟市近郊の気軽な足として利用されています。
 特急列車は無く、普通列車ばかりが運行する地味な路線ではありますが、ここを走る国鉄型車両の115系の廃車が後を絶ちません。〔鉄道さんぽ 44.(JR東日本、両毛線編)〕でも取り上げましたが、現在、全国的に115系という車両の置き換えが進んでおり、既にこのエリアでは後継車両であるE129系も登場しているので、引退も時間の問題と言えるでしょう。幸い新潟エリアではこの越後線の他に、JR信越本線やJR白新線等、多くの範囲で使われていてその両数も多かったので、まだ全面的に置き換えをするには到っていませんが、路線によっては全ての運用が置き換わってしまった所もあり、予断は許しません。
 ここでの115系は、かつては4両編成や2両編成も存在しましたが、現在はN編成と呼ばれる3両固定編成の車両だけが活躍している状況です。…とは言え、ラッシュ時を中心に、それらを繋ぎ合わせた6両編成の運用も多く、まだまだ最前線で活躍していると言っても差し支えは無いでしょう。最近は旧塗装に塗り替えられた車両も出てきて、これが逆に、引退が間近ではないのかと思わせる事でもあるのですが、今のうちに、いま現在の越後線を見ていく必要はありそうと思い、今回取り上げさせて頂きました。東京では見られなくなってしまった115系の活躍を含めて、お楽しみ頂きたいと思います。それではどうぞ御覧下さい!


 
●日時…2017年12月23日 ●路線距離…83,8km ●駅数…32駅

      

 お楽しみに!

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 今回の『鉄道さんぽ』は、東武鉄道の鬼怒川線を取り上げたいと思います。路線名にある通り鬼怒川温泉、そして東武ワールドスクウェア等の沿線名所を抱え、更には会津方面への経路でもある事から、中距離輸送の需要が高く、観光路線のイメージが大きい鬼怒川線ですが、当初は現在の東京電力鬼怒川発電所への資材運搬の為に、大谷向今市駅(現、大谷向駅)から開通された路線でした。会社名は下野軌道(後に下野電気鉄道に改称)という軽便鉄道で、線形は急曲線が連続する等、これは改軌された現在でもその名残が見られる程です。
 一時期は大谷向から新今市駅(現、JR今市駅前)へ路線を伸ばすも、1929年に東武日光線が下今市駅まで延伸されたのを機に同路線と連絡を図るようになり、新今市駅への路線は廃止させました。この時、東武鉄道との乗り入れを考慮して、路線を改軌させます。その後、鬼怒川や川治温泉が世間から認知されるようになってきますが、乗合自動車業者との競争が激化、下野電気鉄道は経営困難に陥り、1943年に東武鉄道に買収、東武鬼怒川線となりました。
 その後、1948年には特急列車が走るようになり、車両も豪華になってきて、観光路線としてのイメージが定着し始めます。また、1986年には終点の新藤原駅より先の区間に野岩鉄道会津鬼怒川線〔鉄道さんぽ 7.(野岩鉄道、会津鬼怒川線編)参照〕が開通して、東武鉄道の浅草方面と直通運転を開始しました。1990年には更に先の会津鉄道の会津田島駅まで直通区間が伸びています。
 こういった路線背景があるので、ここを通る列車というと、特急列車は勿論、以前は快速列車が東武鉄道の浅草駅と鬼怒川温泉駅、そしてその先の会津田島駅を結んでいて、料金不要の快速列車とは言え、浅草駅〜新藤原駅を約2時間半、浅草駅〜会津田島駅間では約3時間半という、私鉄では珍しいくらいの長距離を走る列車が数多く設定されていました。しかし、この快速列車は2017年4月に廃止され、その代替で栃木駅、新栃木駅〜会津田島駅間等の普通列車が設定されました。また、下今市駅で進行方向を変え、東武日光駅方面へ直通する列車も多く設定されています。
 特急列車は以前は東武日光線を介した浅草駅行きのみの列車でしたが、2006年にはJR線を経由して新宿駅まで直通運転する列車が登場。東武の車両がJR線に乗り入れ、逆にJRの車両も鬼怒川線に乗り入れてくるようになりました。
 先程の2017年4月のダイヤ改正では、快速列車の廃止に替わって、特急リバティが登場。快速列車が走らなくなった浅草駅〜会津田島駅間の直通列車を特急として担う事になりました。この列車は下今市駅〜会津田島駅間は座席を指定しない場合に限り、特急券無しで乗車出来るという、新たな列車形態をもたらしました(東武鬼怒川線、野岩鉄道線内は基本的に各駅停車)。
 そして、記憶に新しい2017年8月。この鬼怒川線に、なんと蒸気機関車(SL)の運転が復活する事になりました!…東武鉄道自体は以前は蒸気機関車運転もしていた鉄道会社ですが、それでも1966年に東武佐野線で引退してから、実に51年振りの運転再開…。これには自分でも驚いたものです。勿論、運行にあたっての車両は既に所持していないので、どこからか調達してこなければならないのですが、これもまた鉄道会社を越えた協力がありました。
 このSL運転にあたって、編成はSL+車掌室+客車3両+ディーゼル機関車(補機)という事になったのですが、まずSLはJR北海道から借り受け、車掌室はJR貨物とJR西日本から1両ずつ譲り受け、客車は予備編成も含めて6両をJR四国から譲り受け、ディーゼル機関車はJR東日本から、それぞれ譲り受けたのでした。こんな事が可能なのだと思いましたが、また、SLを必ず正向きで運転させる為に、車両自体の向きを変えさせる転車台も、JR西日本の長門市駅構内にあったのものと、JR西日本三次駅構内にあったのものが、それぞれ譲渡を受けて運ばれ、整備されて下今市駅と鬼怒川温泉駅に配置されています。

 ここまでしてSL運転を行わせようとしている東武鉄道の最近の動きは凄く、列車も『大樹』と名付けられ、週末を中心に下今市駅〜鬼怒川温泉駅間を3往復しています。これは早々に乗る必要がありましたし(笑)、先述の2017年4月のダイヤ改正で鬼怒川線の運行形態は大きく変化したので、今回、『鉄道さんぽ』として取り上げるのも時間の問題だったと言えましょう。…以前から東武鉄道が好きだったので、学生の頃(特に中学生辺り)は本当によく乗りにきていた東武鬼怒川線。現在はどのような姿になっているのでしょうか。どうぞ御覧下さいませ!


 ●日時…2017年10月9日 ●距離…16,2km ●駅数…9駅

    

 お楽しみに!

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 今回の『鉄道さんぽ』は久し振りに関西に舞台を移し、JR西日本の大阪環状線を取り上げたいと思います。環状線と言えば〔鉄道さんぽ 39.(JR東日本、山手線編)〕が思い浮かびますが、こちらは正式な路線区間は品川駅〜田端駅間だったのに対し、大阪環状線は起点、終点とも大阪駅となる等、登録上も正式に環状線となっています。
 …とは言え、やはり最初から環状線として建設されたものではありませんでした。その歴史を辿っていくと、大阪鉄道という私鉄が現在のJR関西本線の柏原駅〜天王寺駅〜湊町駅(現在のJR難波駅)を1889年に開業させたのが始まりです。その翌年に今宮駅が開業され、大阪環状線で一番古い区間は今宮駅〜天王寺駅間と言う事も出来るでしょう。その後、この天王寺駅と東海道本線の大阪駅を結ぶ目的で、京橋駅を通る現在の東ルートが1895年に開通しました。大阪鉄道は1900年に関西鉄道に吸収合併され、1907年には国有化、1909年にこの路線は城東線と名付けられます。
 この歴史とは別に、当時の大阪港だった安治川河口付近と大阪駅との資材運搬、臨海鉄道という目的で、1898年に西成鉄道という私鉄が大阪駅〜安治川口駅間を開業させています。安治川口駅〜天保山駅(後にルートが変更され桜島駅へと改称)を延長させて1906年に国有化、1909年に西成線と名付けられました。これは、現在のJR桜島線(ゆめ咲線)の元になっている区間もあります。
 大阪環状線は、この城東線の天王寺駅と、西成線の西九条駅を大正駅を通る西ルートで繋いだ路線となりますが、その開業は1961年と、だいぶ後となりました。これは、大阪海側の地域がまだまだ開発途上であり、既に工業地や住宅地、湾岸地帯で締められていて、東京の海側である銀座のようなオフィス街、繁華街として発展する見込みが遅れた為とも言えます。ひとまず環状線が完成されたこの時、桜島駅〜西九条駅は桜島線となり、また、今宮駅〜天王寺駅間は関西本線との重複区間になりました。
 環状運転が始まった1964年(それまでは桜島駅〜西九条駅〜大阪駅〜京橋駅〜天王寺駅〜西九条駅という、逆「の」の字運転でした)以降ですが、やはり利用者の多くは京阪本線やJR片町線(学研都市線)と接続する京橋駅、近鉄奈良線や大阪線と接続する鶴橋駅を通る東ルートに集中し、西ルートの乗降客数は伸び悩んでいました。故に、大阪環状線と“環状線”…とは言いながらも、大阪駅〜京橋駅〜天王寺駅間の区間列車が数多く設定され、東ルートと西ルートでは列車頻度も異なっていました。
 しかし、この運転密度が低くなる西ルートを利用して、1973年に関西本線から直通列車が走り始めます。これは奈良方面から来た列車が、天王寺駅からそのまま大阪環状線内の西ルートに入り、大正駅〜大阪駅〜京橋駅と通って、再び天王寺駅まで着くというルートです。大阪環状線内は快速運転(主に西ルート区間)を行い、列車頻度の低さをスピードで補いました。
 この直通形態は現在でも続き、大阪環状線のダイヤの特徴を表しているもので、1989年には特急「くろしお」号との阪和線直通(大阪方では貨物線を利用し、新大阪駅、更には京都駅へ直通)、1994年の関西国際空港開業後は、関空特急「はるか」号を始め、関空・紀州路快速等の列車が次々と大阪環状線内に乗り入れる事になり、運転密度は増加する運びとなりました。現在では、日中の3分の2の列車が直通運転を行って環状線を逆「の」の字で運行するダイヤとなっています。

 こうして現在の大阪環状線が出来上がりましたが、駅舎や車両が古く、JR西日本の代表路線としては更新も遅れていた事から、2013年から「大阪環状線改造プロジェクト」というのが始まり、安全で快適な駅づくり、施設のリニューアル、地域と他交通業者との連携、車両新製等が進められています。実際に乗ってみるとその変化は大きく、いま大阪環状線は大きな節目の時にいるような印象も受けました。そのうちの1つはやはり車両で、従来の103系や201系に代わり、323系という車両が集中投入されていて、これも2018年度には全て置き換わる予定なのだとか…。これまで、旧国鉄型車両が見られる路線…というイメージだったのが、大阪のJR路線を牽引していくような最先端路線…と発していく事になりそうな勢いも感じられます。過渡期の大阪環状線。どうぞ御覧頂けたらと思います!


 ●日時…2017年8月13日 ●距離…21,7km ●駅数…19駅

    

 お楽しみに!

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 今回の『鉄道さんぽ』は、この企画始まって以来の地下鉄の路線、東京地下鉄(東京メトロ)東西線を取り上げたいと思います。『鉄道さんぽ』で地下鉄…というのは、今までなかなか踏み込めない世界でもありました。何故なら、列車に乗りつつも、色々な駅で途中下車して、路線を外から“さんぽ”して眺める…といった趣向があるこの企画では、地下鉄という、地下を潜って進むという路線向きではなかったからです。
 しかし、都市部の地下鉄路線というのは、基本的に道路の下を通るように造られていて、上を走る道路を見ながら、地下鉄とはこのようなルートを通っている…と、想いを偲ばせるのも悪くない発想と考えつつ、今回、ある意味で実験的に?地下鉄路線を取り上げたのでした。
 …とは言え、東京の中野駅と千葉の西船橋駅を結ぶ東西線は、東京の中でも結構特殊な地下鉄路線でもあります。まず、南砂町駅〜西船橋駅間という、路線全体の半分弱を締める地上区間の存在です。近年は地下鉄路線も直通運転が拡大されて、地上区間を走る地下鉄車両は珍しくなくなりましたが、今でも自社線内だけで、これだけの地上空間を締める地下鉄路線は全国でも東西線だけです。この区間は地盤が弱かった事に加えて、建設当時はまだ住宅も少なく、高架は地下にするより建設費が10分の1程度までに抑えられたとか…。故に、千葉県内に深く進入しているにも関わらず、当時の営団線として開通出来ました。
 東西線は、元々はJR総武線のバイパス路線として造られました。東西線の開業によって総武線沿線から都心への所要時間は大幅に短縮され、東西線沿線は勿論、西船橋以遠からの乗客の流入によって、大変混雑する路線となっています。…この為に、快速運転が早々と運転されたり、地上空間に西葛西駅、南行徳駅、妙典駅の3駅が新たに新設される等、これも東西線ならではの特徴と言えましょう。
 つまり、東西線は都心部を走る地下鉄路線でありながら、郊外へ延びる通勤路線としての側面が非常に大きいのです。平均乗車距離の長さ、朝と昼の混雑率の差、定期券利用率の高さのいずれもが、東京メトロ路線のトップクラスにあります。線形が良い地上空間は線路の強化も行われており、現在は新幹線と同じクラスの60kgレールが使われています。つまり、それだけ重要視されている路線だという事でしょう。
 さて、東西線は自社線内だけでの車両もバラエティに富んでいます。形式的にも分けてみても05系、07系、15000系と3種類あり、特に05系は16年にもわたって製造され続けられていた事もあって途中での仕様変更が多く、見た目的には別形式の車両に思えるくらい、更に種類があるように思えます。これに、直通運転先のJR線の車両と、東葉高速鉄道の車両が加わります。15000系の装備は2011年度になって一時は落ち着くも、更なる混雑緩和を目指して(15000系はワイドドアなので、ラッシュ対策向きなのです)、2017年になって更に3編成装備されました。このような施行も、正に通勤路線ならではの側面と言えるでしょう。初の地下鉄路線という『鉄道さんぽ』ですが、それ以上に、現在の東西線の状況を知っておきたくなりました。それではどうぞ御覧下さい



 ●日時…2017年6月18日 ●距離…30,8km ●駅数…23駅

    

 お楽しみに!

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 今回の『鉄道さんぽ』は、JR東日本の両毛線を取り上げます。栃木県の小山駅と群馬県の新前橋駅を、関東平野を東西に横切るような形で結ばせた路線で、元はこの地域で盛んに生産された生糸や織物を輸送の為に、両毛鉄道という鉄道会社が建設(小山駅〜前橋駅間)させました。その後、日本鉄道が現在の高崎線〔鉄道さんぽ 17.(JR東日本、高崎線編)参照〕を延長させる形で高崎駅〜新前橋駅〜前橋駅間を開業し、両毛鉄道と接続させました。現在も高崎駅〜前橋駅間が、高崎線とほぼ一体の運転を形成させているのは、この名残でもあるようです。
 その後、日本鉄道は両毛鉄道を吸収合併、1906年に鉄道国有法施行により国有化、そして1909年の名称設定時に両区間は統合され、小山駅〜高崎駅が両毛線となりました。更にその後の1931年に上越線が開業すると、新前橋駅〜高崎駅間は路線が重複する二重戸籍区間になりましたが、1957年に同線から両毛線が分離され、現在の小山駅〜新前橋駅間が両毛線となります。
 路線的にはこれで現在に至りますが、近年のダイヤ改正で、車両と運用に変化が生じてきました。まず、今まで115系と107系が中心だった当路線に、急に211系が台頭してきました。211系は高崎線や宇都宮線(東北本線)での引退後、廃車を免れた車両が次の活躍の場を求めて大量留置、リニューアルがなされていたのですが、それが着々と準備が進み、いよいよ本格的な置き換えが開始されたようです。現在では115系や107系の運用は朝夕が中心で、日中以降は殆どが211系が行き交う路線となりました。
 また、これは両毛線と言うより、上越線や吾妻線の話しなのですが、前述の通り、両毛線は小山駅〜新前橋駅間となっているも、列車は殆どがその先の高崎駅まで直通しています。そして、以前は上越線も吾妻線も、当たり前のように高崎駅始終着となっていたのですが、つい最近のダイヤ改正(2017年3月5日)で、日中の上越線と吾妻線の一部が、新前橋駅始終着に変更されたのです。つまり、高崎駅から上越線方面に向かうには、両毛線の列車で新前橋駅まで行き、そこから上越線列車に乗り換えなければならなくなりました。要は高崎駅〜新前橋駅間の列車本数削減政策で、確かに以前は、1時間あたりに両毛線列車3本、上越線1本、吾妻線1本と、計5本の列車は輸送過剰だったとも言えそうですが、今回のダイヤ改正では両毛線の本数も3本➡2本に減らされてしまい、この区間では大幅な減便が図られてしまったのでした。
 上越線と名乗っている区間に、両毛線の列車ばかりが発着しているという印象になってしまいましたが、このエリアではどちらかというとダイヤの減便、縮小の傾向が顕著に表れており、利用者が減っているという事を如実に感じさせます。
 そして、やはり車両の変化も大きいです。いずれは211系に統一させて、運用コストの低下を狙っているものと思われますが、ここにきて115系や107系が一気に希少価値の高い車両になってきました。一部では、107系の方が先に無くなるのではないかとも言われており、現在の両毛線を見ておくという価値は大きそうです。両毛線は小山駅が起点ですが、小山駅に向かう列車が下り列車として扱われており、今回は新前橋駅から“さんぽ”を進めていきたいと思います。それではどうぞ御覧下さい!

    


 ●日時…2017年4月16日 ●路線距離…84,4km ●駅数…18駅

 お楽しみに!

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 2017年最初の『鉄道さんぽ』。今年は私鉄から始まる年になります。また引き続きどうぞよろしくお願いします!…そんな2017年最初の路線は、東京急行電鉄(以下、東急電鉄)の池上線を取り上げてみました。池上線は、品川区の五反田駅と大田区の蒲田駅を結ぶ、東急電鉄の路線の中では短い路線で、列車も、終日3両編成の各駅停車がのんびりと走るような、都心にしてはノスタルジーな雰囲気がある路線です。
 その歴史は、池上本門寺参詣客輸送を目的に、1922年に池上電気鉄道が蒲田駅〜池上駅間を開業させた事に始まりますが、後に路線は徐々に伸び、1928年には五反田駅までの路線が全通しています。この時、五反田駅から先にも更に延伸する予定があった為に、駅周辺は山手線の線路を越えて高架で建設されました。そして、1934年には目黒蒲田電鉄(後の東急電鉄)に買収されて現在に至っています。
 長らく旧性能電車ばかりが活躍する路線でもありましたが、1984年に冷房車の導入、そして1989年には全て新性能電車に取って代わられ、他の東急路線同様の近代化が図られていきました。また、池上線は従来は他の路線で使用された中古車両ばかりが使用されていましたが、1993年には池上線用に直接新車を導入する機会もあり、これは池上電気鉄道以来、63年振りの事でもあったとか…。
 現在、お隣の東急電鉄多摩川線と使用車両を共通させており、これらの路線専用の7000系も導入される等、かつての“お下がり”感は無くなってきていています。しかし新性能電車ばかりになったとは言え、中には車体年齢が50年を越える車両、7700系も存在していて、それらと新型の7000系が同時に運用されているというのは、見ていて頼もしくもなってきていしまいます。
 駅施設は相変わらず古いものが多く、木造の旅客上屋や、上屋と一体化した木製ベンチ等が今でも現役で残っていたりします。3両編成と短い列車である為でもありますが、上り線、下り線毎に、ホーム毎に簡素な改札口が設けられた駅も多いです(両ホームの通り抜けは不可)。その中でも戸越銀座駅は2016年12月と、最近リニューアルが完了。「木になるリニューアル」という、敢えて木造駅舎の雰囲気を踏襲したデザインが施されているのは、池上線にも新たな時代が来た事を感じさせてくれそうでした。
 都会の中のローカル線…とも表現される池上線ですが、その近代化、現代化はスローペースではあるものの、徐々に徐々に行われているようでした。今一度、じっくりと乗ってみる価値はありそうです。路線が短く、そして自宅からも近いので、むしろ逆に、こうでもしないと普段乗らない路線でもあると言えるでしょう…。どうぞ池上線の魅力を味わってみて下さいませ。 


 ●日時…2017年2月6日 ●距離…10,9km ●駅数…15駅

 池上線の“さんぽ”は五反田駅から始まります。JR山手線からもそのホームが見えるので分かるかと思いますが、随分と高い場所に設置されています。これは前述のように、五反田駅から更に延伸させる予定があったからですが、今では駅ビルに遮られています。このホームの高さは地上から見るとより顕著で、駅ビルの4階とホームは直結されていますが、実際にはもっと高いように感じます。

    

    

 池上線は日中は6分毎の多頻度運転で、全て普通列車です。車庫が雪が谷大塚駅にある為に、早朝深夜に雪が谷大塚駅発着の区間列車が一部設定されていますが、殆どは終点の蒲田駅まで行く列車です。眼下を走る山手線が11両、埼京線が10両、湘南新宿ラインが15両編成ともなるのに、こちら池上線はオール3両編成とローカル感を醸し出していますが、池上線は、並行して西に1km付近を、同じ東急の目黒線・多摩川線も走っています。こちらも蒲田駅に向かっているので、両線で乗客を振り分けているという考えも出来ましょう。ちなみに両線の一番近い千鳥町駅付近では、約500m程しか離れていません。

    

 五反田駅を出ると、地上2階ぐらいの高さに降りてきて、すぐに大崎広小路駅となります。当初はここが池上線の終点でした。当時はここから五反田駅まで、徒歩で連絡するようにしていたのです。実際、五反田駅までの距離は300m強ぐらいです(東急の路線で、世田谷線を除いて一番駅間の短い所です)。また、大崎駅にも徒歩で行ける距離にあります。

    

 大崎広小路駅を出ると、左右にカーブしながら国道1号線を潜り、リニューアルされた戸越銀座駅に到着します。同駅前には、全長 1,3km にもなる関東有数の商店街、戸越銀座商店街が伸びています。木調の駅舎、駅構内が印象的な駅となっています。尚、池上線は1998年3月からワンマン運転となっており、安全運転確保の為にホーム柵とホームセンサーが当駅も含め、全ての駅に設置されています。

      

 戸越銀座駅までは、商業地の中を走る…という感じだったのが、この先は住宅街の中を走るという感じに変わってきます。次の荏原中延駅とその前後は1989年3月に地下化されました。旧線路敷は公園等に変わっています。そして再度地上へ出て、東急大井町線と乗り換えられる旗の台駅に着きます。この先は住宅街に交じって緑地も増えてきます。

    

 洗足池に着き、ここで色々と“さんぽ”してみましょう。駅前を通る中原街道の向こうには洗足池があって、花見のシーズンには多くの見物客で賑わいますが、線路沿いに少し五反田方面へと戻ってみると、とても小さなガード下を発見出来ます(左上写真参照)。大人は勿論、子供でも屈まないと通れない程で、ここから見上げた池上線列車は迫力満点!…個人的に、隠れた名所ではないかと思っています(笑)。

    

 そのまま次の石川台駅方面に向かってみます。この先は急に切り通し区間となって、以前は両脇の土手に桜の木が植えられていました。故に、こちらも花見シーズンには多くの乗客の目を楽しませていたのですが、今では安全上の観点から殆どが伐採されてしまったようです。この切り通し区間を抜けると石川台駅で、駅の途中から今度は盛土区間となります。この辺りは呑川の河岸段丘の段丘面上にある為に高台となっていて、池上線はそこを貫いているので、周辺を観察してみると、随分とアップダウンの激しい所を通っているなと感じさせられます。

    

 次は、車両基地のある雪が谷大塚駅となります。前述のように、朝夕ラッシュ時や夜間、そして始発や終電時間帯の列車を中心に、当駅発、止まりの列車が設定されていますが、池上線と、お隣の東急多摩川線の車両は共通仕様となっているので、ここで所属している車両は多摩川線も担当している事になります。

    

 この雪が谷検車区を横に見つつ、お隣の御嶽山駅まで“さんぽ”してみましょう。踏切や線路の測道からは、停泊している車両がよく眺められ、バラエティに富んだ現在の池上線の車両群を垣間見る事が出来ます。新型の7000系、車齢50年を越える7700系の他にも、1000系(赤帯が特徴)や1000系1500番台(緑帯が特徴)があり、その中にも以前は東京メトロ日比谷線乗り入れ用で使われていた車両がある等、その興味は尽きません。

    

 そんな車両達を眺めながら歩いていると、すぐに御嶽山駅に到着してしまいました。駅北西側に御嶽神社が鎮座している為にこの駅名となっていますが、この駅の南端直下を東海道新幹線とJR横須賀線・湘南新宿ラインが潜っています。実はここは、JR以外の普通鉄道(鉄道から、モノレール、新交通システムを除いたもの)事業者が新幹線をオーバーパスしている、数少ない例の1つの光景でもあります(右下写真参照)。

    

 この後も短い間隔で駅に停車していき、のどかな住宅地を抜け、路線名の由来にもなっている池上駅へと到着します。言うまでもなく池上本門寺の門前町で、総門は駅から徒歩10分程…。前述のように、当駅から蒲田駅間までが、池上線で最も早く開通した区間になります。

    

 池上駅は立派で、参詣客目的で造られただけに入口も広めにとられていますが、ここでは都内では珍しくなった旅客用構内踏切(東急電鉄では唯一)が存在し、五反田駅方面へのホームへは改札を通った後、この構内踏切を抜けて進まなければ到達出来なくなっています。

    

 風情もありましたが、構内踏切による混雑化(蒲田駅方面の列車が到着すると、その先に位置する構内踏切が塞がれてしまい、その間、五反田駅方面へのホームとの行き来が不可能になってしまいます)や安全の為、今後、駅舎の改良や構内踏切の廃止が決定されてしまいました。昔ながらの池上線の雰囲気を色濃く残す駅でもありましたが、時代の波は着実に様々な場所に及んでいるようです。

    

 池上駅を出ると、蓮沼駅、…そして左にカーブして、右手側から東急多摩川線が寄り添ってくると、両路線揃って終点の蒲田駅へと到着します。多摩川線と同居する頭端式の蒲田駅は、そこに覆い被さる巨大な屋根も相まって、さながらヨーロッパの終着駅のような雰囲気を醸し出しています。両端と中央のホームは降車専用。意外と設備は整っています。多摩川線も、日中は池上線と同じ6分間隔の運転なので、両線併せて、蒲田駅での列車の発着は引っ切りなしに行われているような印象です。

    

 これで池上線の“さんぽ”は終了となります。素朴ではありますが、今回の写真で見ても分かるくらいのバラエティ豊かな車両群と共に、時代の移り変わりを感じられた“さんぽ”になったかもしれません。蒲田駅の改札付近には、2015年2月に引退した7600系の撮影用ボードが展示されていたりと、東急の車両に対する愛情も垣間見れました。

    

 これから徐々に変化が期待される東急池上線ですが、そんな中でも地道に活躍を続け、大事な路線風景は残しつつも、ノスタルジー溢れる、鉄道然とした話題を提供してくれる事でしょう。まだまだ冬真っ只中の『鉄道さんぽ』でしたが、どこか心が温まる1日になりました。

 ☆東京急行電鉄のHP…http://www.tokyu.co.jp/index.html

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 2016年最後となった『鉄道さんぽ』は、神奈川県の小田原駅と大雄山駅を結ぶ中小私鉄、伊豆箱根鉄道大雄山線を取り上げたいと思います。伊豆箱根鉄道は西武グループの鉄道会社で、神奈川県の箱根や静岡県の伊豆地区においての鉄道事業、船舶事業、不動産事業等を行っていますが、大雄山線はその前身の大雄山鉄道によって、大雄山最乗寺への参詣鉄道として1925年に開業しました。この時は小田原側が仮小田原駅という、現在の小田原駅とは離れた場所が終着駅とされていましたが、1927年には新小田原駅(この時点で、仮小田原駅は相模広小路駅へ改称)が、そして1935年には小田原駅へと徐々に延伸開業。小田原駅延伸時には、相模広小路駅と新小田原駅の間に緑町駅を設け、相模広小路駅と新小田原駅は付近の駅間が短い為に廃止にさせ、現在の形に近付きました。
 その後、1941年に駿豆鉄道に吸収合併されます。駿豆鉄道は既に三島駅〜修善寺駅間の路線も保有していて、神奈川県に1路線、静岡県に1路線と、それぞれ独立した路線を持つ鉄道会社になりました。そして1957年に伊豆箱根鉄道へと改称。現在の社名となっています。
 大雄山線全長 9,6km 程のミニ路線ですが、参詣鉄道という背景があるので歴史は結構古く、昨年で開業90周年を迎えました。その90周年の時には色々なイベントが行われたそうなのですが、そのファイナルイベントとして2016年10月1日に、この路線を走る5000系車両の1編成目の塗装を、かつての旧型車両のカラーとして復活運行させる事になったのでした。
 この塗装は、グループ会社の西武鉄道車両の昔の“赤電”と呼ばれる塗り分けでもあり、ある意味で懐かしい反面、5000系はその塗装で走った事は無いので、挑戦的な復活とも言えるものでした。特別塗装である以上、期間限定の運行であると思いますので、今のうちに乗っておきたかったという事が今回の『鉄道さんぽ』選定の大きな理由になったのです。また、伊豆箱根鉄道駿豆線の方は、個人的にライブで三島方面によく行くので頻繁に乗っていたにも関わらず、大雄山線は今まで1度しか乗った事が無い路線であり、その意味でも久し振りに大雄山線を見ておきたくなったのです。
 …以前の乗車は恐らく自分が中学生か高校生の頃なので(笑)、約20年振りの乗車となってしまうのは確実だと思いますが、そんな大雄山線の今をお届けしていきたいと思います。どうぞ御覧下さいませ!


 ●日時…2016年12月24日 ●距離…9,6km ●駅数…12駅

 JR東海道本線で小田原駅に着くと。 15両編成が停車出来る東海道本線のホームからすると小さなホームが左手に見えてきますが、これが大雄山線の小田原駅になります。規模は小さいながらも、中小私鉄としては利用者の多い路線であり、3両編成とは言え、早朝と深夜を除いて終日12分毎に運転されているので、ダイヤ的にもシンプルで乗りやすい路線なのです。

    

 小田原駅では、東海道本線と線路が繋がっています。これは大雄山線内に車両の大規模の整備工場が無い為、全般検査といった大規模な車両検査を行う場合は、東海道本線の小田原駅〜三島駅間を回送(甲種輸送…JR貨物等の機関車に牽引され、貨物扱いとして輸送させる)させて、駿豆線内にある自社の工場に入場させるのです。左上写真を注意深く見て頂けると分かると思いますが、線路は繋がっているものの、架線は張られていない事が分かります。これでどうやって車両を受け渡すかというと、JR側の機関車に数両の貨物車両を中間に連結し、架線の張られていない区間に誤って機関車が入らないように授受するのです。この光景は大変珍しく、甲種輸送時には沢山のカメラマンの被写体の的となります。

    

 駿豆線の小田原駅には、早速大雄山最乗寺にまつわる天狗のモニュメントがありました。伊豆箱根鉄道は西武系なので、自動改札の雰囲気も何となく西武鉄道と似ています。そして、この日購入した切符は、1日乗車券『金太郎きっぷ』。これ1枚で大雄山線内が乗り降り自由な、正に『鉄道さんぽ』向き(笑)の切符です!…540円なり。

    

 小田原駅の次の緑町駅までは 0,4km しかないので、早速“さんぽ”して向かってみましょう…。小田原駅から伸びる商店街の1つを歩いて進み、商店街が尽きてきた所が緑町駅入口…という近さでもあります。線路的にはこの先で東海道本線の下を潜るのですが、その為に高度を下げてきたら、次の駅に着いた…という感じでしょうか。

    

 
そして写真のように、早速90周年の復刻塗装車両に出会えました。大雄山線を走る車両は現在は全て5000系で統一されていますが、その装備は10年にも亘って割りとゆっくりと揃えられたので、各編成毎に仕様が異なっているのです。特に写真の車両はその第1編成目で、他の編成がステンレス製車両なのに対し、この編成だけ普通鋼製車両となっています。だからこそ、このような塗装変更が容易に可能で、復刻塗装の対象になったものと思われます。

    

 5000系は全部で7編成あり、2編成目以降はステンレス製で、更に5編成目以降は、関東地方では数少ない転換クロスシート車となっています(右上写真参照)。6編成目以降では前面部にスカートが付き(左上写真参照)、行き先もLED方式に変更となりました。それまでの編成は、行き先に「小田原」と「大雄山」しか無いという状況を生かし、最初から前面に両方の行き先を固定表示させ、営業運転時にそれぞれの裏から電灯で照らす…といった仕組みにしていました。…
なので、光線の具合によってはどちらの行き先も読み取る事が出来ます(笑)。
 緑町を出ると、左に急カーブして東海道本線の下を潜ります。左上写真を見ると随分ときついカーブを通っているのが分かります。これは半径100mのカーブで、このカーブをクリアさせる為に、大雄山線にでは車両の大型化(1両の長さが20m)が難しく、全て18m車となっています。以前は17m車が限度だったそうですが、5000系は連結面間隔を通常よりも広げた設計にしており、18m車でも大丈夫にさせたのだとか。

    

 また、このカーブでは線路にスプリンクラーも設置されていました。線路にスプリンクラーというのは、よく雪国を走る新幹線等で、除雪用に使われていたりしますが、こちらの使用目的はレールの軋みや車輪との摩擦を軽減させる為でもあるそうです。それぐらいきついカーブだと言う事でしょう。
 東海道本線を潜ります。その先に、前述のかつての相模広小路駅がありました。更に井細田駅を過ぎて、五百羅漢駅へ。駅名の通り、五百羅漢のある玉宝寺や、多古城址等、付近には旧跡が多く存在しています。逆に駅名のイメージとは異なり、駅本屋はマンション併設の建物となっています。ホームからはこの先で潜る、小田急小田原線の線路も見えます。当駅から300m程に小田原線の足柄駅が存在しています。

    

 …この先も“さんぽ”してみましょう。大雄山線は距離が短いので、頻繁に“さんぽ”をしないと、すぐに終点に着いてしまうのです(笑)。道路もほぼ大雄山線と並行していて、とても散歩しやすい環境でもありました。

    

 
小田原厚木道路を潜り、片面1面1線の穴部駅に着きます。大雄山線は12分間隔の運転頻度と書きましたが、単線で、列車の行き違い設備を持つ駅も限られているので、逆に言えばこれ以上は列車間隔を狭める事が出来ません。そこで、先程の回送列車の為に、計画運休させる列車を1日に2往復設定しています。車両検査等の際は、そのダイヤを使って回送列車を運行させているのです。

    

 穴部駅から先も“さんぽ”してみましょう。大雄山線の路線延長が合計10km にも満たないと言う事は、起点から終点まで全て歩いても3時間は掛からないという事になります。確かに、今回はゆっくりと進めた方が良い感じはしました。この辺りは狩川と接近するポイントとなっているので、車窓の片側はわりと開けた風景が楽しめます。…とは言え車窓からはその堤防に遮られ、狩川自体を望める事は難しいです。より良い風景を楽しみたいなら列車から降りて、線路と川の間にある堤防部分を“さんぽ”するのが(笑)良いでしょう(左下写真参照)。

    

 さて、今度は歩いてばかりでは“鉄道”さんぽにならないので(笑)、次の飯田岡駅からは列車に乗ります。この後はどこで降りようかと思いますが、線路が狩川を渡るポイントがあるので、その最寄りとなる塚原駅で降りてみましょう。当駅も、片側1面1線の小さな駅ですが、もはや大雄山線ではこれが標準です。これらの駅は無人駅が多いようです。

    

 この狩川を望むポイントでは、大雄山線では貴重な富士山が望めます(右上写真参照)。手前の山に遮られ、山頂付近の少しの部分しか見られませんが、それでも富士山が見えるのは嬉しいもので、このポイントに立ち寄って良かったと思いました。近くを走る小田急小田原線は、手前の山から少し離れた場所を走っているので、富士山を車窓に暫く望めるのですが、大雄山線は山に近い所を走っているので、それらに遮られて富士山が見えるポイントが少ないのです。

    

 そして、中間駅では最後の列車交換駅となる和田河原駅へ。やはり駅本屋がマンション併設となっています。ちなみに、読み方は「わだがはら」です。この駅では、終日駅員が配置されています。この次の駅は富士フィルム前駅となっていますが、狩川の向こうにある富士フィルム工場の正門へは、ここ和田河原駅の方が近いようです。

    

 富士フィルム前駅を過ぎると、終点の大雄山駅に到着です。車庫が併設されており、そこと留置線とに挟まれた部分にホームがあります。線路はこの先には伸びていなく、ホームと垂直に接する形で駅本屋が建てられています。ここまで小田原駅からは21分。本当に小旅行という感じでした。

    

 駅の周辺は南足柄市の中心部という感じで、スーパー、銀行、そして商店等が入ったビルが建ち並び、大雄山線としては小田原駅に次いで活気があるところと言っても良いでしょう。前述のように、最乗寺への玄関口でもあり、駅前からバスが出ています。また、距離的に5kmほど離れた小田急小田原線の新松田駅へも、頻繁にバスが出ています。駅前には童話で有名な金太郎像があり、観光客の格好の被写体となっています(今回は時期的に、サンタクロースの格好をさせられてました…笑)。また、駅の発車メロディも童謡の「金太郎」でした。

    

 車庫は道路側からも拝見でき、線内の電気機関車の代用となっているコデ165形もチラ見?する事が出来ました(右上写真参照)。前述の甲種輸送時に運ばれてきた車両は、当線内はこのコデ165形で牽引します。元は鉄道省用として1928年に製造されましたが、1960年に相模鉄道〔鉄道さんぽ 40.(相模鉄道、本線編)参照〕へ譲渡、その後1976年に伊豆箱根鉄道に譲渡され、旅客用として使われた後に、1996年に事業者用に改造されたという、複雑な歴史を持った車両でもあります。

 これで大雄山線の“さんぽ”は終了です。10kmにも満たない路線でしたが、その分、ゆっくりと沿線を楽しむ事が出来て、充実した時間になっていたのではないでしょうか。これからも地元の足としてまだまだ走り続ける…。そんな頼もしさを感じられた鉄道さんぽになりました。

 ☆伊豆箱根鉄道のHP…http://www.izuhakone.co.jp/

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 今回の『鉄道さんぽ』は大阪に足を延ばし、天王寺駅と和歌山駅を結ぶJR阪和線を取り上げたいと思います。阪和線は、元は阪和電気鉄道という私鉄で、それまで南海鉄道(後の南海電気鉄道)南海本線で独占されていた阪和(大阪地区〜和歌山地区)間の輸送を切り込む為に建設されました。当時、南海本線は沿線集客を重視して、大阪湾側の紀州街道沿いの都市を経由するというルートを通っていましたが、阪和電鉄は阪和間の速達性を重視して、やや内陸寄りで、まだ農村地帯の中をなるべく直線で結べるようなルートが選定されています。明治時代には既に全通していた南海本線に対し、阪和鉄道が全通したのは1930年(昭和5年)の事で、当然の如く、開業当時から南海本線と熾烈な乗客取り合いが繰り広げられました。
 その代表的な例として、1933年に登場した阪和間をノンストップ45分で結ぶ『超特急』と呼ばれる列車があった事が特筆されます。この時の表定速度、81、6km/時という数字は、営業運転される列車としては当時日本国内最高記録の速さで、戦後に国鉄特急『こだま』号が、東京〜大阪間6時間40分運転(表定速度83、5km/時)を開始した1959年まで、26年間も破られる事は無かったという、歴史的に見れば超絶的なレコード保持の列車であったと言えましょう。阪和間に限っても、特急に限り120km運転が許容される事になり、阪和間が41分で結ばれた1986年で、ようやく記録更新が行われた程でした。阪和電鉄の線形は概ね良好でしたが、県境の山中渓駅付近は急勾配急曲線が存在し、現在のように振り子式車両(車体傾斜式車両)も無かったので、平坦区間で如何にスピードを出していたかが想像出来ます。
 対しての南海本線は明治時代に敷設され、市街地を通りながらのルートであった為、スピード面での対抗には限界があり、そこでの対抗策が、豪華列車の登場や接客サービスの向上でした。特筆すべきは、1936年には日本の私鉄初の冷房電車試作に挑戦した事で、乗客からは大好評を博しました。
 これら以外にも、阪和・南海の両社は大阪〜和歌山間の優等列車を頻発させて、デッドヒートを繰り広げていきますが、京阪間(大阪〜京都間)や阪神(大阪〜神戸間)間に比べて、和歌山という場所がそこまで規模の大きな場所では無かった為に、輸送需要に対して過大な供給過多であった事は否めませんでした。その為、両社は少ない乗客を取り合う為の消耗戦とも言えるべき戦いをしていたという見方もあり、むしろ阪和電鉄の経営は不振でした。南海は市街地を通っていたので、阪和間の乗客より地元の乗客の輸送で経営は成り立っており、1940年についに阪和電鉄は南海電鉄に吸収合併、南海山手線となります。その後、1944年に戦時買収によって国有化、国鉄阪和線となったのでした。この間、南海鉄道は関西急行鉄道と合併して、一時的に近畿日本鉄道保有の路線となりましたが、戦後の1947年に旧南海鉄道の路線については南海電気鉄道に分離しています。
 こうして阪和間は複雑な歴史を経て、国鉄(後にJR)と南海電鉄の2社体制という、現在の形にほぼ近付きます。元々私鉄であったという阪和線だけに、沿線には私鉄らしい面影がどこか残っていて、国鉄標準の2面3線構造の駅がなく、2面4線が主要駅の標準となっているのも阪和線らしい光景です。また、起点の天王寺駅の阪和電鉄の頃から使っている阪和線専用のホームも私鉄らしい風景と言えるでしょう。
 そんな阪和線ですが、現在、車両置き換えの過渡期にあります。以前は国鉄からの車両ばかりが台頭していましたが、1994年に日根野駅から関西国際空港へのアクセス線が開通した事を切っ掛けに、3扉転換クロスシート車の223系が大量投入。それは225系へと引き継がれ、この時は快速列車に優先的に投入されていましたが、快速優先のダイヤになったのと、普通列車にも223系、225系の充当が開始された事で、旧国鉄型の103系、205系は2017年度までに置き換えられる事になりました(後記…103系は2017年7月末をもって、羽衣支線を除いて全車運用を離脱しました)。
 特に103系は、以前は東京等でもよく見た車両でしたが、現在ではJR西日本とJR九州でしか見る事が出来なくなってしまった車両です。JR九州の車両は地下鉄直通用という少し特殊なものなので、純粋な?103系は、今やJR西日本にしか存在しなくなったと言っても良いでしょう。それでも、まだまだ大量に残っているという印象だったのですが、今回の施策を聞き、直ぐさま阪和線を取り上げようと思ったのでした。この施策は阪和線だけではなく、恐らく他の路線にも波及していくと思われますので、今後は大阪のJR路線を取り上げる事も多くなりそうですね(笑)。…という事で、現在の状況も踏まえた阪和線の様子をお伝えしたいと思います。どうぞ御覧下さいませ!


 ●日時…2016年10月30日
 ●距離…63,0km
 (天王寺駅〜和歌山駅…61,3km、鳳駅〜東羽衣駅…1,7km)
 ●駅数…36駅(東羽衣駅を含む)

 阪和線の天王寺駅は、前述のように地上に阪和線専用の私鉄のターミナルらしい頭端式ホームがあり、以前からそこでの列車発着が行われていましたが、1989年から特急『くろしお』号を中心に、JR関西本線が発着するホームへの入線も可能とし、特に関西国際空港開業後は特急『はるか』号、関空快速等々、関西本線ホームから発着する列車が大幅に増えています。阪和線と関西本線を結ぶ連絡線も最初は上下線で1本の線路を共有していましたが、後に上下線で1本ずつに増設されました。

    

    

 朝夕ラッシュ時でこそ地上ホームの発着はまだ多いですが、日中は3分の1以上が関西本線のホームから発着します。その主な列車は関空・紀州路快速で、特急列車と共にそのままJR大阪環状線の外回り線に乗り入れて、前者は環状線を1周して再度天王寺駅まで、後者は貨物線を使用して新大阪駅、京都駅まで到達します。大阪の“キタ”に向かうのは便利な列車であり、従来はこの天王寺駅で地下鉄に乗り換えて向かったものでしたが、現在では便利な直通列車に乗車する人が増えています。故に関西本線ホームでの列車系統は複雑で、関西本線の列車も大阪環状線に乗り入れる列車が多数あるので注意が必要です。

    

 …とは言え、ダイヤは2011年3月からだいぶシンプルになりました。阪和線と関西本線、そして乗り入れ先の大阪環状線で併せて15分サイクルを基本とし、大阪環状線内に乗り入れて環状線を1周する快速(阪和線が関空・紀州路快速、関西本線が大和路快速)がそれぞれ1本、阪和線内と関西本線内で完結の快速がそれぞれ1本、普通もそれぞれ1本、そして大阪環状線内をずっと環状運転している普通が1本…という感じです。これに1時間に2〜3本の特急が加わります。15分サイクルで、それぞれの列車で接続のタイミングも同じなので、何度か利用すると概要が分かってくるようなダイヤだと思います。

    

 それでは天王寺駅を普通列車で出発してみましょう。車両は青1色の103系。もう残数が少なくなってきた車両でもあります。日中のダイヤは前述のように15分サイクルに普通は1本しか走っていないので、少し本数が少ないかもと思いますが、車内はガラガラの状態でした。対して快速は、関空・紀州路快速と線内快速で併せて2本と、特急も走っているのでどうしても優等列車待避が多くなります。逆に言えば阪和線は待避設備がある駅も多いので、このダイヤが可能だとも言えましょう。日中の普通は鳳駅行きのみの設定で、途中、鶴が丘駅(左上写真参照)、杉本町駅(下写真参照)、上野芝駅で待避を行います。

    

 国鉄型と言われる103系や205系は、もう普通列車でしか見る事が出来なくなりました。関西国際空港の開業後、転換クロスシートを持つ223系、そして後継の225系が次々に導入され、現在では普通列車ですら223系、225系で運転される列車が多くなっています。普通列車は4両編成と6両編成があり、最初は4両編成の車両から置き換えが始まりました(快速に使われる車両が4両編成が基本だったので)。しかし、2016年7月に、ついに6両編成の置き換え用として225系5100番台が登場し、103系や205系が姿を消すのも時間の問題となったのでした。関西では実は、205系は103系以上に希少な車両(元々少数しか投入されなかったので)であり、今回の“さんぽ”でも姿を見れて(下写真参照)ホッと一安心したくらいでした。JR東日本の205系とは違ったリニューアル化が行われている車両でもあります。

    

 杉本町駅を出ると、大和川を渡って堺市に入ります。川を渡りきった所に浅香駅があり、ここは阪和線の撮影地として有名な場所でもあります(下写真参照)。行き交う車両の種類は前述のように多く、まずは先程の205系と103系。205系には1000番台という、前面窓の大きいタイプもあり、103系には前面の低窓タイプと高窓タイプとあります。
 そして、当初は快速用で、現在では阪和線の特急以外の全ての列車を担う事になった223系と225系。こちらも223系は初期の0番台(左下写真参照)と、後に登場した2500番台(右下写真参照)が、225系は5000番台と5100番台があり、それぞれ前面のデザインが異なります。この記事には全ての“顔”を写真に掲載しているので、細かな違いをチェックしてみて下さい。

    

    

 浅香駅を出ると、快速としては天王寺駅発車以来の停車駅となる堺市駅に着きます。主要駅の1つではありますが、2面2線の駅で、当駅で優等列車等の待ち合わせを行う事は出来ません。また、堺市としての代表駅は南海高野線の堺東駅や南海本線の堺駅で、阪和線の堺市駅は地理的には不利な位置にあります。ただし、当駅に停車する関空・紀州路快速は天王寺駅を越えて大阪駅に直結しています。当駅から梅田地区、そしてそこから発着する京都、神戸、北陸、山陰方面に向かうには、ここ堺市駅からの利用が便利かもしれませんね。また、223系、225系は転換クロスシート車なので、旅情気分が盛り上がるという見方もありましょう。これらは番台区分を設けて阪和線系統専用車両となっており、関西国際空港へのスーツケース利用者を考慮して片側が1列席になっているのが特徴です。

    

 続いて三国ヶ丘駅も、特急以外の全ての列車が停車しますが、やはり待避設備がありません。ここは南海高野線との乗り換え駅ともなっており、終日乗り換え客が多いです。以前は区間快速と普通しか停車しない駅で、ホームも6両編成分しかありませんでしたが、1999年5月に快速も停車。ホームも8両分まで伸ばされました。実は阪和線の途中駅で、一番乗降客数が多い駅でもあります。
 対する南海高野線は、準急以下のみ停車する駅で一番乗降客数が多い駅となっています。利用者の半分以上が阪和線との乗り換え客ですが、遠近分離や経営戦略上から、区間急行以上の列車は停車しません。ここが何とも関西の私鉄らしい部分を感じます。三国ヶ丘駅は、南海電鉄の中でも難波駅、新今宮駅、天下茶屋駅、堺東駅に次いで、5番目に利用者の多い駅。それでも通過列車の設定が多いのは興味深いところです。

    

 …さて、列車は鳳駅に着きます。鳳駅は車両基地も併設されていて、阪和線の拠点となる駅の1つでもありますが、ここから阪和線の支線である、阪和線東羽衣線、通称羽衣線が分かれているので、こちらに少し寄り道してみましょう。寄り道…とは言え、羽衣線は鳳駅、東羽衣駅のみの1駅区間からなる、非常に短い路線です。鳳駅のホームも、本線とは別の場所である5番線から出ていて、ホームの時点で既に本線から分かれてカーブしているのが特徴です。

    

 羽衣線は終日、線内だけを往復させる専用の103系3両編成が使用されています。この記事を書いている2017年8月の時点で、阪和線の103系は羽衣線を除いて運用離脱してしまいましたが、これは他の羽衣線のホームが3両編成までしか対応出来なく、現状でその編成の車両が新しく造られていないからです。しかし、鳳駅、東羽衣駅とも、現在ホームを4両化させるように工事がなされていて、これが完成すると羽衣線での103系も引退になるかもしれません。車両の世代交代は着実に進められているようです。

    

 鳳駅を出ると、程なく線路は高架に上がります。この辺りは1974年に高架化されました。そもそも羽衣線は、ここ浜寺辺りの海水浴客を運ぶ為に、阪和鉄道時代に既に開通されていた路線で、短いながらもその歴史は本線と変わりません。現在では通学客が多く、東羽衣駅のすぐそばには南海本線の羽衣駅があり、乗り継ぎ客も多いとの事です。

    

 東羽衣駅で終点なので高架は途切れ、すぐ向こうには南海本線の高架橋も見えます。かつての浜寺海岸への海水浴客を巡っても、南海鉄道との競争が繰り広げられたようで、ここにも関西の鉄道らしい風景があったのでしょう…。ちなみに2020年には、東羽衣駅と南海本線羽衣駅を2階部分で結ぶ歩行者デッキが完成するそうです。

 さて、本線に戻りましょう。日中の普通列車は鳳駅で折り返してしまう代わりに、ここからの各駅への停車は区間快速が担います。前述のように、103系、205系は基本的に普通列車専用になってしまったので、日中は鳳駅以南ではこれらの車両は見られないという事になってしまいました。

    

 鳳駅を出ると高石市に入り、すぐに和泉市へ。そして泉大津市との市境が入り乱れている部分に突入します。泉大津市に駅の設置は無いですが、路線周辺の市境が入り乱れている為に、立体化が進まない要因になっているのだとか…。その先で岸和田市に入り、待避線のある東岸和田に着きます。以前は快速停車駅のわりに狭い駅でしたが、2015年2月に下りホームが高架に移行され(左上写真参照)、2017年10月には上りホームも高架化されるそうです。
 この辺りにくると、各駅停車となる区間快速の乗客も疎らで(右上写真参照)、東岸和田駅では日中は関空・紀州路快速との接続も行うので、概ね乗客は快速に移っていく感じでした。この後は更に南下し、泉佐野市に入って初めての快速停車駅、熊取駅を通り、関西国際空港への玄関口である日根野駅に到着します。

    

 日根野駅ではJR関西空港線が分かれ、関空・紀州路快速は当駅で切り離し、それぞれ関西空港方面と和歌山方面へと振り分けられます。紀州路快速は関空快速より後に設定された列車で、紀州路快速設定時に、関空快速と日根野駅以北は併結されるという今のスタイルになりました。登場時の編成は5両編成と3両編成があり、それらを繋げて8両編成で運転。時間帯によって、利用者数に合わせてそれぞれの編成の行き先を変える工夫をしていしましたが、現在は車両の組み替えや新造を行い、関空・紀州路快速に使われる編成は全て4両編成に統一させ、車両の運用がシンプルになりました。

    

 故に、快速の車両は223系0番台、2500番台、225系5000番台、5100番台と種類が多いのですが、これらは全て共通運用され、車両運用の効率も格段に上がりました。ちなみに、4両編成の車両は日中の区間快速、普通列車にも使われるので、その効率はより高いものとなっています。ちなみに、6両編成の車両も存在しますが(5100番台のみ)、これは前述の103系、205系置き換え用だったので、関空・紀州路快速には基本的に使われません。

    

 鳳駅から各駅停車となっていた区間快速は、日中は当駅で折り返しとなります。そして関空快速も紀州路快速も、当駅から各駅停車となります。他に設定されている列車は特急列車となりますが、『はるか』号は関西空港駅方面に行くので、この先阪和線を通るのは、各駅停車となった紀州路快速と、特急『くろしお』号という事になります。前述のように15分サイクルのダイヤなので、1時間あたりに紀州路快速が4本(しかも4両編成)の運転と、1〜2本の特急列車のみとなり、少しばかりローカル度が上がっていく区間になると言えるかもしれません。以前の紀州路快速は日根野駅〜和歌山駅間でも快速運転を行っていましたが、2011年、2012年と段階を経て、全ての列車がこの区間では各駅停車となりました。

    

 日根野駅には更に、吹田総合車両所日根野支所と呼ばれる、阪和線の車両基地への線路も分かれていきます。故に日根野駅は運転上の大拠点駅とも言えましょう。ここを境にローカル度が増していくのも、こんな背景があるからかもしれません。この日根野の車両基地は広大で、次の駅である長滝駅まで“さんぽ”してみましたが、“さんぽ”中も線路越し車両基地は見え隠れし、結局は長滝駅からも基地の終端が望める程でした(右下写真参照)。

    

    

 この辺りに来ると、車窓は田園地帯が目立ってくるようになります。駅に近付くと、住宅地も出てくる…といったような感じでしょうか。こうして路線は泉南市に入り、ラッシュ時に運転される快速(紀州路快速とは別種別)の停車駅(一部は特急も停車)、和泉砂川駅に着きます。

    

 和泉砂川駅を出ると、徐々に勾配を上げていきます。この先は南海本線のルートとは大きく異なっており、孝子峠に向けて進路を南西に取り続ける南海本線に対し、阪和線は阪南市に入ると雄ノ山峠に向けて南に進路を取ります。そして和泉鳥取駅を過ぎると、いよいよ長い山岳区間へと入ります。阪和自動車道とも似たようなルートとなり、山間部へ…。カーブも多くなり、春には多くの花見客が訪れる山中渓駅へ着きます。ここまでが大阪府で、阪和線の駅では大阪府の最南端に位置しています。
 全体の列車の本数が少なくなるので、特急列車の存在も俄に大きくなってきます。ここを走る特急は『くろしお』号のみですが、『オーシャンアロー』という愛称を持つ283系(右下写真参照)や、2012年に登場した287系(左上写真参照)、元々JR北陸本線で活躍するも、北陸新幹線開業の為に余剰となった683系を改造した289系等、その車両種類はバラエティに富んでいます。

    

 山中渓駅は写真の通り小さな駅で、大阪府内におけるJRの路線では唯一の無人駅、且つ大阪府内のJRの駅で一番乗降客数の少ない駅です。この後は和歌山県に入り、トンネルの連続となりますが、長い雄ノ山トンネルを抜けると右カーブし、左手に和歌山平野を望みながら、徐々に高度を下げていきます。この山越えとも言える山中渓駅からこの先の紀伊駅までの区間は、阪和線で最も長い駅間である 8,1km となっています。

    

 更に高度を下げ、六十谷駅に着きます。紀伊駅、六十谷駅は快速停車駅です。この先で紀ノ川を渡り、いよいよ和歌山市街に入ってきたという風景になります。もう山越えは終わっており、後は和歌山平野をひた走るという感じです。

    

 …阪和線の“さんぽ”も、いよいよ終わりが近付いてきました。無人駅の紀伊中ノ島駅を過ぎ、和歌山市駅方向から伸びてきたJR紀勢本線を越え、更に左側にはJR和歌山線の線路が近付いてきて、この3路線で並行して走ると和歌山駅に到着します。
 和歌山駅は、実質的にも和歌山市の玄関駅になりました。以前はどちらかというと南海電鉄の和歌山市駅の方が需要が高かったのですが、紀州路快速が大阪環状線内に直通運転を始めると、南海電鉄では直通で行けなかった梅田地区に乗り換え無しで行けるようになり、阪和間の都市間輸送は南海電鉄からJR西日本へ大きくシフトする事になったからです。南海電鉄の阪和間優等列車本数も、最盛期と比べて半減してしまいました。
 ただし、中之島や船場等の大阪市中心部への移動や、堺や岸和田といった沿岸部に発達した市街地への移動は、依然として南海電鉄の方が有利なので、阪和鉄道時代からの阪和間の競争は現在のところ、利用条件によって互いにシェアを分け合っている…という感じでしょうか。

    

 …線路はこの先も紀勢本線へと続いていて、特急『くろしお』号を始め、朝夕の快速の一部も紀勢本線に乗り入れています。車両と共にダイヤも変化し続けた阪和線。これからはどのような展開を見せ、阪和間を輸送し続けるのか、今後も見守っていきたいと思います!

 ☆JR西日本のHP…https://www.westjr.co.jp/

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 ついに40回目となる『鉄道さんぽ』。今回は、神奈川県を走る大手私鉄、相模鉄道の本線を取り上げたいと思います。相鉄線という略称で知られていますが、元々の相模鉄道というのは、現JR相模線の茅ヶ崎駅〜橋本駅間を開業させた私鉄でもありました。現在の相模鉄道本線の区間である横浜駅〜海老名駅間は、神中鉄道という鉄道会社が開通させたもので、1943年に神中鉄道が相模鉄道に吸収合併される形で、相模鉄道の路線となったのです(当時は、相模鉄道神中線と呼ばれていました)。
 しかし、この翌年に茅ヶ崎駅〜橋本駅間の路線は、戦時体制下における東海道本線と中央本線を結ぶバイパス路線として国有化され、相模鉄道の路線は横浜駅〜海老名駅間だけとして留まります。こうして、当時経営の基盤であった茅ヶ崎駅〜橋本駅間を失ってしまうものの、厚木飛行場の開設等により、神中線の乗客や貨物輸送は格段に増えたそうです。
 ただ、元々神中線の輸送力は脆弱であり、とても自社だけでは戦時中の混乱期を乗り越えられないと判断され、この時の親会社であった東急へ鉄道事業を委託させ、戦時中の1945年から終戦後の1947年まで乗り切る事になったのでした。この時は東急厚木線や、東急神中線等と呼ばれていたそうです。そして1947年に独立。新たな相模鉄道として、戦後の再スタートを切る事になったのでした。
 戦後は電化、複線化等が進んで輸送力が増え、沿線の宅地化も進んで乗客も増えてきました。その後1976年には支線となる、いずみ野線が開業。1990年にいずみ中央駅まで延伸された際には、日本民営鉄道協会における大手私鉄としての要件を満たした為、この年に正式に大手私鉄の仲間入りを果たしています。
 長らく他社との乗り入れは行っていなかった相模鉄道でしたが、2004年にJR東日本との相互直通運転計画を発表、後の2006年には東急との相互直通運転も行うと発表され、これら2路線を併せて『神奈川東部方面線(仮称)』が、現在実現に向けて工事が進められています。これは、本線の西谷駅を分岐点とさせ、東方面に新たな路線を建設、羽沢付近を走る東海道貨物線に合流させ、そのまま湘南新宿ラインに繋げるというのが1線、羽沢から東海道新幹線の新横浜駅を通り、その先の日吉駅で東急東横線や東急目黒線に繋げるのが1線と、どちらも壮大なものです。これが実現すると、二俣川駅〜渋谷駅が直通で35分、二俣川駅〜品川駅間が27分になると案内され、現在より飛躍的に便利になる事は言うまでもないでしょう。
 ネックは、このルートがメインになると、今までターミナルだった横浜駅を通らない乗客が増えてしまう事であり、この部分は相模鉄道にとっても苦渋の選択だったとは思われますが、それよりも都内に直通出来るというメリットは大きいと思われます。JR線との直通は2019年、東急線との直通は2022年の開通を予定しており、これが完成すると、首都圏の鉄道地図がまた大きく塗り替えられる事にもなるでしょう。正に大きな変革の時期に来ている相模鉄道。直通に向けた準備の進捗度合いを探索しつつ、今の相模鉄道の風景を見ておきたいと思います。どうぞ御覧下さいませ!


 ●日時…2016年8月14日 ●距離…24,6km ●駅数…18駅

 相模鉄道(以下、相鉄線)の横浜駅ホームは、自社の駅ビルである相鉄 JOINUS 2階に位置します。4面3線のいわゆる頭単式ホームで、駅を出るとJR東海道本線と併走し、地上に降り立つとすぐに平沼橋駅となります。横浜駅ホームの海老名寄りに行くと、既に平沼橋駅は見えてしまうくらいの距離に位置します(右下写真参照)。

    

 以前の相鉄線の列車種別は急行と各停のみで、急行は二俣川駅で各停に接続するという極めてシンプルなダイヤ構成だったのですが、1999年に快速が、2014年には特急が新設され、全体の速度向上が図られています。故に、横浜駅を発着する列車も多様になりました。車両の種類も随分と増えたようにも思いますが、JR東日本の車両をベースに造られた10000系より以前の車両の車内には、ドア横に鏡とパワーウィンドウが付いています(左下写真参照)。ドア横の鏡については、以前の『鉄道さんぽ』において、新京成電鉄の車両でも紹介させて頂きましたが〔鉄道さんぽ 35.(新京成電鉄、新京成線編)参照〕、どちらも未だに珍しい特徴と言えましょう。

    

 さて、東海道本線とは西横浜駅まで併走します。この駅の横には留置線があり、回送列車等が留置されている姿をよく目にします。ここで東海道本線と分かれて右カーブし、相鉄線の線路は北西へと進路を変えていきます。

    

 
そして高架へと上がり、天王町駅へ。ここはかつて、東海道の程ヶ谷(保土ヶ谷)宿が存在していた付近でもあります。以前から高架駅でしたが、現在、この先の星川駅までの連続立体交差事業により、駅構内も含めて工事中という感じでした。

    

 そして工事中の星川駅へ。2面4線のホームを持ち、快速の停車駅でもあります。当駅で各停は朝ラッシュ時を中心に特急、急行の通過待ち、快速の待ち合わせを行い、日中も各停の一部が当駅で特急に抜かれます。“さんぽ”時は正に高架化工事中という感じでしたが、2017年3月に下りホームが高架化されました。2018年秋には上りホームの高架化も完成する予定です。

    

 ここで、停車中だった8000系(右上写真参照)の車内を見てみましょう。JR東日本の車両をベースにした10000系、11000系以前の車両は相模鉄道のオリジナリティが強く、先程紹介した鏡やパワーウィンドウ仕様もそうでしたが、7000系の一部や9000系、そしてこの8000系の車両には、編成で2両(5号車と8号車)分だけ、車内がセミクロスシート(右下写真参照)になっているのも特徴なのです。

    

 ロングシート車(左上写真参照)もセミクロスシート車も外観は変わらず、扉の数も4扉車となっています。
今でこそ、JR東日本のE231系やE233系の近郊形仕様の車内の一部にはセミクロスシート車があり、珍しい存在ではないのですが、相鉄線のこの車両が登場した当時、セミクロスシート車両というと2扉車や3扉車が常だったので、4扉車なのにセミクロスシート仕様というこの車両には驚いたものでした。10000系、11000系はJR東日本の通勤形仕様車をベースにしている為か、オールロングシート車のみとなっているのですが、今後、湘南新宿ラインに直通させる車両…という観点からいくと、セミクロスシート車復活も有り得るかもしれませんね。

    

 さて、その湘南新宿ラインや東急東横・目黒線に直通させる工事がたけなわなのが、写真の西谷駅付近です。この辺りは帷子川の小さな渓谷地帯でもあり、平野部の少ない部分でもあるのですが、元々2面4線あった西谷駅のスペースを利用し、当駅を
『神奈川東部方面線』との分岐駅に設定したのでした。現在では元々あった待避線部分が撤去されていますが(右下写真参照)、ここが将来は『神奈川東部方面線』が発着するスペースに充てられる事でしょう。

    

 西谷駅上では東海道新幹線とクロスしていますが、勿論新幹線に駅はありません。…とは言え
『神奈川東部方面線』が完成すると、ここから新横浜駅までスムーズに向かう事が出来るので、東海道新幹線への乗り換えも便利になる事でしょう。一体、完成時にはどのような景色になっているのか。本当に楽しみでもあるのでした。

    

 さて、鶴ヶ峰駅を過ぎ、本線のダイヤ上の中心の駅である二俣川駅に着きました。2面4線のホームを持ち、全ての定期列車が停車、そして当駅から相模鉄道いずみ野線が分岐。接続も概ね良好です。ここを始発とするいずみ野線列車が終日設定されている為、横浜駅寄りには引上げ線も設置されています(左上写真参照)。

    

 現在、この駅は大幅なリニューアル化が行われており、ここでも工事がたけなわでした。やはり将来の直通運転に向けてのものでもありましょう。直通運転が開始されれば、この駅は今以上にダイヤ上で重要な駅となり得そうです。今後の動向を見守っていきたいものです。
 二俣川駅を4線で出た線路は、真ん中の2線がいずみ野線方面へと向かいます。いずみ野線の線路は徐々に上り勾配となり、下り本線を跨いで南西方面へ、本線はそのまま西方面へと進んでいきます。ここでは今後の相鉄線車両の標準カラーとなる、“ヨコハマネイビーブルー”という塗装を纏った9000系を撮影する事が出来ました(右下写真参照)。これは、塗装だけではなく、内装も含めてリニューアルされており、更に言うと、2017年12月に創立100周年を迎える相鉄の「デザインブランドアッププロジェクト」に沿った仕様となっています。つまり、車両だけでなく、駅のデザインや制服のデザイン等、正に会社全体を含めてのプロジェクトであり、正に相模鉄道は新しい時代を迎えようとしているのかもしれません。その取り組みは見ていて頼もしい限りでもありますね。

    

 暫く谷沿いの住宅地の中を通り、希望ヶ丘駅、そしてこの次の三ツ境駅が、相鉄線で一番標高の高い所でもあります。この先は相模野大地の小高い丘の上を走るようになり、都心直通構想を見越して2面4線化された瀬谷駅を通った後、境川を渡って地下に潜り始めます。この先が地下駅の大和駅で、元は地上駅でしたが、地上の道路の渋滞緩和等の目的で地下化されました。小田急江ノ島線との乗り換え駅で、両社の共同使用駅ともなっている為か、お互いの路線は改札を通らずに行き来が可能です。

    

 大和駅を出て暫くすると地上に出ます。この辺りは、厚木飛行場のすぐ脇でもあり、飛行訓練の飛行機が轟音で飛んでいるのをよく目にする事が出来ます。その轟音は車内に居ても聞こえる程です。そして東名高速道路を跨ぐと相模大塚駅です。この先、さがみ野駅までずっと道が並行しているので、軽く“さんぽ”してみる事にします。

    

 この駅間には緩いカーブがあり、迫力ある列車の行き来をすぐ横の道路から気軽にカメラで収める事が出来ます。左下写真が、JR東日本E233系をベースにした11000系で、この車両や10000系(JR東日本E231系がベース)が登場した時、前面デザイン以外、殆どそれはE231系やE233系そのもので、それは驚きました。車両の標準化は私鉄とJRの間でも行われるようになって、いつかJRも私鉄も同じ車両ばかりになってしまうのではないかと、当時は考えさせられたのでした。確かに部品の共通化は沢山あれど、各社で個性を出すようにもしていて、今ではその部分を見るのが楽しくなってきた感じではあります。

    

 さがみ野駅を出ると、かしわ台車両センターが隣接しているかしわ台駅に着きます。車両基地に隣接しているので、ここでは多くの留置車両を見る事が出来ますが、ここではこれらの車両を見つつ、この次の終点の海老名駅まで“さんぽ”してみようと思います。

    

 当然、現役の車両が数多く見られますが、静態保存されている車両も結構多く、かつての現役車であった6000系のトップナンバー車(左下写真参照)や、6000系のアルミ車体試作車(右下写真参照)等々、付近の道路からも容易に見る事が出来る場所に置かれています。これらの車体は再塗装も行われており、見た目にも綺麗な状態で保存されているようでした。

    

 かしわ台駅を出た路線は台地を下るように走り始め、そして築堤で目久尻川を渡ります。この辺りが相鉄本線で最も風向明瞭な所でもありましょう。風向明瞭…とは言え、近くには団地群があり、住宅地のエリアに違いないのですが、辺りは開けており、一瞬のどかな風景を望む事が出来ます。

      

 歩いていると、この目久尻川を渡る道に河童の銅像がありました。どうやら海老名の伝承によると、昔この川に河童が住み着いて悪さをしていた為、地元の人がこの河童を捕えて目を穿り出してしまっと…。それでこの川を目穿川と呼び、それが転じて「目久尻川」となったのだとか。昔話しだとは思いますが、興味深い言い伝えでもありますね。

    

 さて、目久尻川を渡って団地群を抜けると、その先に線路が分かれるポイントが見えてきます(右上写真参照)。この分岐先が相鉄厚木線と呼ばれるもので、相鉄線の前進となる神中鉄道が厚木駅〜二俣川駅を開業した時の路線です。つまり、この路線を辿ると現在のJR相模線の厚木駅に通じていくのです。
 この厚木駅までの路線の開業後、このポイントから海老名駅までの路線が開業し、その時にこちらの路線は旅客営業を中止して、貨物線という区分けになったのでした。実際に貨物も運転されていましたが、1998年9月をもって廃止。…とは言え、JRと線路が繋がっている利点を生かし、新製・更新車両の車両輸送がこの路線を介して行われているので、相鉄にとっては旅客営業こそ行っていないものの、重要な路線である事は間違い無いと言えるでしょう。


    

 厚木線は、前述のJR相模線の厚木駅まで向かうので小田急小田原線を越えますが、相鉄本線は小田急線に寄り添うように勾配を下っていきます。そして小田急線と併走し、その車両基地である海老名検車区が見えてくると、終点の海老名駅となります。かつては小田急線へ直通運転も行っていましたが、1964年に休止されました。

    

 これで相模鉄道本線の“鉄道さんぽ”は終了となります。こうして乗ってみると、横浜近辺を除いて工事中やら再開発中の場所が多く、今はされていなくても、かつて再開発したであろうという場所が多かったのが印象的でした。かつては相模川で採取された砂利の輸送を主眼とする目的で造られた路線で、沿線もさしたる産業も無い農村ばかり…。しかし戦後の宅地開発により、その経営は常に新しいものへ、新しいものへ…と向けられいたようにも思います。オリジナリティ溢れる自社車両もそうですし、創立100周年に向けたプロジェクトもそうでしょう。これまでは横浜駅発着で、神奈川県のみを走る私鉄でしたが、これからは相互直通を見据え、関東各エリア横浜郊外を結ぶ路線という見方をされるかもしれません。今後、より多くの人の目に留まる事になるであろう相模鉄道。自分もその発展を見守っていきたいと思います!

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 今回の『鉄道さんぽ』は、東京を代表する、いや、日本を代表すると言っても良いくらいの知名度、重要性の高い路線である、JR東日本の山手線を取り上げたいと思います。東京に住んでいると、『まあるいみどりのやまのてせん♪』のCMでお馴染みで、1周ぐるりと回る環状運転を行っている事は誰でも知っていると思いますが、山手線という路線名の正式な区間としては、実は環状線にはなっていないというのは御存知でしょうか?
 これには山手線の歴史を紐解く必要がありますが、この路線のそもそもの建設は、日本文明開化期に誕生した私鉄、日本鉄道によるものでした。既に開通させていた上野駅〜前橋駅間の路線(ほぼ、現在のJR東北本線とJR高崎線〔鉄道さんぽ17.(JR東日本、高崎線編)参照〕に相当)と、当時横浜駅方面から新橋駅まで開通していた東海道本線〔鉄道さんぽ 32.(JR東日本、東海道本線編)参照〕を繋ぎ、国内有数の貿易港だった横浜港と、関東地方内陸部の各地及び、東北地方や北陸地方へ物資の輸送が目的とされたのです。距離的には、上野駅〜新橋駅間を繋げば早そうですが、この辺りは人口密集地域であったのと、地盤の緩さが災いして建設が難しいと判断され、品川駅(及び大井町駅)〜赤羽駅という、当時まだ街外れであった山手地域に建設、1885年に開業されました。当時は品川線と呼ばれ、今度はこの路線と常磐線方面を結ぶ路線として、池袋駅〜田端駅間の豊島線が建設、この路線が開業される時に品川線と豊島線を合わせて、山手線という呼び名が使われました。1901年の事です。
 その後、上野駅〜新橋駅間の路線も繋がり、1925年にはついに環状運転が始まりました。この時、余った池袋駅〜赤羽駅間は支線のような存在になりましたが、山手線の一部という扱いでした。これが1972年に赤羽線という名称になり、山手線とは完全に分離。現在はこの区間はJR埼京線として案内されていますが、正式な路線名は今でも赤羽線として存在しています。こういった経緯があり、山手線の正式区間は品川駅〜池袋駅〜田端駅となり、田端駅〜東京駅間はJR東北本線、東京駅〜品川駅はJR東海道本線へ乗り入れているに過ぎないのです。勿論、案内状では一括して「山手線」となりますが、こういった側面から路線名を見てみるのも面白いものです。
 当初は貨物線としての意味合いが強く建設された山手線でしたが、東京市街地の拡大により、市街を巡る大都市の最重要路線としての性格に変わってきました。1968年には10両編成での運転が始まり、1971年には10両編成に統一、1991年には全11両編成化も完了して現在に至っています。車両自体の変遷を見ても、当時の国鉄から現在のJRに至るまで、新車が優先的に投入されるような状況となっており、国鉄時代の101系、103系から、205系の初投入、山手線仕様のE231系500番台の投入、そして最新式のE235系の初投入も行われています。205系の時から、混雑時の乗降時間緩和の為に6扉車も一時導入されましたが、ホームドア設置に伴い、現在は全て4扉車での運行となっています。
 そして、量産先行車として現在1編成だけ導入されているE235系ですが、先日、量産化が決定して、2017年春に追加投入が決定、2020年度までに山手線は全てE235系での運行になる事がアナウンスされました。変化の多い山手線ですが、使用車両の置き換えは、また路線に新しい時代を呼び込みそうです。同時に、今見られているE231系500番台は他路線に移っていくので、こちらの山手線からの引退のカウントダウンが始まった事にもなります。今ならではの共演、そして変化の多い沿線も含め、どうぞ山手線のさんぽをお楽しみ下さい!


 ●日時…2016年6月15日 ●距離…20,6km ●駅数…17駅

 山手線の“さんぽ”区間は正式区間に則り、品川駅〜池袋駅〜田端駅で行いますが、それらの乗車前にJR大井町駅付近に位置する東京総合車両センターを見ておきましょう。ここは車両基地の山手電車区と、車両工場の大井工場が合併して発足した車両基地・工場で、その車両基地部分には山手線で使用される全ての電車が配置され、定期検査や修繕工事等が行われています。車両基地部分は大井町駅を出てすぐの細い道路から確認出来ますが(下写真参照)、ここは2階建て車両基地となっており、外観で容易に見られるのは高架の「上収容線」となります。

    

 すぐ脇をJR東海道本線が通っており、JR京浜東北線の列車等、頻繁に行き交う列車を眺めながらの光景となります。この車両基地は、写真奥に見えるビル群の付近に位置する大崎駅に通じており、故に山手線の列車はラッシュ時を中心に、大崎駅を始発・終着となる列車が数多く存在するのです。言わば、山手線車両の「ねぐら」という事です。

    

 それでは改めて、山手線の起点駅である品川駅に向かいましょう。路線的には起点駅となりますが、当然、この先の東京方面へはそのまま直行し、山手線ホーム上は中間駅のような雰囲気ではある事は言うまでもありません。…とは言え、品川駅のホーム脇には山手線の留置線があり、深夜時間帯には当駅終着列車の設定もあります。また、山手線ホームの東京寄りに、山手線の起点を表す0キロポストが存在します。

      

 品川駅を出て、そのまま東海道本線の線路は先程の大井町駅に向かいますが、山手線は暫くしてから右カーブしてそれらとは分かれ、JR東海道新幹線とJR横須賀線と併走します。カーブは続き、やがてそれらの路線とも分かれて、今度は先程の東京総合車両センターからの線路が近付いてきます。ここまで来ると、品川駅を出た時点で向いていた南西向きから、北西向きに進路を変えており、環状線部分の南端を表現するような感じで大崎駅に到着します。山手線のホームの向こうには、山手貨物線の線路越しに、JR湘南新宿ライン、JR埼京線、東京臨海高速鉄道りんかい線のホームが設けられています。

    

 山手線のホームだけでも、大崎駅は2面4線。これは前述の通り、大崎駅を始発・終着となる列車が多数存在する為で、ラッシュ時には同じホームに山手線の列車が2本並ぶ姿がよく見られます。山手線のホームはホームドア化が各駅で進んでいて、大崎駅もその1つなのですが、当駅始発・終着用に使われている2番線、4番線は今のところホームドアの設置は無いようです。

    

 この先、山手貨物線の線路とは、田端駅手前まで併走します。その線路を使って乗り入れているのが、先程の湘南新宿ラインと埼京線という事です。この先の五反田駅、目黒駅を始めとし、駅によっては山手貨物線にはホームが無く、これらは山手線の快速電車としての役割も果たしている事が分かります。

      

 目黒駅を出ると山手貨物線が電車線をくぐって、併走の配置が進行方向左側から右側へと移ります。この辺りを“さんぽ”して、ついに、現在1編成のみのE235系を写真に収める事が出来ました(左上写真参照)。この日も日中の運用にも入っていたようで良かったです。そのまま恵比寿ガーデンプレイスの西側を通ると、貨物線にも駅がある恵比寿駅となります。同駅に貨物線にホームが設けられたのは1996年の事で、2002年のりんかい線開業までは、新宿方面からの埼京線は当駅で折り返していました(列車はその先の大崎駅付近まで回送され、そこで折り返していました)。

    

 恵比寿駅を出ると、現在再開発真っ最中の渋谷駅となります。恵比寿駅〜渋谷駅間では、以前は東急東横線〔鉄道さんぽ 11.(東京急行電鉄、東横線編)参照〕の線路をアンダーパスしていましたが、現在は地下化され、東横線の地上時代の渋谷駅も見られなくなっています。むしろこの跡地を利用も含めて、渋谷地区の再開発は進んでいると言っても良いでしょう。現在、貨物線(埼京線等)にある渋谷駅ホームは、かなり恵比寿寄りに造られていてアクセスが不便なのですが、この跡地を利用して、山手線のホームと並列する位置に移設させる工事が、跨線橋移設と共に進められており、2020年の完成が見込まれています。また、そのスペースを提供するという目的もありそうですが、現在、外回り線、内回り線でホームが分かれている山手線ホームも島式1面2線ホームになるようです(全体の完成は2027年予定)。

    

    

 渋谷地区の再開発はまだまだ進められていますが、2019年完成予定の地上47階建てにもなるビルが完成すると、また渋谷駅の風景は一変しそうです。ビルの高さは230mと、近くのヒカリエ(右下写真の左奥の高いビル)も高く、渋谷随一の高さになる事は間違いありません。しかも、このビルには屋上展望台が設けられるらしく、何も遮るものが無い景色を提供してくれる事と思います。そんな時にも常に走り続ける山手線は、本当に今まで、色々な風景を見てきたのでしょうね…。

    

 さて、渋谷駅を出ると原宿駅となります。若者の日本文化発祥の地としてのイメージが強い場所でもありますが、駅的には、外回り線に存在する、明治神宮敷地内に通じる臨時ホームが特筆されるでしょう。このホームは基本的に正月期間中のみに使用され、この時には外回り線は通常のホームを使っての乗降が出来なくなります。

    

 また、原宿駅から代々木方面を臨むと、貨物線から分岐されたホームがあるのが目に入ってきますが、これが皇室専用ホームで、以前はここから皇族を乗せたお召し列車が年に数回発着していたものでした。しかし、今上天皇の時代になると東京駅を使用する事が多くなり、そもそも鉄道で移動する事自体が少なくなってきてしまったので、2001年以降、皇族がこのホームを利用した実績は無くなっています。

    

 進行方向右側から、中央線、総武線の線路が寄り添ってくると代々木駅になります。中央総武緩行線と山手線のホームは同位置に存在し、中央総武緩行線の下り線と山手線の内回り線は同じホームで乗り換えが出来るようになっています。前述のように、山手線にはE235系が投入されてきていますが、それに押し出される形で、山手線を走っていたE231系が中央総武緩行線へと転属されています。山手線を走るE231系は前面部のデザインが他のE231系と異なるので、中央総武緩行線では異彩を放つ存在となっています。早速、転属された編成に出会える事も出来ました(左上写真参照)。

    

 そして程なく新宿駅へ到着します。この間に、中央総武緩行線の下り線が山手線を跨いで一番西側へ来て、これらの上下線に山手線が挟まれるような配線となっているので、新宿駅では両線の乗り換えが同一ホームで出来るようになっています。…そんな新宿駅は、ここに乗り入れる全ての鉄道路線を併せると、1日の乗降客数が約347万人と、世界一の数字を誇っており、当然ギネス登録もされています。色々な路線が行き交いますが、JRの登録上の路線としては山手線(埼京線、湘南新宿ライン系の路線が含まれる)、中央線(中央総武緩行線が含まれる)の2路線だけとなっています。それでもホームは1〜16番線まであり、1日中、列車は引っ切りなしに発着しているのです
 …この新宿駅、以前は1〜10番線しかありませんでしたが、1986年に埼京線が新宿駅まで延伸してきた頃から、駅の改良工事が段階的に進められ、拡張もその都度進められてきたのでした。埼京線ホームは山手線とは反対側の端になっていますが、ホーム自体はあまり並行していなく、東側(埼京線側)になるにつれ、ホームは徐々に南寄りずれてきます。むしろ5・6番線ホームの一番北側の位置は、7・8番線ホームの一番南側の位置と同じくらいとなっています。

    

 新宿駅を出ると中央線が西側に分かれるので、既に一番西側に来ていた中央総武緩行線の線路を除き、一気に中央線の線路を乗り越えます。この地点が山手線で一番標高の高い所で、その高さは41m。対して、標高が一番低いのは品川駅で1m〜3m。意外にアップダウンの多い路線である事が分かります。暫く西武新宿線とも並行して、新大久保駅、そして高田馬場駅へ。その後に西武新宿線と分かれ、目白駅へと到着します。

    

 目白駅は、今でも他の鉄道路線と接続しない山手線の駅(他には厳密には新大久保駅ぐらい)となっていますが、開業は古く、山手線開通の1885年から存在する駅でもあります。ちなみに開通当初の駅は、品川駅〜赤羽駅間で、渋谷駅、新宿駅、板橋駅のみ。そして開通2週間後に目黒駅、目白駅が出来ました。今では隣りの池袋駅の方が圧倒的に規模が大きいですが、開通当初は池袋周辺は農村地帯だったのだそうです。この目白駅と池袋の駅の間で西武池袋線の線路を潜りますが、以前はこの辺りには山手線では貴重な踏切が存在していました(今では歩道橋が架けられ、踏切は廃止になっています)。

    

 さて、埼玉方面への玄関口、池袋駅へと到着しました。全体の乗降客数は1日262万人と、これも凄い数字です。JR東日本では、新宿駅に次いで2位の乗降客数であり、ここに乗り入れる東武鉄道、西武鉄道、東京地下鉄(東京メトロ)では第1位の乗降客数となっています。
 山手線のホームは2面4線と大きいですが、これは以前、赤羽方面と田端方面へを振り分けていた名残も大きく、山手線、赤羽線と呼ばれていた時代は、赤羽線の列車は現在の8番線から発着していました。現在では、板橋駅寄りには車庫もあるので、当駅始発、終着の列車が側線側の線路から発着しています。

    

 …ここで改めて、現在の山手線の主力であるE231系500番台を見てみましょう。11両編成で全52編成が揃えられましたが、10号車だけ、外観が若干異なっている事にお気付きでしょうか(左上写真参照)。これは、以前山手線には7号車と10号車に6扉車が組み込まれていたのですが、ホームドア設置に伴い、6扉車は廃止させる方向になったので、それに替わって導入された車両になっています。
 この時、既にJR東日本では後継のE233系が造られていたので、一部その仕様に合わせて造られたのでした。その時、7号車はかなりE231系に寄せられたデザインになったものの、10号車の方はドア部のデザインや内装もE233系寄りのデザインに作られました。これは、今度のE235系が登場した際に、この10号車の車両だけE235系の編成に組み込む為でもあります。
 E235系の登場が決まった時に、まだ新しいE231系500番台の転属先が中央総武緩行線になったのですが、こちらは10両編成なので、1両が余ってしまいます。これがこの10号車の部分で、製造から数年で廃車にするものも勿体無いので、既に、E235系に組み込ませる前提で造られていた事が分かります。…とは言え、E235系は側面の寸法が結構異なるので、E235系の10号車を見ると、少し違和感のある車両が入っているようにも見えるのはご愛嬌でしょうか(全てE235系新造車で揃えられている編成もあります)。

    

 さて、山手線の“さんぽ”も終わりに近付いてきました。ここからは、一時期は豊島線とも呼ばれていた区間に入ります。埼京線(かつての赤羽線)とも分かれますが、貨物線はまだまだ並行しており、こちらは湘南新宿ラインの列車が使用する線路となっています。
 東京唯一の路面電車、都電荒川線と交差する大塚駅、お年寄りの原宿とも言われる?巣鴨駅を通り、駒込駅を過ぎると、ついに貨物線と交差して離れます。そしてこの付近には、今や山手線唯一となった踏切が存在します(左下写真参照)。振り返ってみると、どこかしら何かの路線と並行している山手線でしたが、ここで一瞬、単独の線路になる事で、今でも踏切が残っているのかもしれませんね。

    

 貨物線と分かれた後、右にカーブしていくと、眼下に京浜東北線の線路、そして東北新幹線の高架線越しに新幹線の車両基地が見えてきて、程なくして田端駅に到着します。この間、随分と勾配を降りていくような感じになっているのですが、正にここが山手と下町の境のような地形の場所で、恐らくこの辺りの高台からは、昔は眺めが良かったのではないかと想像も出来ます…。そして地形通り、登録上の山手線という名前はこの田端駅で終了となります。ここからは登録上は東北本線。その本線も前述の車両基地越しを走っており、なかなか鉄道路線名称の複雑さを感じさせてくれますね…(笑)。勿論、実際の山手線は線路が続いており、今度は京浜東北線と品川駅まで並行して進んでいくのでした。

    

 さて、山手線の“さんぽ”はここまでとなりますが、先程、駒込駅〜田端駅間でE235系に乗る事が出来たので、こちらの様子も紹介しておきましょう。一気にモデルチェンジし、車内に掲載されているディスプレイは荷棚の上にまで置かれていました(…とは言え、まだテスト要素が高く、本格的なディスプレイ広告の今後だと思われます)。吊り革も緑になり、優先席エリアはデザイン面でもその存在感を大きく打ち出すようになってました。

    

 …新しく、この時点でまだ1編成しか無かったので、何となく乗り馴れない車両ではありましたが、2020年には全てこの車両になるという事で、一気に時代の変化が訪れる事でしょう。それであっても
『まあるいみどりのやまのてせん♪』で有り続けられるのは嬉しい事です。過ぎ行く街の風景と共に、山手線もまた変化していく事を感じられた1日になりました。

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HN:
竹内大輔(Pf,Key)
性別:
男性
自己紹介:
1980年1月29日生まれ
の生粋のO型(…が、初対面
ではよくA型と見られる)。
3歳(自分では記憶に無い)
からクラシックピアノを始め、
高校ではジャズに目覚め、大学
ではバンドも経験する。現在の
活動は日本全国から海外に及び、
各地のライブハウスやラウンジ、
レストラン、そしてバー等での
演奏は勿論、各アーティストへの
レコーディングや、作曲・編曲
等にも積極的に取り組んでいる。
日本、世界中を飛び回りたい、
鉄道、旅客機、旅行、写真好き。

5月16日(木)
銀座 No Bird
Open…18:00~、
1st…19:30〜、
2nd…21:00〜、
Charge…3500円(ドリンク別)
コースを御予約の方は2500円
Member…(Pf)竹内大輔、
(B)池田暢夫、
(Ds)佐々木俊之

全曲オリジナル収録の最新作、
4th.CD アルバム『Voyaging』
発売中!(2015.4.15 Release)
●詳しい曲解説はこちらへ!

・トレイラー公開中


★タワーレコードオンラインで
 発売中(ボーナストラック
 “In A Sentimental Mood”収録)
 …こちらへ!

★iTunes にて配信中
(“Casa Familia[Pf Solo]”
 限定配信!)…こちらへ!

★Amazon で発売中…こちらへ!


初カバー・アルバム、3rd.CD
『ReInterpret the passage』
発売中!(2013.4.10 Release)
●詳しい曲解説はこちらへ!

・Music Video“Love Theme
 From Spartacus”公開中!


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★Amazon で発売中…こちらへ!


全7曲入り、トータル70分強の
意欲作、2nd.CD アルバム
『Fingers Dance』ライブ会場限定
発売中!(2011.7.3 Release)

   Fingers-Dance-jak.jpg



全曲オリジナルの 1st.CD アルバム 『Pictures』発売中!…在庫僅か!
(2008.10.17 Release)

   Pictures-photo

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SME Recrods からの
メジャーデビューアルバム
『ANTHOLOGY』のMV
“Maximum Shout”公開中!


初のカバーアルバム
『Hybrid ROOTS』に
収録されている、TRI4TH
自身によるセルフカバー
“FULL DRIVE”の MV 公開中


TVアニメ『博多豚骨ラーメンズ』
の ED を飾った TRI4TH 楽曲
“DIRTY BULLET”の MV 公開中


TRI4TH、6th CDアルバム
『4th Rebellion』の MV
“Rebellion”公開中


同“Guns of Saxophone”公開中


TRI4TH & カルメラ
スプリット・ミニ・アルバム
『HORNS RIOT』のタイトル曲
MV“HORNS RIOT”公開中


5th CDアルバム
『Defying』の MV
“Green Field”公開中


同“Sand Castle”公開中


ベストアルバム
『MEANING』の PV
“Dance 'em All”公開中


4th CDアルバム
『AWAKENING』の PV
“Bon Voyage”公開中


同 PV“Freeway”公開中


3rd CDアルバム
『Five Color Elements』の PV “Evervbody Knows That”公開中


2nd CDアルバム
『TRI4TH AHEAD』の PV
“TRY AHEAD”公開中


Music Video
“Introduction Pt.3”〜
“The Return Of Nautilus”公開中


Music Video
“YOISURA”公開中


Music Video
“行きゅんにゃ加那節”公開中


Music Video
“豊年節”公開中


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